*Last Love*

14


 音楽は聞こえるのに、目の前が全く見えない。
 照明がフェイドアウトしたわけではなく、香穂子の視界が完全に失われたのだ。
 見えない。
 とうとう見えなくなってしまったのだろうか。
 どうしても上手く視界を取ることが出来なくなっている。
 だからなのか非常に耳が鋭くなり、より深みを帯びた音を聞き分けることが出来るようになっていた。
 ヴァイオリンの小さな震えですら感じることが出来る。
 今まではそんなことは出来なかったというのに。
 香穂子は耳で音だけを追いかけ、楽しむ。
 ヴァイオリンの音色の哀しみが滲んだ響きに、今すぐにでも泣きそうになっていた。
 暗い視野で音楽を聴くのは、怖さと清らかさの両方を感じる。
 怖くなって、無意識に吉羅の手を握り締める。すると吉羅は、しっかりと握り返してくれた。
 こうしてギュッと手を握り締めてくれるだけで、香穂子は暗闇への不安を克服することが出来た。
 このままずっと見えないのだろうかと思わずにはいられない。
 だが、ここまでもってくれたことを、感謝すべきなのかもしれない。
 香穂子は暗くなり何も見えないにも関わらず、ただ真っ直ぐと前を見ていた。
 ヴァイオリンの音だけを耳で追う。
 綺麗で澄み渡った残酷な音色に、涙がこぼれ落ちてくる。
 こうしてコンサートを聴くのは最後なのは解っている。
 握り締めたままの吉羅の手が、心地好くて胸が痛い。
「香穂子…」
 吉羅が囁く声が聞こえると、そっと涙が拭われる。
 暗闇のなかで、香穂子はただじっと、吉羅の温もりと、ヴァイオリンの音色を聞き入っていた。

 コンサートが終わった後も、香穂子は自分からは立ち上がる事が出来なかった。
 何も見えない。
 見たくても見えない。
「香穂子、そろそろ行こう」
「あの、私の手を引いて歩いては頂けませんか?」
「香穂子…」
 吉羅は怪訝そうな声で名前を呼ぶ。
 表情で判断することが出来ないから、香穂子は声だけで吉羅の気持ちを判断する。
「解った。手を引いて行こう。余り無理をしないように」
「はい。有り難うございます」
 吉羅は香穂子の手を慎重に引くと、ゆっくりゆっくりと歩いてくれる。
「今の時間からも軽く食事を取れるところがあるから行こう。君の好きな夜景もとても綺麗だから」
「有り難うございます」
 夜景。香穂子にとっては見る事が出来ないものだ。
 吉羅はそれを解ってくれているのだろうか。
 いや、疑っているだけで、解ってはいないだろう。
 もう見えていないことには、恐らく気付いてはいないはずだから。
 吉羅は香穂子を気遣うように手を引いて歩いてくれた。
 それはホールから出ても変わらなかった。
 吉羅は高層ビルの最上階にあるレストランまで連れて行ってくれ、そこで食事を取ってくれた。
「今日は疲れているみたいだから、うちに帰ったらゆっくりすると良い」
「有り難うございます。ゆっくりすることにします」
 食事が運ばれて来たが、何処にナイフとフォークがあるか見えなくて、香穂子は手を付けることが出来なかった。
「…香穂子」
 吉羅の声が厳しく響いて、香穂子は躰をビクリとさせる。
「…ひょっとして…見えていない…なんてことは、ないだろうね?」
 いきなり核心を突いて来た吉羅の言葉に、香穂子は指先を震わせた。
「…大丈夫です。ほんの少しだけ食欲がないだけなんですから…。本当に…」
 香穂子は俯いたまま、吉羅に瞳を向けないようにしていた。
「…あ…」
 そうしているとぼんやりではあるが、少しだけ見ることが出来た。
 これならば何とか食事をして誤魔化すことが出来るだろう。
 香穂子はナイフとフォークを手に取り、慎重に食べ始める。
「少しだけ頂きますね」
 香穂子は柔らかく呟くと、食事をし始める。
 吉羅がほんの少しだけではあるが、ホッとしたような顔になったことを、香穂子は見逃さなかった。
 見えたといっても、ほんのりと見える程度だ。
 だがこれでも、先程よりは随分と楽だった。
 クラシックコンサートの話をしながら、当たり障りなく会話を楽しむ。
 香穂子は、これが吉羅との最後の食事だと思いながら、時間を噛み締めるように食べる。
 最後の晩餐。
 切なくて重い寂しさに、香穂子はその場で号泣してしまいそうになっていた。

