*Last Love*


 柔らかな陽射しが麗しい日に、香穂子は吉羅の家に移動した。
 冷たい何もない空間。
 だが、庭の花だけは、本当に美しい。
 この屋敷も、いつか温かい空気に包まれるのを待っているかのようだ。
「日野君、君はこちらの部屋を使いたまえ」
「有り難うございます。とっても嬉しいです」
 香穂子は純粋な笑みを浮かべると、部屋を見渡す。
 こんなにもクラシカルで瀟洒な部屋で暮らしたことなどなかったものだから、つい燥いでしまう。
「ヴァイオリンがとても似合う部屋ですね。嬉しいです」
「ここならヴァイオリンをいくら弾いても構わない。防音がしっかりとしてあるからね」
「有り難うございます! そんな家に暮らしたことはないので凄く嬉しいですよ!」
 香穂子は部屋の窓を開け放つと、ケースからヴァイオリンを取り出して奏で始める。
 春の庭に相応しい曲、その名も“春”。
 部屋の入り口で吉羅は腕を組んだままで、ただじっと聴いてくれている。
 表情は変えないが、ただ聴いてくれているのが嬉しかった。
 陽射しを柔らかく浴びながら、ただ香穂子のヴァイオリンに聞き入っている吉羅は、なんて綺麗なのだろうかと思う。
 まるで完璧に計算され尽くしたような端正な顔を見つめていると、胸が軋むほどにときめいてしまう。
 自分とは住む世界が違うひと。
 完璧までの美貌を持つ吉羅の姿を、香穂子は脳裏に焼き付ける。
 視力を失っても、ありありと瑞々しく思い出すことが出来るように。
 もし“天国”というものがあるとするならば、せこに行っても忘れないように。
 香穂子は脳裏に焼き付けながら見つめた。

 吉羅は部屋のドアに寄り掛かりながら、香穂子の演奏をじっくりと聞き入る。
 本当は、香穂子の姿も同じぐらいに強く見つめていた。
 春の柔らかな陽射しに照らされ、爽やかな風に吹かれながらヴァイオリンを奏でる香穂子は、春の女神のように見えた。
 吉羅に春を告げる、麗しの女神だ。
 ずっとその音を聴いていたい。
 ずっとその姿を見つめていたい。
 ただそれだけだ。
 このまま永遠に見つめていられたら、その音を聴いていられたら良いのに。
 神様は残酷だ。
 外科手術を受けなければ、香穂子には時間がない。
 厄介な手術。
 助かる見込みもないかもしれない。
 自分には手に余る程の難しい手術だ。
 香穂子を手術によって殺してしまう可能性のほうが遥かに大きい。
 そんなリスクを冒すことは、今の吉羅には出来ないことだった。
 だが、こうしてヴァイオリンを奏でる香穂子をいつまでも側において、見ていたいとも思う。
 そのジレンマが、吉羅を苦しくさせていった。

