*Last Love*

12


 クラシックコンサートの前日、香穂子は母親からのプレゼントに驚いた。
「香穂子、吉羅先生とコンサートに行くんでしょう? だったらお洒落をしなければならないわね?」
 母親はにっこりと笑うと、白くて愛らしいドレスを差し出してくれた。
「お母さん、これ…」
 確かに、クラシックコンサートに吉羅と一緒に行くと、声を弾ませながら報告したのは事実だが、まさかこうして用意をして貰えるなんて、香穂子は夢にも思ってはいなかった。
「あなたが元気になった快気祝いに渡そうと思って買ったものなのよ。今回のコンサートに相応しいと思うから、渡すわね」
「…お母さん…」
 白いワンピースドレスを選んでくれた母親の気遣いが嬉しくて、香穂子は泣き出してしまう。
 肩を震わせて俯いていると、香穂子の母親は切ない表情になった。
「…香穂子…。泣かないのよ。笑わなくっちゃ。あなたには幸せになって欲しいからこそ、私たちからのプレゼントなのよ…」
「有り難う、お母さん…」
 香穂子は泣きながら、わざと笑おうとするが、なかなか出来ない。
 どうしても上手くいかない。
「お母さん、本当に有り難う」
 顔をクシャクシャにしながら香穂子が何度もお礼を言うと、母はギュッと抱き締めてくれる。
「吉羅先生が帰って来るまでには笑顔になるのよ」
「うん、解ってるよ」
 香穂子が泣き笑いの表情を浮かべると、母親は更に抱き締めてくれた。

 吉羅は病院の自室で、医学雑誌を読みふけっていた。
 自分の手で、この最新の医療を施してやれればこれ程良いことはないのにと、思わずにはいられない。
 だが現実では無理だということぐらい、自分自身が一番よく解っている。
「よお、吉羅。相変わらず精が出るな」
「金澤さん…」
 吉羅が顔を上げると、神出鬼没のように金澤が現れる。
「入る時はあれ程ノックをして下さいと申し上げているはずです」
「まあ、まあ。そんなにも目くじらを立てなさんなよ。まあ、なんだ、日野香穂子の様子を聞こうと思ってな」
「日野君は元気ですよ。私が見る限りでは…」
「それは良かったな…」
 金澤はフッとホッとしたように視線を伏せると、煙草を唇に押し込める。
「…正直な、余り状態が良くないままでお前のところに送り込んでしまったから心配していたんだよ…。危うい綱渡りだとは思っていたが、それをあいつが望むならなと思ってな…」
 金澤は何処か切なそうな色を瞳に浮かべながら、紫煙を吐く。
「大きな発作が起こらなければと願うだけだ…。今度、大きな発作が起きてしまえば…」
 金澤はその先の言葉を口にしてはいけないとばかりに、唇を歪めた。
「…最後だと、言いたいんですね…」
 吉羅の言葉に、金澤は否定も肯定もしない。それが逆に恐ろしかった。
「…小さな発作を数度起こしたとしても、同じことだ。お前がいない間は、日野香穂子を見守る相手はいるのか?」
「家政婦さんに来て貰っていますから、大丈夫なはずです。彼女に小さくても発作があれば、報告するように言ってありますから」
「…だったら良いんじゃないか。上手くこのまま行けば良いがな」
「そうですね…。私もそれを見守るしかないです…」
 最近、確かに家政婦からは一切連絡はない。だからこそ、それを信じたい。
 だがもし、香穂子が嘘を吐いて、家政婦とつじつまを合わせていれば話は別になる。
「…とにかく日野は、注意深く見守ることだ。万が一の場合は、オペをしなければならないだろう…。それでも…」
 “助からないかもしれない”。それを金澤は飲み込んでいるように見える。切ない気分になったのか、金澤はやるせない表情で再び紫煙を吐き出した。
 金澤が部屋から出た後、ひとりになった吉羅は静かに考える。
 もしオペの執刀をしなければならなくなったとしたら、どうすれば良いのだろうか。
 この手で冷静に香穂子を執刀出来るのだろうか。
 吉羅は医療雑誌を見つめると、香穂子の病気を考えてしまう。
 吉羅は香穂子を失いたくない余りに、研究を重ねる。
 自分が執刀出来れば良いのにと、思わずにはいられなかった。