 吉羅に駐車場まで手を引いていって貰い、車にゆったりと乗り込む。
 その瞬間、香穂子は吉羅に強く抱きすくめられた。
「…吉羅さん…」
「本当に大丈夫かね!? 私には具合が悪いようにしか見えなかったが、本当に平気なのかね!? ちゃんと見えているのかね?」
 吉羅には珍しく、何処か感情的な起伏に飛んだ声になっている。
 香穂子はその声で、吉羅がこころから大切に思ってくれていることを知った。
「…大丈夫ですよ。私は…」
 香穂子は逆に吉羅を強く抱き締める。
「心配しないで下さいね。吉羅さん、私は大丈夫ですから…」
「香穂子…」
 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅は強く抱き返してきてくれた。
 吉羅の親指が香穂子の唇を擦ってくる。
「…ん…」
 香穂子が甘い吐息を上げるのと同時に、吉羅は唇を重ねてきた。
 朝のキスとは違う甘さが増した深いキス。
 唇を合わせるだけで、幸せが滲んで来る。
 男女にある感情だけではなくて、人としての感情が感じられるキス。
 迸る情熱はやがて欲望となって、ふたりを煽り始めた。
 舌を絡めあい、唇を吸い上げ合い、お互いの熱を交換し合う。
 しっかりと腕を回して抱き合いながら、ふたりはお互いの気持ちを交換しあった。
 互いにかけがえのない相手。
 だが、一緒にいる時間は、後、僅かしか許されやしない。
 お互いに息がおかしくなってしまうほどにキスをした後で、ようやく唇を離す事が出来た。
「帰ろうか」
「はい」
 キスの余韻で香穂子が頭をぼんやりとさせていると、吉羅はフッと甘く微笑んで、滑らかな頬にキスをくれた。
車が動き出す。
 こうして吉羅の車に乗るのはもうこれで最後だろう。
 香穂子は涙を堪えながら、船のように優しい動きに身を任せていた。

 吉羅家に帰ってくる頃には、再び目が見えなくなってしまっていた。
 香穂子は再び立ち上がることが出来なくなる。
 吉羅はそれに気付いたのか、香穂子のシートベルトを外してくれた。
「大丈夫かね」
「大丈夫です」
 香穂子は吉羅の気配に向かってにっこりと微笑むと、感覚で覚えていたドアを開けようとした。
「私が開けよう。君は待っていなさい」
「…あ。有り難うございます…」
 香穂子が礼を言うと、吉羅はただ静かに頷いてくれているのが気配で解る。
 吉羅は先に車から降りると、ドアを開けて香穂子の手を取ってくれた。
「…どうぞ。お嬢さん」
「有り難うございます」
 香穂子が丁寧に礼を言うと、吉羅はギュッと手を握り締めてくれた。
 吉羅の家に入れば、もう大丈夫だ。
 この時に備えて、香穂子は詳細に家の様子を覚えこんでいた。
 靴を脱ぐと、香穂子は吉羅の手をするりと外して自室に向かう。
「今夜は疲れているだろう。シャワーを浴びて休みたまえ」
「はい、有り難うございます」
 香穂子は頷くと、自分の部屋に向かった。
 今まで使っていた部屋は、荷物をまとめておいた。
 見えないが、がらんとした雰囲気が哀しくて泣きそうになる。
 香穂子は想いを振り切るように、手早くシャワーを浴びる。
 シャワーを浴びたら、吉羅に挨拶に行こう。
 今までの感謝をちゃんと現すのだ。
 シャワーを浴びた後、香穂子は子供のように洗いざらしの髪のままで、吉羅の部屋に向かう。
「…先生、お話があります。構いませんか?」
 香穂子が声を掛けると、吉羅がドアを開けてくれた。
「話ってなんだね?」
 吉羅は香穂子の手を取ると、部屋に入れてくれる。
「先生、今までお世話になりました。明日の朝、出て行きます」
 明るく屈託なく言った瞬間、吉羅にいきなり抱きすくめられた。



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