*Last Love*

13


 吉羅とのクラシックコンサートの当日、香穂子は朝早くから起き出した。
 今日が一緒に過ごせる最後の日であることを、切なく予感していたから。
 朝日を確認しながら、空気を吸い込む。
 後何度、この朝日を感じることが出来るのだろうか。
 後何度、こうして空気を吸い込むことが出来るのだろうか。
 胸がこのままちぎれてしまいそうになるぐらいに、痛かった。
 せめて。この素晴らしくなるだろう一日は、何とか持ち堪えたい。
 香穂子は呼吸をしながら、自分の躰に問い掛けた。
 お願い。
 どうかこのままでいきたい。
 発作が起こりませんように。
 今日、一日起こらなかったら、明日直ぐに起こっても構わないから。
 吉羅のことは、今日を最後に諦めるから。
 香穂子は、朝日に向かって何度も祈りを捧げていた。
 キッチンに入り、香穂子は食事の支度を始める。
 いつもは吉羅にばかりやって貰っているから、せめて恩返しのつもりで、朝食を作りたかった。
 余り凝ったものは作れないが、茶粥と出し巻き卵、簡単なサラダを作る。
 こうして吉羅の為に料理をしてあげられるのも、本当に数えられるほどしか機会は与えられないだろうから、 香穂子はそれを大切にしようと思った。

 吉羅はいつものように起き、身仕度を整えてからキッチンへと入った。
 すると香穂子がキッチンで料理をする姿が飛び込んできた。
 朝日を浴びて佇む香穂子は、信じられないほどに綺麗で、息を呑むほどの美しさだった。
 こうして朝目覚めれば、香穂子がキッチンに立っていてくれたらと、想像してしまう。
 本当に綺麗で、このまま腕に閉じ込めて独り占めをしたいとすら思った。
 毎日、この光景を見つめることが出来れば良いのにと、思わずにはいられない。
 たとえそれが夢物語だとしても、吉羅は願わずにはいられなかった。
「おはよう、日野君」
 吉羅が声を掛けると、香穂子はスローモーションがかかった映像のように、ドラマティックに振り向いた。
「おはようございます、吉羅先生」
 はにかんだ笑顔は、窓から差し込む日の光よりも綺麗だ。
「朝食を用意してくれたのかね?」
「いつもやって頂いてばかりだから、朝ご飯ぐらいは恩返しをしないといけないなあって、単純にそう思っただけなんです」
「有り難う」
 吉羅はスッと瞳を細めながら笑みを浮かべると、ダイニングチェアーに腰掛ける。
 このまま見つめていたら、香穂子を抱き締めてしまいそうになるから。
 そうしたら、もうこころの暴走を止められそうにはなかった。
「お待たせしました」
 香穂子はいつも以上に笑顔で食事を運んで来る。
「有り難う」
 吉羅はその姿が愛しくてしょうがなかった。
 もし香穂子の命が危険に晒されていないのであれば、これ程幸せなことはないのにと思う。
 愛しくてたまらない。
「日野君…いや…、香穂子…」
 名前を呼ばれて、香穂子は一瞬驚いてしまったようだが、直ぐに笑顔に戻った。しかも素晴らしい笑顔に。
「嬉しいです。吉羅先生に名前で呼んで頂けるのが」
 明るい香穂子の笑顔に、吉羅は堪らずに抱き締める。
「あ、あのっ!? 吉羅先生!?」
「“吉羅先生”だなんて、他人行儀な呼び方は止めて欲しい。暁彦と呼んでくれたら良い」
「何だか緊張しちゃいます」
 香穂子は嬉しさと困ったような表情を同時に浮かべている。
 それが吉羅には愛しくてしょうがない。
 こんなにも可愛いと思える女性に出会えるとは、思ってもみなかった。
 吉羅は恥ずかしそうに俯いている香穂子の滑らかな頬を手のひらで捕らえると、唇を近付ける。
 朝のキスは陽の光の味がして初々しかった。

