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ずっとあの男性を遠くで見ていました。 あの男性は本当の意味での愛を知らない。 違う。 あの男性は、本当の愛がどのようなものかを解った上で、拒絶している。 だからあの男性に愛を教えてあげたいなんて言っても無駄。 解っているんだから。 あの男性は、愛を失うのが怖いだけ。 だったら最初から得ないほうが良い。 そう思っている。 得ないで良い愛なんてない。 失ったとしても、更に大きく自分を成長させることが出来るから。 それをあの男性は解っていないだけなのだ。 愛を得るのも失うのも、ちゃんと意味がある。 だから怖がらないで。 だけど、手を差し延べてあげたいなんて、私には言えない。 そんなことをすれば、拒まれるのは解っているから。 ヴァイオリンの練習を公園で行なった後、香穂子はぼんやりと海を眺めていた。 こうしていると気持ち良く心を癒すことが出来るのだ。 香穂子が背筋を思い切り伸ばしていると、吉羅暁彦の姿を見掛けた。 相変わらず、本当に綺麗な女性を連れている。 香穂子が自分とは住む世界が違うのではないかと思うほどに、セレブリティな雰囲気を漂わせている女性だ。 女性が吉羅に夢中になっているのは解るが、彼自身がそうでないのは明白だ。 女性は、割り切った付き合いだと思いながらも、もしかしたら自分なら吉羅暁彦の意識を変えることが出来ると考えたのだろう。 だが、それは結局、妄想に過ぎなかったようだ。 「あなたと本格的に恋人としてお付き合いをしたいの…」 また始まったと、香穂子は思った。 「…それなら他をあたると良い。私は…、誰とも真剣に付き合う気はない。君が深く傷付く前に、別れてしまったほうが良い…」 吉羅はいつもの台詞を感情なく低い声で呟く。 これ以上は聞いていられない。 後の展開は解っているからだ。 香穂子は背中を向けると、そっとそこから立ち去った。 またいつも通りの結末。 女性には気の毒だが、香穂子にとってはホッとする結果になった。 いつまでこれが続くかは解らないが、少なくとも自分がこうして確認出来る間は、このようなことは止めて欲しかった。 香穂子はまた公園の端でヴァイオリンの練習を始める。 別れ話をしていた吉羅たちの前では、ヴァイオリンを弾くようなことは出来なかったから。 香穂子は背筋を伸ばすと、再びヴァイオリンに熱中し始めた。 臨海公園に行くのは、癒されるためだ。 特に、最近は、温かくて何処か切なさを滲ませたヴァイオリンの音色を楽しみにしているからだ。 ヴァイオリンの音色は、疲れた吉羅を優しく包み込むように癒してくれるのだ。 それが吉羅には嬉しいことだった。 誰が弾いているのか知りたいのに、何処か知りたくないようなそんな気分になる。 知ってしまえばどうなるかは、解っていたからだ。 恐らくは音色の持ち主に好意を抱いてしまうだろう。 無条件に吉羅を癒して、恋をさせるには充分の音色を持っているからだ。 恋なんて必要ない。 愛なんて有り得ない。 それが吉羅が今まで生きてきた中で得た最大のものだ。 そんなものはなくても、吉羅は生きていけると思う。 逆にそんなものがないほうが、人生をスムーズに渡っていけると思う。 なのに、吉羅が否定し続けている“愛”がたっぷりと詰まったヴァイオリンの音色に惹かれてしまうのが、たま らなく切なかった。 女と別れ、吉羅が公園をひとりで抜けようとすると、またあの柔らかくて優しい音色が響いてきた。 目の前に、夕陽に照らされながらヴァイオリンを奏でる美しい姿が露見する。 吉羅は無意識にその姿を見つめずにはいられなかった。 