 香穂子が奏で終わると、吉羅は拍手をくれた。
「有り難う、良い演奏だった。荷物を片付けたまえ」
「はい」
 香穂子は頷くと、荷物の整理を始めた。
 総ての荷物を持ってきたわけじゃない。
 ほんの少しの間、海外旅行をするぐらいの荷物だ。
 何時まで吉羅のそばにいられるかが、解らないから。
 本当はずっとそばにいたいところだが、明日、酷い発作が起きて死んでしまうかもしれないし、病院送りになるかもしれないから。
 だから、この一瞬、一瞬、吉羅と一緒にいられる時間こそが、香穂子にとっては何よりも貴重な時間だった。
 明日の朝を迎えることすら、保証はないのだから。
 やがて目覚めなくなるのだから。
 手術を受けない、いや、受けられない以上は、いつ来てもおかしくない。
 本当は泣き叫んでしまいたい。
 癇癪を起こしたい。
 だが、そんなことをしても何にもならないことを、香穂子が一番よく知っている。
 何よりも周りのひとが辛い想いをするのが、香穂子にはたまらなく嫌だった。
 吐き出したところで、報われるものではないことぐらい、香穂子も解っていたから。
「うちのことは、家政婦さんが来ているから、君は何もしなくて良い。私が病院に行っている間は、ヴァイオリンを弾いても良いし、庭を散歩しても、或いは読書をしても良い。自由に使いなさい。ただし、薬だけはきちんと飲みなさい。良いね」
「はい。有り難うございます」
「私も時間がある時には、君のお相手をしよう。コンサートに出掛けるのも良いし、ゆっくりとうちで寛ぐのも良い。何をしたいか考えてくれていたまえ」
「はい、有り難うございます。だったらコンサートに行きたいです。沢山、良い音を聞きたいんです」
「では、早速、手配しよう。コンサートをゆっくりと楽しめるものにしよう」
「有り難うございます!」
 吉羅と何処かに出掛けることが出来るなんて、これ以上に幸せなことはない。
 しかもそれがクラシックコンサートなのだ。
 踊り出してしまいたくなる。
 病室に閉じ込められていた頃、いつも、夢見ていた。
 吉羅と一緒にクラシックコンサートに行ってみたいと。
 ふたりでロマンティックなデートが出来れば、これ以上に嬉しいことはないと、ずっと思っていた。
 こうして叶うなんて、それこそミラクルだと思う。
「楽しみにしています!」
 香穂子が嬉しさを笑顔に滲ませると、吉羅はフッと微笑んだ。

 最短で行けるコンサートを探し、吉羅はチケットを取った。
 誰かのためにこころから想い、準備をするなんて、吉羅には初めてのことだった。
 クラシックコンサートを誘った時の香穂子の顔が忘れられない。
 眩しい程の笑顔で喜んでくれたのが、吉羅には嬉しくてしょうがなかった。
 あの笑顔をもっと見ていたい。
 あの笑顔以上の笑顔が見てみたい。
 吉羅は強く想いながら、チケットを受け取った。
 当日は香穂子が喜ぶような経験をさせてやろうと思う。
 吉羅が最も愛しいと想い始めた少女の笑顔を、もっと高めたかった。

 その夜は帰るのが遅くなった。
 急患が来たからだ。
 今夜は香穂子に挨拶をして眠れないことだけが、唯一の心残りだ。
 先程、香穂子にはメールをして、先に休むようにと言っておいた。
 病人である以上は、無理をさせることは出来ない。
 吉羅が家に帰ると、リビング方向から、スリッパがパタパタと跳ねる音が聞こえる。
 現れたのはやはり香穂子だった。
 時計を見ると、深夜零時を回っている。
 こんなに夜更かしをさせるわけにはいかない。
 吉羅は鋭くも冷たい表情をすると、香穂子を待受けた。
「おかえりなさい、先生」
 眩しい笑顔を見せてくれてはいても、やはり病人は病人らしく過ごして欲しいと思う。
「日野君、夜更かしをするんじゃない。君はちゃんと睡眠を取らなければならないだろう? 顔色が悪くなる」
 手厳しいとは解ってはいても、吉羅はピシャリと言う。
 先程まで笑顔であった香穂子の表情が、不意に曇った。
「…すみませんでした…。だけど…」
「言い訳は良いんだ。早く休みなさい」
 吉羅が耳を貸さずに言うと、香穂子は唇を強く噛み締めた。
「…だけど先生、眠ると次の朝を迎えられなくなるかもしれないって思うと眠れないって思いませんか?」
 香穂子の揺れる声を聴き、吉羅はハッとして振り返る。
 香穂子の言葉が凶器となって吉羅のこころを切り裂く。香穂子にとっては、一秒一秒がかけがえのない時間であることを、今更ながら思い出した。
 香穂子は吉羅を見ないでように視線を落とすと、部屋に駆け上がっていく。
「…日野君!?」
 吉羅は香穂子をすぐさま追いかけて、その華奢な躰を自分の腕に閉じ込める。
 その瞬間嗚咽が聞こえ、吉羅は力一杯抱き締めた。



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