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「香穂子ちゃんっ!?」 家政婦は慌てて香穂子に駆け寄り、その肩を抱いて支えてくれる。 「大丈夫!?」 「…大丈夫ですよ…。…だから…、気にされないで下さい…」 「香穂子ちゃん…」 頭が激痛の余りにくらくらする。 今まで経験したことのないような痛みに、香穂子は背中に冷たい汗を流した。 このままやり過ごせたら良いのに。 じっと静かにしていると、不意に視野が暗くなり、目を開いているにも関わらず、上手く見ることが出来なくなっていた。 いよいよ視神経を圧迫し始めたのだろうか。 香穂子が唇を噛み締めていると、家政婦が背中を撫でてくれた。 「先生に直ぐに連絡をしますから、待っていて」 家政婦の言葉に、香穂子は慌てて首を振る。 「先生には言わないでっ! お願いします。折角、出掛けているのに、呼び戻すなんて出来ないからっ!」 香穂子が早口でまくし立てるように言うと、家政婦は驚いたように頷くことしか出来ないようだった。 「…解ったわ…。香穂子ちゃん…。私はどうしたら良いの…?」 「私の躰を支えて、寝室まで連れていって下さい…。横になっていれば、何とかやり過ごせると思いますから…」 「解ったわ…」 香穂子は家政婦に肩を貸して貰い、やっとの想いで寝室に向かう。 先程、全く見えていなかった瞳が、ようやくぼんやりではあるが見えるようになってきた。 ホッと胸をなで下ろして、香穂子は溜め息を零す。 ホッとした。 正直言って、どうなるかと思った。 このまま見えなくなってしまったら、泣きたくても泣けない。 後少し、ギリギリまで吉羅を見つめていたかった。 香穂子は痛みに堪えながら、震える指で痛み止めを飲む。 これで少しはやり過ごせるかもしれない。 今日、こうして発作を起こしてしまったことは、吉羅には内緒にしておきたい。 そうしなければ吉羅は怒るだろうから。 痛みをやり過ごす為に暫くじっとした後で、香穂子はベッドから起き上がった。 香穂子が元気そうに顔を見せると、家政婦は切なそうな顔をする。 「…大丈夫かい…? 香穂子ちゃん…」 「大丈夫だよ。本当に大丈夫なんだ…。だからお願い、吉羅先生には言わないで。今日のことは絶対に言わないで…」 瞳に涙を滲ませながら香穂子が呟くと、家政婦はそっと肩を抱いた。 「無理しなくても良いんだよ…。あなたは本当に吉羅先生のことが好きなんだね…」 「大好きだから、隠したいことがあるんだ…。お願い…、私が意識を失わない程度の発作なら…、どうか吉羅先生には言わないで欲しいんだ…。お願い…。あなたにしか、こんなことは頼めないんだよ…」 「解ったよ…」 「…私が最後の日まで、どうかお願いします…」 香穂子は素直に泣きながら、家政婦に頭を下げた。 「あなたのことは、責任を持って見守っているからね…」 「有り難う…」 香穂子は頭を下げると、泣き笑いの表情を浮かべた。 吉羅は病院近くのカフェに、後輩の都築に呼ばれてきていた。 「約束通りに、脳外科の最新リポートをお渡しすします」 「すまない」 吉羅はる都築から、海外の最新リポートを受け取る。 これがあれば、香穂子を助ける術が見つかるかもしれない。 どうしても救ってやりたい。 どうしても治してやりたい。 たとえ自分では難しくても、この技術が可能な外科医を見つけてやりたかった。 ただ見つけてやれるだけの時間が、恐らく香穂子にあるのかは分からなかった。 「礼は必ずする」 「礼なら…この手術をする吉羅先生を見てみたいものですわ。先生ならば出来るとふんでお渡しするんですよ」 「…今の私には難しいよ。…もうあの頃と同じような自意識過剰な私はいないからね…」 「ですが、吉羅先生の技術ならば可能だと思います。