なんて美しいのかと、吉羅は思わずにはいられない。 まるで妖精か天使のように清らかな雰囲気が滲んでいる。 もっと見つめたい。 だが、見つめてはならないと自分の何かが警鐘を鳴らしている。 吉羅は胸が抉られるように痛むのを感じながら、その姿に背を向けた。 自分の生き方の哲学に影響を及ぼすかもしれない存在だ。 吉羅は、否定することしか出来なかった。 財界が主催するチャリティーパーティに花を添えるために、若手音楽家が多数呼ばれた。 香穂子もヴァイオリンで参観をする。 今回はソリストとして、イベントに参加するのだ。 保護者代わりとして、大学の講師金澤と一緒にパーティに参加した。 「俺の高校時代の後輩でロクデモねぇヤツが来ている筈だから、後で紹介する」 「はい」 ロクデモない人物とはどのようなひとなのだろうか。 香穂子は思わず笑顔になった。 「お前さんにくぎを刺しても余り意味ないだろうが、一応、念の為にくぎを刺しておく。ヤツは危険だからな。 本気で近付くな…。まあ、お前さんは大丈夫だと思うがな。問題は他のヤツらかもしれないが…」 金澤は苦笑いをしながら言うと、フッと香穂子を見る。 「…大丈夫なのか? 最近は…」 「大丈夫ですよ。悔いなく生きるのが、私の信条ですからね」 香穂子は笑顔で言うと、金澤を見つめる。 悔いを残さないように生きること。 それが香穂子の信条だから。 たとえ何が起きても後悔しないのだ。 「日野、しっかりと頑張れよ」 「はいっ!」 なるべくヴァイオリンを奏でる機会が欲しいと、香穂子が直訴をし、金澤はそれを聞き入れてくれたのだ。 それは感謝している。 だから今日も精一杯、ヴァイオリンを奏でるのだ。 「では行きます」 「ああ」 香穂子は、ヴァイオリンを片手に、特設ステージへと向かった。 「吉羅!」 高校時代の先輩である金澤に声を掛けられて、吉羅はゆっくりと近付いていく。 「金澤さん、今日はあなたの教え子がヴァイオリンを弾くと伺いました」 「ああ。ひとりは有望なソリストだ。曲の解釈が上手いんだよ」 「そうですか。財界にコネクションを持つのは芸術家にとって良いことですからね」 「…まあ…。あいつはそういうものは、必要としないんだろうけれどな…」 一瞬、金澤は表情を曇らせる。そこには何処か切なさが滲んでいる。 「相当の実力者ですか」 「…そうなるはずなんだけれどな…」 珍しく金澤が表情を曇らせるので、吉羅はそれが気になってしょうがなかった。 「そろそろ始まる。今日は、ラフマニノフのヴォカリーズを演奏予定だ」 「ほお…」 「後は…、お前さんが嫌がるかもしれないが…、“ジュ・トゥ・ヴ”だ」 「“ジュ・トゥ・ヴ”…」 亡くなった姉が得意とした曲だ。 しかも姉はヴァイオリニストだった。 吉羅の心に複雑で苦い気持ちが甦った。 ステージに赤毛で細身の若い女が上がる。 立ち姿は非常に美しい。 だが、何処かで見た事があるような気がした。 吉羅はじっと女を見つめる。 見れば見る程に美しいと感じる。 それこそ息を呑むほどだ。それほど迄に麗しくて美しかった。 直ぐにヴァイオリンを奏で始める。 先ずは“ヴォカリーズ”。切ない程に音がしっとりとしていて綺麗だ。 吉羅は息を呑まずにはいられない。 こんなにも切ない音色を奏でられるのは、姉しかいなかった。 なのにこのヴァイオリニストは見事に奏でている。 背筋がゾクリとするほどに素晴らしいと、吉羅は思った。 ヴァイオリニストは、今度は幸せな愛の曲である“ジュ・トゥ・ヴ”を奏でる。 今度は一転して華やいだ雰囲気を醸し出す。 その雰囲気に、吉羅は魅了されずにはいられなくなった。 |