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音楽は聞こえるのに、目の前が全く見えない。 照明がフェイドアウトしたわけではなく、香穂子の視界が完全に失われたのだ。 見えない。 とうとう見えなくなってしまったのだろうか。 どうしても上手く視界を取ることが出来なくなっている。 だからなのか非常に耳が鋭くなり、より深みを帯びた音を聞き分けることが出来るようになっていた。 ヴァイオリンの小さな震えですら感じることが出来る。 今まではそんなことは出来なかったというのに。 香穂子は耳で音だけを追いかけ、楽しむ。 ヴァイオリンの音色の哀しみが滲んだ響きに、今すぐにでも泣きそうになっていた。 暗い視野で音楽を聴くのは、怖さと清らかさの両方を感じる。 怖くなって、無意識に吉羅の手を握り締める。すると吉羅は、しっかりと握り返してくれた。 こうしてギュッと手を握り締めてくれるだけで、香穂子は暗闇への不安を克服することが出来た。 このままずっと見えないのだろうかと思わずにはいられない。 だが、ここまでもってくれたことを、感謝すべきなのかもしれない。 香穂子は暗くなり何も見えないにも関わらず、ただ真っ直ぐと前を見ていた。 ヴァイオリンの音だけを耳で追う。 綺麗で澄み渡った残酷な音色に、涙がこぼれ落ちてくる。 こうしてコンサートを聴くのは最後なのは解っている。 握り締めたままの吉羅の手が、心地好くて胸が痛い。 「香穂子…」 吉羅が囁く声が聞こえると、そっと涙が拭われる。 暗闇のなかで、香穂子はただじっと、吉羅の温もりと、ヴァイオリンの音色を聞き入っていた。 コンサートが終わった後も、香穂子は自分からは立ち上がる事が出来なかった。 何も見えない。 見たくても見えない。 「香穂子、そろそろ行こう」 「あの、私の手を引いて歩いては頂けませんか?」 「香穂子…」 吉羅は怪訝そうな声で名前を呼ぶ。 表情で判断することが出来ないから、香穂子は声だけで吉羅の気持ちを判断する。 「解った。手を引いて行こう。余り無理をしないように」 「はい。有り難うございます」 吉羅は香穂子の手を慎重に引くと、ゆっくりゆっくりと歩いてくれる。 「今の時間からも軽く食事を取れるところがあるから行こう。君の好きな夜景もとても綺麗だから」 「有り難うございます」 夜景。香穂子にとっては見る事が出来ないものだ。 吉羅はそれを解ってくれているのだろうか。 いや、疑っているだけで、解ってはいないだろう。 もう見えていないことには、恐らく気付いてはいないはずだから。 吉羅は香穂子を気遣うように手を引いて歩いてくれた。 それはホールから出ても変わらなかった。 吉羅は高層ビルの最上階にあるレストランまで連れて行ってくれ、そこで食事を取ってくれた。 「今日は疲れているみたいだから、うちに帰ったらゆっくりすると良い」 「有り難うございます。ゆっくりすることにします」 食事が運ばれて来たが、何処にナイフとフォークがあるか見えなくて、香穂子は手を付けることが出来なかった。 「…香穂子」 吉羅の声が厳しく響いて、香穂子は躰をビクリとさせる。 「…ひょっとして…見えていない…なんてことは、ないだろうね?」 いきなり核心を突いて来た吉羅の言葉に、香穂子は指先を震わせた。 「…大丈夫です。ほんの少しだけ食欲がないだけなんですから…。本当に…」 香穂子は俯いたまま、吉羅に瞳を向けないようにしていた。 「…あ…」 そうしているとぼんやりではあるが、少しだけ見ることが出来た。 これならば何とか食事をして誤魔化すことが出来るだろう。 香穂子はナイフとフォークを手に取り、慎重に食べ始める。 「少しだけ頂きますね」 香穂子は柔らかく呟くと、食事をし始める。 吉羅がほんの少しだけではあるが、ホッとしたような顔になったことを、香穂子は見逃さなかった。 見えたといっても、ほんのりと見える程度だ。 