 自宅に帰ると、香穂子がいつものように笑顔で出迎えてくれた。
 「おかえりなさい、先生」
「ただいま。明日は休みが取れたから、一日ゆっくり過ごそう」
「嬉しいです。先生を一日独占出来るなんて、本当に嬉しくてしょうがないです」
 香穂子が満面の笑みを浮かべた顔を見て、吉羅は眉を寄せた。
 笑顔の筈なのに、生命力が余り感じられない。むしろ儚げで、このまま消えてなくなってしまうのではないかと思ってしまうほどだ。
「日野君、大丈夫かね…?」
「大丈夫ですよ。私はとても元気ですから。本当に元気なんですよ」
 香穂子はまるで誤魔化しているかと思う程の不自然な笑顔を向けて来る。
 それが吉羅にはひっかかる。
「…本当に、発作だとかは起こってはいないのかね? 君は…黙っているということはないだろうね?」
不安になる。
 こんなにも儚げで透明感が溢れた香穂子を見ていると、本当に消えてしまうのではないかと思う。
 手を伸ばせば、このまま消えてしまいそうで、吉羅はたまらなかった。
「…大丈夫です。先生。発作なんて起こしていないですから。家政婦さんに確認して頂ければ解る筈ですよ」
 香穂子はニコニコ笑って譲ろうとはしない。
 何かを隠しているのは明白なのに、それを問詰めることが出来ない。
 恐らく問い詰めたとしても、香穂子は吉羅に真実を話しはしないだろう。
「今日はお母さんが来て、明日のためのワンピースを持ってきてくれたんですよ。凄く嬉しかったです。綺麗な恰好をしてコンサートに行くなんて、本当に久し振りですから!」
 弾んだ声で明るく言う香穂子には、病気の影は何処にもない。
 吉羅は香穂子の頭を柔らかく触れると、そっと撫で付けてあげた。
「明日は楽しみにしよう。私もクラシックコンサートに行くのは久し振りだからね」
 吉羅は何処かノスタルジックな想いに浸りながら呟いた。
「本当に明日はきっと最高の日になるって、私は思っていますから!」
「私もそう思っているよ」
 香穂子はにこにこと笑いながら、吉羅と一緒にダイニングへと向かう。
 香穂子が発作を起こしているかもしれないというのは、杞憂に過ぎないのだろう。
 いや、杞憂であると思い込みたいのかもしれない。
 吉羅は自分でそう思い込もおうとしながら、念の為、香穂子には釘を刺して置くことにした。
 恐らく、心配をかけたくないが故に黙ってしまう公算が高いだろうから。
「…日野君、発作の兆候がもしあったら、隠さずにちゃんと言いなさい。今の君の場合…、小さな発作が命に関わる場合があるからね…。それだけは気をつけたまえ」
「有り難うございます。だけど大丈夫ですよ。発作は起こしてないですから…。だけど…」
 香穂子は一瞬小さく目を伏せた後、吉羅を見上げた。
「…小さな発作が続くとどうなるんですか…? 私、知っておきたいと思って」
 悲壮感は何処にもなかったが、何処か切ない響きがある。
 だがきちんと伝えなければ、香穂子は過信してしまうだろう。吉羅は唇を開く。
「小さな発作が何度となく続けば、命を落としかねない…。だからきちんと伝えるんだ」
 一瞬、泣きそうな顔をしたような気がしたが、直ぐにいつもの香穂子に戻る。
「了解です。必ず言いますね!」
 香穂子は底抜けに明るい笑顔で言うと、ダイニングへと駆けて行く。
 吉羅にはそれが気にかかっていた。



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