大切なひとだから踏み切れないのは分かりますが、 大切なひとだからこそ、頑張って欲しいんです。どうか、吉羅先生の大切なひとを救ってあげて下さい」 都築の言葉は、吉羅の胸を酷く打つ。痛くてしょうがなくて、苦笑いをするしかなかった。 「…とにかく。この資料は感謝する。有り難う」 「ええ。役立てて下さい。きっと吉羅先生ならば出来ると思いますから」 都築は微笑むと、カフェの席から立ち上がる。 「…それでは私はこれで。吉羅先生、頑張って下さいね」 「…有り難う」 吉羅が軽く頭を下げると、都築は微笑みながら頷いた。 都築が行った後で、吉羅はリポートをじっくりと眺める。 確かに、今まで読んでいた学術書とは違う手術技術や治療方法で、香穂子の場合でも使えそうな気がする。 吉羅は隅々まで夢中になってしっかりと読み込んでいった。 夢中になるが余りに時間を忘れてしまい、吉羅は夕方になったことを陽射しで感じた。 カフェから出た後、香穂子の為に、甘いケーキを買い求めた。 以前とても美味しそうにケーキを食べていたのが、印象に残っていたから。 家に戻ると、ヴァイオリンの音色が聞こえてくる。 それに誘われるように、吉羅は音が聞こえる方向へと歩みを進めた。 リビングで、香穂子がヴァイオリンを奏でている。 とても綺麗な音色で、香穂子の柔らかくて透明なこころを映しているかのように思えた。 無心で、ただヴァイオリンを奏でる香穂子は、この上なく美しかった。 吉羅には、香穂子の姿が天使のように見える。 まるでこの世の者とは思えない程の美しさだ。 底まで思ったとこりで、胸が切なく痛む。 この世の者ではないだなんて、そんなことを思いたくない。 生きているからこそ、香穂子は美しいのに。 香穂子をじっと見つめていると、吉羅の視線に気付いたようでそっと視線をあげた。 「おかえりなさい、吉羅先生…」 「ただいま」 香穂子は明るい笑顔を向けてくれた。 だがその笑顔は、今までで一番と言って良い程に綺麗で儚げだった。 「すまないね。急に知人からアポイントメントがあってね」 「先生の休日だから、したいようにされるのは自由ですから…」 香穂子は怒ってはいないのか穏やかに言ってくれたが、その奥には切なさが見え隠れしていた。 「お土産を買ってきた。君はケーキが好きだと思ってね」 「有り難うございます。ケーキ、大好きなんですよ」 「それは良かった。食事の後に食べると良い」 「有り難うございます。嬉しいです」 ケーキの箱を嬉しそうに受け取った。 香穂子はヴァイオリンを片付けて、嬉しそうにダイニングへと向かう。 その姿を見つめながら、香穂子の顔色の悪さが気に掛かっていた。 「日野君…君は具合が悪いんじゃないかね…?」 吉羅に指摘をされて、香穂子は一瞬、固まってしまう。 「…大丈夫ですよ。本当に…。具合は悪くないんです。先生は心配し過ぎているんですよ」 香穂子は瞬きをしながら、何処か後ろめたそうな笑みを浮かべている。 かなり具合は悪いのかもしれない。 吉羅は、香穂子の柔らかい頬にそっと手を乗せた。 「…日野君、嘘は吐かないでくれ。私も医師のはしくれだからね。君が誤魔化したとしても、具合の悪さぐらいは分かるんだよ」 吉羅は鋭い視線で香穂子を眺める。 香穂子は一瞬唇を噛んだが、吉羅は見逃さなかった。 「…気分が悪ければ直ぐに言いなさい。私に悪いだとかそんな遠慮は無用だからね」 「…有り難うございます。でも大丈夫なんです。本当に…」 香穂子の言葉を鵜呑みには出来ないのに、この笑顔を見せつけられると、何も言えなくなる。 「大丈夫ですから…。本当に」 まるで口癖のように言うと、香穂子はダイニングへと向かう。 その後ろを着いていきながら、吉羅は抱き締めたくなる衝動を抱いていた。 |