*Last Love*

10


 吉羅は、香穂子の華奢な躰を強く抱き締めながら離さない。
「…君はちゃんと生きられる。そう思いなさい…。前向きになるだけで、君の命の灯火は、長らえさせることが出来るから。前を向いて生きなさい」
 吉羅は香穂子をなだめるように言うと、その背中を撫でる。
 香穂子の躰は余りに華奢で、柔らかく、何処か禁断な温もりを感じた。
 抱き締めてしまえば消えてしまうような、そんな危うさすらあった。
「…私も君と一緒にずっといる…。だから、そんなには悲観にならないでくれ…。一緒に頑張るんだ」
「…先生…」
 香穂子は不安であることを滲ませるように、吉羅の鍛えられた逞しい躰に、ギュッと抱き付いてくる。
 その危うい心許無さに、吉羅は益々力強く抱き締めた。
「…遅くなると躰に良くない…。今夜は眠るんだ…」
「…はい…」
 香穂子は、吉羅から離れたくないとばかりに、背中にすがりついてくる。
 その柔らかな心地好さに、吉羅は離したくないと思った。
 永遠にこの躰を抱き締めていられたら、これ程嬉しいことはないというのに。
 神様はそれを許してはくれない。
 もし、許されるとするならば、吉羅が勇気を持って、香穂子のためにメスを握る時だろう。
 まだその勇気はない。
 医療雑誌を見ても踏ん切りもつかなければ、欲しい情報もない。
 もう二度と、大切に想う者を自らの手で失いたくはない。
 かと言って、このまま手をこまねいていれば、日野香穂子を着実に死に追いやるだけだというのに。
結果は同じだ。
 結局は香穂子がいなくなるのは同じなのだ。
 ただそれが自分の手かそうでないかだけなのだ。
 いや違う。
 どの方法を取ったとしても、香穂子を失う原因は自分にあるのだ。
 香穂子とギリギリまで一緒にいられるか。
 それともそれよりも少し前までしか時間がないか。
 ただ、それだけなのだ。
 その違いしかないというのに、未だに踏み込めないでいる。
「…先生…?」
 吉羅の不安を感じたのか、香穂子が心配そうに見つめてきた。その瞳には、吉羅以上の不安を滲ませている。
 香穂子のほうが、吉羅以上に不安なのだ。
 なのにこうしてこちらの心配をしている。
 時間が残り少なく、命のカウントダウンが始まっているのは、香穂子なのに。
「…すまない。私も今夜は疲れているようだ。休もうか」
 吉羅は香穂子の華奢な躰を抱き上げると、部屋に連れていく。
 出会った頃よりも、明らかに痩せてしまった。
 吉羅は苦々しく思いながら、香穂子を部屋まで運び、ベッドに寝かせた。
「…おやすみ」
 ベッドから離れようとして、吉羅はシャツを思い切り捕まれる。
「…せめて眠るまでそばにいて下さいと言うのは…、…わがままですか?」
 今にも泣き出しそうなほどに潤んだ瞳で見つめられて、吉羅は胸を突かれる。
 香穂子に懇願されると弱い。
 お願いや可愛いわがままを抗えない程に、大きく失いたくない存在になっていた。
 吉羅はフッと柔らかい溜め息を吐くと、静かに頷く。
「…解った」
「有り難うございます」
 はにかんだ香穂子の笑顔が、どの宝石よりも綺麗で、吉羅の胸を幸せにしてくれる。
 吉羅は香穂子の横に滑り込むと、細い躰をギュッと抱き締めた。
「…これで構わないかね?」
「…有り難うございます…。凄く…嬉しいです…」
 香穂子は吉羅の胸に顔を埋めると、まるでずっと離さないとばかりに、抱き締めてきた。
 香穂子に抱き締められて、抱き締めて。
 そうするだけで、吉羅は至高の幸せを感じた。
 やがて香穂子の寝息が聞こえて、眠りに落ちたのが解った。
 吉羅はあどけないまだ少女の色を遺した寝顔を見つめた後で、額にそっとキスをした。
 ベッドから静かに出ると、浴室に向かう。
 シャワーを浴びている間、ほてった躰を沈めるために懸命になる。
 ほんの少し抱き締めただけなのに、香穂子に欲情してしまった。
 こんなことは未だかつてなかった。
 女にごく自然に欲情するなんて、今までの吉羅では考えられないことだった。
 何とかシャワーで熱を沈めたものの、また、香穂子を抱き締めたくなる。
 この腕に閉じ込めてしまいたくなる。
 吉羅は、香穂子が眠る部屋の前まで来たところで、ドアノブを回そうとしてしまう。
 このまま抱き締めていられたら。
 そう強く思った瞬間に、ドアの向こうから苦しげな声変わり聞こえた。
 吉羅は直ぐにドアを開けて、香穂子に駆け寄る。
「日野君!?」
 吉羅がベッドを覗き込むと、香穂子は切なげに目を開いた。
「…吉羅先生…何処にも行かないで下さい…お願い…」
「…日野君…」
 今にも泣き出してしまいそうなまなざしに、吉羅は香穂子を抱き寄せた。
「…何処にも行かないから、君は心配しなくても良いんだ…」
「有り難うございます」
 香穂子はホッとしたように吉羅を見ると、すがりつくかのように抱き着いてきた。
「…日野君…」
 吉羅は、香穂子の総てを包み込むかのように抱き締めると、再び同じベッドに躰を横たえる。
 こうしてそばにいて抱き締めるだけでも幸せを感じる。
 香穂子の心許無い温もりをいつまでも感じていたかった。