 今日は香穂子にとっては貴重な一日だった。
 吉羅と過ごせる最後の一日。
 だからなるべくそばにいたい。
 ランチは吉羅がパスタを作ってくれた。
 躰に良さそうな和風パスタ。
 香穂子はほろ苦い菜の花の味を楽しみながら、にこにこと笑う。
 これが吉羅と一緒に食べる最後の食事だと思うと、切ない。
 こころが泣きそうになってフォークを置くと、吉羅が怪訝そうに見つめてきた。
「…どうしたのかね? 具合が悪いということはないかね?」
「大丈夫ですよ。最近、ずっと気分が良いんです。こんなことは久し振りなんです」
 香穂子は屈託なく言うと、何もなかったかのように食事を続ける。
 吉羅は一瞬、厳しくもやるせないまなざしを向けて来たが、香穂子はそれを追い払うように笑った。
 菜の花の苦味が口のなかに広がって、香穂子は泣きそうな気分になっていた。

 ランチの後、香穂子の母親が訪ねてきてくれた。
 香穂子の最初で最後のデートであることに気付いたのか、最高に綺麗にしてくれると張り切ってくれている。
「コンクールでよくあなたを綺麗にしたけれど、今日が最高に綺麗に出来るような気がするわ。だって、今のあなたはとても綺麗だから。こうして綺麗になったのは、恋をしたお陰なのかしら。だったらとても嬉しいわ」
 母親は、香穂子の顔にファンデーションを塗りながら、嬉しそうに微笑んでくれる。
 今夜が吉羅と過ごす最後の夜だから、香穂子は最高に綺麗な自分を見せたかった。
 母親は髪を綺麗に結い上げてくれ、仕上げに華やいだピンクのルージュを唇に乗せてくれた。
「香穂ちゃん、本当に綺麗よ」
 鏡を見つめながら、母親は嬉しそうに涙ぐんでくれた。
 香穂子は、鏡に映る自分を見つめながら、本当にこれが最後の晴れ姿だと思う。
「これで吉羅さんを惚れさせることが出来るかもね」
「だったら良いのに…」
 所詮は、愛されてはいないことは解っている。
 だが、せめて「綺麗」だと言って欲しかった。
 支度が済むと、香穂子は母親を真っ直ぐ見つめた。
「お母さん、有り難う」
 香穂子は瞳に涙をたっぷり溜めながら、母親に切ない想いを視線で伝える。
「…お母さん、有り難う。ね、お願い事があるんだ」
「何かしら?」
「明日の朝、七時にね、車でバス停に迎えに来て欲しいんだ」
「…香穂子…」
 母親は泣きそうな顔で息を呑む。
「今夜で夢の時間はおしまいなの。だから、迎えに来て欲しいんだ。お願いします」
 香穂子が頭を下げるとー母親はただ抱き寄せる。
「…解ったわ…」
 何も理由を訊かずに、ただ香穂子を抱き寄せてくれる。
 その温もりに、香穂子は涙で瞳を濡らした。

 母親が帰った後、香穂子は吉羅を部屋で待構える。
 緊張してしょうがない。
 まるで結婚式前の花嫁のような心境になった。
「香穂子、時間だ。出掛けようか」
「はい」
 香穂子がそっとドアを開けると、吉羅が驚いたように目を見開いた。
「クラシックコンサートに行くには悪くない…」
 吉羅はそれだけを言うと、香穂子の手を強く握り締める。
 それが、認めてくれている証だと、香穂子は思わずにはいられない。
「…さあ行こうか」
「はい」
 吉羅に静かにエスコートをされて車に乗り込む。
 夢みたいな気分だ。
 今夜の吉羅は、いつもに増して素敵だ。
 高級テーラードのスーツをそつなく着こなす姿は、うっとりとしてしまう。
 香穂子は何度も吉羅の横顔を見つめながら、この姿を記憶に焼き付けておこうと思う。
 いつも以上に吉羅だけを見つめていた。

 コンサートホールに到着し、ふたりは最高のシートに腰掛ける。
「クラシックコンサートて久し振りだから、今から凄く楽しみなんです」
香穂子が明るい声で言うと、吉羅もまたフッと笑う。
その笑顔を一生忘れないと思いながら、香穂子は記憶に閉じ込めた。
コンサートがいよいよ始まる。
「…え…?」
 突如、香穂子の視野が狭窄し、一気に見えなくなっていった。



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