だがこれでも、先程よりは随分と楽だった。 クラシックコンサートの話をしながら、当たり障りなく会話を楽しむ。 香穂子は、これが吉羅との最後の食事だと思いながら、時間を噛み締めるように食べる。 最後の晩餐。 切なくて重い寂しさに、香穂子はその場で号泣してしまいそうになっていた。 吉羅に駐車場まで手を引いていって貰い、車にゆったりと乗り込む。 その瞬間、香穂子は吉羅に強く抱きすくめられた。 「…吉羅さん…」 「本当に大丈夫かね!? 私には具合が悪いようにしか見えなかったが、本当に平気なのかね!? ちゃんと見えているのかね?」 吉羅には珍しく、何処か感情的な起伏に飛んだ声になっている。 香穂子はその声で、吉羅がこころから大切に思ってくれていることを知った。 「…大丈夫ですよ。私は…」 香穂子は逆に吉羅を強く抱き締める。 「心配しないで下さいね。吉羅さん、私は大丈夫ですから…」 「香穂子…」 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅は強く抱き返してきてくれた。 吉羅の親指が香穂子の唇を擦ってくる。 「…ん…」 香穂子が甘い吐息を上げるのと同時に、吉羅は唇を重ねてきた。 朝のキスとは違う甘さが増した深いキス。 唇を合わせるだけで、幸せが滲んで来る。 男女にある感情だけではなくて、人としての感情が感じられるキス。 迸る情熱はやがて欲望となって、ふたりを煽り始めた。 舌を絡めあい、唇を吸い上げ合い、お互いの熱を交換し合う。 しっかりと腕を回して抱き合いながら、ふたりはお互いの気持ちを交換しあった。 互いにかけがえのない相手。 だが、一緒にいる時間は、後、僅かしか許されやしない。 お互いに息がおかしくなってしまうほどにキスをした後で、ようやく唇を離す事が出来た。 「帰ろうか」 「はい」 キスの余韻で香穂子が頭をぼんやりとさせていると、吉羅はフッと甘く微笑んで、滑らかな頬にキスをくれた。 車が動き出す。 こうして吉羅の車に乗るのはもうこれで最後だろう。 香穂子は涙を堪えながら、船のように優しい動きに身を任せていた。 吉羅家に帰ってくる頃には、再び目が見えなくなってしまっていた。 香穂子は再び立ち上がることが出来なくなる。 吉羅はそれに気付いたのか、香穂子のシートベルトを外してくれた。 「大丈夫かね」 「大丈夫です」 香穂子は吉羅の気配に向かってにっこりと微笑むと、感覚で覚えていたドアを開けようとした。 「私が開けよう。君は待っていなさい」 「…あ。有り難うございます…」 香穂子が礼を言うと、吉羅はただ静かに頷いてくれているのが気配で解る。 吉羅は先に車から降りると、ドアを開けて香穂子の手を取ってくれた。 「…どうぞ。お嬢さん」 「有り難うございます」 香穂子が丁寧に礼を言うと、吉羅はギュッと手を握り締めてくれた。 吉羅の家に入れば、もう大丈夫だ。 この時に備えて、香穂子は詳細に家の様子を覚えこんでいた。 靴を脱ぐと、香穂子は吉羅の手をするりと外して自室に向かう。 「今夜は疲れているだろう。シャワーを浴びて休みたまえ」 「はい、有り難うございます」 香穂子は頷くと、自分の部屋に向かった。 今まで使っていた部屋は、荷物をまとめておいた。 見えないが、がらんとした雰囲気が哀しくて泣きそうになる。 香穂子は想いを振り切るように、手早くシャワーを浴びる。 シャワーを浴びたら、吉羅に挨拶に行こう。 今までの感謝をちゃんと現すのだ。 シャワーを浴びた後、香穂子は子供のように洗いざらしの髪のままで、吉羅の部屋に向かう。 「…先生、お話があります。構いませんか?」 香穂子が声を掛けると、吉羅がドアを開けてくれた。 「話ってなんだね?」 吉羅は香穂子の手を取ると、部屋に入れてくれる。 「先生、今までお世話になりました。明日の朝、出て行きます」 明るく屈託なく言った瞬間、吉羅にいきなり抱きすくめられた。 |