 とても安堵する温もりに包まれながら、香穂子は目をゆっくりと開いた。
 直ぐ近くに吉羅の姿を感じ、香穂子は嬉しい微笑みを浮かべた。
 吉羅にこうして抱き締められるだけで、嬉しくてしょうがない。
 まるで総てを守られるように抱き締められているのが、嬉しくてしょうがなかった。
 もっと吉羅の温もりを感じたくて、香穂子は躰を擦り寄せた。
 すると吉羅がゆっくりと夢見るようなスピードで目を開く。
「…おはよう…日野君…」
「おはようございます…、吉羅さん…」
 香穂子が呼び掛けると、吉羅はフッと微笑みを浮かべた。
「気分はどうかね?」
「…有り難うございます。とても気分が良いです…」
「…そうか、なら構わないが…。朝食を作ろうか…。今日は私も休みだから、ゆっくりと出来るから」
「はい。今日は家にいらっしゃるんですか?」
「そのつもりだ…」
「だったら嬉しいです」
 香穂子が笑顔を向けると、吉羅も微笑んでくれた。
「部屋に戻って着替えてくる。君はもう少し休んでいると良い。無理は禁物だからね」
 吉羅はベッドから出ると、部屋から出て行く。
「有り難うございます」
 香穂子は吉羅の背中を見つめながら、ほわほわとした幸せを感じていた。

 吉羅が作ってくれた茶粥を食べていると、吹抜けのダイニングに電話の音が響き渡った。
 吉羅は静かに出ると、一瞬、表情を変える。
「…君か…。…今日は休みだが、出られないんだよ。え…?」
 会話の内容から、相手が女であることは明らかだった。
 ズキリ。胸が痛むと同時に、自分を優先してくれるのが嬉しかった。
「…え…。そうか…。それは私には必要だ。解った。直ぐに迎えに行く」
 吉羅はそこまで言うと、電話を静かに切った。
 行かないと言ったのに行くということは、余程のことがあるのだろう。
「日野君、すまないが、今日はひとりで過ごしてくれたまえ。なるべく早く帰る」
「解っています。待っていますから楽しんできて下さい」
 本当は行って欲しくないのに、その反対のことを言ってしまう。
「すまない。土産でも買って来よう」
「…有り難うございます」
 泣きたいのに泣けないまま、香穂子は笑顔で言うしかなかった。

 吉羅が出掛けて、代わって家政婦がやってくる。
「こんにちは、香穂子ちゃん」
 家政婦の顔を見た瞬間、何かの糸がプツリと切れたように香穂子は倒れこんだ。



Back Top Next