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こんなにも素晴らしいヴァイオリンを奏でるヴァイオリニストがいるなんて、吉羅は思いもよらなかった。 吉羅は、感動する余りに、全身の細胞が震えているように思えた。 やがて、本当にシャンソンを歌っているようなヴァイオリン演奏が終わる。 そこにいる誰もが、ヴァイオリニストの奏でる世界に魅了されているのは間違いない。 頭を深々と下げるヴァイオリニストに、誰もが惜しみのない拍手をしていたのだから。 吉羅はその巧みさに唸るしかないと思った。 本当に素晴らしい。 恐らくは、自分が一番ヴァイオリニストに魅了をされているのではないかと、思わずにはいられなかった。 ヴァイオリニストはステージから下りた後、金澤と笑顔で話している。 あれほどまでのヴァイオリンが弾けるのならば、財界の誰もがバックアップしたいと思うだろう。 だがあれだけの技量があるのならば、バックアップは必要ないかと吉羅は思った。 ヴァイオリニストと話していた金澤が、吉羅を指差した後、二人揃ってこちらへと向かってくる。 「吉羅!」 金澤はヴァイオリニストを連れて、得意そうにやってくる。 「吉羅、紹介しておく」 ヴァイオリニストが笑顔でこちらにやってくる。 微笑むと、何処か幼い雰囲気があった。 「吉羅、日野香穂子だ。俺の教え子だ」 「日野香穂子です。宜しくお願いします。星奏学院でヴァイオリンを学んでいます」 「吉羅暁彦だ。金澤さんとは高校時代お世話になった。宜しく」 吉羅が静かに言うと、香穂子はにっこりと笑った。 笑顔が本当に素晴らしいと吉羅は思う。 「…日野君、君は誰かにバックアップして貰っているのかね…?」 「バックアップはして頂いてはいません…。皆さんの迷惑になりますから」 「迷惑? そんなことはないだろう。君は実力があるからね」 吉羅が淡々と言うが、香穂子はフッと寂しそうに笑う。 「…だけどいずれはご迷惑をかけるのが解っていますから…、皆さんのお申し出はお断りをしているんですよ…」 香穂子は少し寂しげに笑うだけだった。 その笑顔はとても魅力的なのに、胸が痛いほどに苦しくなる寂しさがある。 それがどうしてなのか、吉羅には解らなかった。 吉羅暁彦を間近にして、香穂子はドキドキしていた。 こんなにもときめくことがあるなんて、香穂子には今まで知らなかった。 こうして一緒に話しているだけで幸せだった。 「素晴らしい演奏だった」 吉羅は静かに言うと、香穂子を見つめてくる。 そのまなざしがとても魅力的で、いつまでも見つめていたかった。 「日野君、君には必要ないものかもしれないが、これを」 吉羅は相変わらずクールに言うと、香穂子に名刺を差し出してきた。 「…これは…?」 「私の名刺だ。経済的に助けがある場合は、いつでもメールか電話をくれたら良い。善処しよう」 「有り難うございます」 香穂子は、指先を僅かに震わせながら、名刺を受け取る。 「有り難うございます」 「わ、私も出来たら連絡先をお伝えします」 「ああ。有り難う」 香穂子は電話番号とメールアドレスを書いたメモを、吉羅に渡した。 「有り難う」 吉羅は香穂子が書いたメモを丁寧に受け取ってくれた。 「何かあれば連絡をする」 「はい。有り難うございます」 香穂子はつい笑みを零してしまう。 吉羅から連絡があればどんなに嬉しいかと思わずにはいられなかった。 「暁彦さん、行きましょう」 吉羅の横に、絶世の美女といっても差し障りはない程の美しい女性がやってきた。 思わず何人目の女だろうかと、香穂子は思わずにはいられなかった。 「では何かあれば連絡する」 「はい。有り難うございます」 吉羅と一緒にいる女性は、この間見た女性とはまた違っている。 ここまで完璧な吉羅だから、恐らくは誰もが自分が一番長く付き合える女になりたいと思っているのだろう。 メールアドレスと携帯電話番号をじっと見つめる。 自分が吉羅との付き合いにおいて、最長記録保持者になるとは到底考えられない。 長くは一緒にいられないことを、誰よりも一番長く知っているのだから。 香穂子は吉羅のプライベートとは解らない番号とアドレスを大切にすることにした。 「日野、あいつにしては珍しいんだぜ? 自らアドレスと携帯番号を渡すなんて。相当、お前さんを気に入っているとしか思えないな」 金澤の言葉に、香穂子は嬉しくなる。 香穂子にとっては、吉羅は憧れのひとだ。 今までで一番憬れて、好きになったひとだ。 最初は、なんて男だと思った。 いつも違う女と別れ話をしているのだから。 だが、大人でとても魅力的な人物だと思った。 香穂子は、吉羅暁彦をずっと見続けてきて、こんなにも近付いたのは初めてだ。 遠くで見ているよりも近くで見ていたい。 それが香穂子の願いなのだから。 「日野、今日は疲れただろう。余り無理をしないようにな。何なら、もう帰っても構わん」 金澤が心配そうに見てくれる。 それが嬉しくもあり、何処か辛い。 「大丈夫ですよ、先生」 「…本当に無理はするなよ…? お前はいつもやり過ぎるきらいがあるからな」 「解っています。だから心配されないで下さい。本当に大丈夫なんです。だけど、疲れたと思ったら帰らせて貰いますね」 「ああ」 金澤は、香穂子に“無理をするな”と気遣うように、その背中を優しく叩く。 香穂子は返事をするような気持ちで、金澤には笑顔で答えた。 ひとりになり流石に椅子に腰掛ける。 もう暫くしたら、帰ろう。 それまではここにいたい。 吉羅暁彦を遠くで見つめるだけで、幸せなのだから。 水を片手に、香穂子は軽く食事をする。 これが食べ終わったら帰らなければならない。 疲れを貯めないようにするのが、今の香穂子の大切なことなのだから。 挨拶を終えて、吉羅は会場を見渡した。 まだ日野香穂子はいるのだろうか。 思わず視線で探してしまう。 香穂子はミネラルウォーターを片手に、ゆっくりとしたペースで食事をしているようだ。 吉羅は思わず近付いていった。 「ひとりかね?」 「はい。だけどもう帰りますから」 香穂子はふわりとした笑顔を吉羅に向ける。 向日葵のような笑顔だというのに、何故だか直ぐに散ってしまうような雰囲気がある。 吉羅にはそこが引っ掛かってしょうがなかった。 「…ミネラルウォーターということは…、まだ未成年かね?」 「正確には。だけど来週二十歳になります」 「それはおめでとう」 香穂子は笑顔で頷く。 「吉羅さんもミネラルウォーターですよね…?」 「私は車を運転するからね。パーティや出先では、なるべくアルコールは飲まないようにしている。飲んでしまった時には、代行運転を頼むが、余りそれをしたくないものだからね」 吉羅の言葉を、常に笑顔で聞いてくれる香穂子が、吉羅には愛しくてたまらなくなる。 こうして一生懸命話を聞いてくれる香穂子の素直な気質が、吉羅の心を捕らえた。 「…私、そろそろお暇をします」 香穂子は立ち上がると、帰る支度を始める。 もう少しだけ一緒にいたくて、吉羅は香穂子を見た。 「私も仕事に戻らなければならないから、家まで送ろう」 「本当に!」 香穂子の表情も声も弾んでいるのが解る。 吉羅もその様子を見ているのがとても嬉しかった。 「じゃあ行こうか」 「はい」 吉羅は香穂子を連れて駐車場へと向かう。 久し振りに緊張した。 |