*Limited Lovers*


 自分よりも一回りは下の女性に、こんなにも緊張するなんて、吉羅には思ってもみないことだった。
 香穂子は本当に嬉しそうに微笑んでいる。
 無邪気さと艶のある、とても綺麗な笑顔だ。
 まるで天使のようにすら見える。
 香穂子の笑顔には邪念などはなく、ただ清らかさだけがある。
 本当に何も澱んだ感情がないように見えた。
 人生を達観しているようにすら見える。
 本当に綺麗だ。
 こんなにも清らかな笑顔は他にないのではないかと思った。
「家はどちらかな?」
「石川町です」
「だったら直ぐだね」
 吉羅は余りにも短いドライブになるとがっかりする自分がいることに感じながら、香穂子をちらりと見る。
 何だか不思議な魅力を持っている。
 暫くはそばに置きたい。
 ただそれだけだ。
 どうこうしようという気持ちは更々ない。
 今時の女の子にしては、純粋な部分を沢山持っているように思えた。
「もうすぐ二十歳の誕生日だったら、パーティなどを企画しているんじゃないかね?」
「誕生日当日に友人たちがお祝いしてくれるんです。元町のカフェで。とても楽しみなんですよ」
 香穂子は本当に嬉しそうに笑顔になっている。
 その微笑みが可愛くて、吉羅もまた笑みになった。
「…そうか…。それは楽しみだね。その前日は空いているかね?」
「はい。大学が四時に終わりますからそれ以降は…」
「だったら、七時頃からお祝いをしないかね? 私とふたりで」
 吉羅はさり気なく提案をする。
 もう少しだけ、香穂子と一緒にいたかった。
 もう少しだけ、香穂子のことを知りたかった。
「はい。喜んで!」
 香穂子の笑顔が、光の粒よりもキラキラと輝いて見える。
 吉羅はそれが嬉しかった。
 こんなにも美しいきらめきを感じることが出来るのだから。
「日野君、では、来週金曜日に、君を元町の駅まで迎えに行く。構わないかね?」
「はい。有り難うございます!」
 ひとつ、ひとつの問いに、煌めくような笑顔で答えてくれる香穂子が、吉羅にはとても愛しい。
 これ以上に綺麗な笑顔はなかった。
「…吉羅さん、有り難うございます。本当に。最高のバースデーイヴになると思います!」
「大袈裟だね、君は」
 本当に大袈裟なぐらいに喜んでくれる香穂子は、とても無垢な素直さを持っているのだろう。
 こんなにも素直で無垢な女性は初めてなのかもしれない。
 だが、その無垢で素直な気質を自分は傷付けてしまうのかと思うと、チクリと胸が痛かった。
 だが、最少の傷で済む筈だ。
 今時の女の子だ。
 既に恋のいくつも経験しているだろう。
 だから何も心配はないはずだ。
 吉羅はそう自分に言聞かせた。
「あ、うちはここです!」
 短いドライブは終わり、吉羅は落胆する自分がいる事に気付く。
「日野君。これは私のプライベートの携帯番号とメールアドレスだ。何かあれば連絡をして欲しい」
 吉羅はメモに、自分の携帯番号とメールアドレスを書き、香穂子に手渡した。
「有り難うございます。私も、メールアドレスと携帯番号を書きますね」
 香穂子は持ち歩いている紙に、サラサラと携帯番号とメールアドレスを書いて、それを吉羅に渡してくれた。
「有り難う。詳しいことは連絡をさせて貰うから」
「はい!」
 香穂子の笑顔を見ていると、本当に幸せな気分になる。
 このような笑顔になれる人物は、本当に稀だろうと、吉羅は思った。
「それでは週末に」
「はい。有り難うございました」
 香穂子が車を降りると、妙に寂しく感じてしまった。
 吉羅が車を発進させると、香穂子はいつまでも見送ってくれている。
 その姿を可愛く思うのと同時に、とても強い印象が残った。

 吉羅の車が見えなくなるまで見送った後、香穂子は家に入った。
 吉羅暁彦に近付けるなんて、神様は最高のプレゼントを下さったのだろうと思う。
 本当に嬉しいプレゼントだ。
 香穂子は、吉羅から手渡されたメモを、いつまでも眺めてしまう。
 今日、初めて自分の存在を解って貰えた。
 それだけでも本当に嬉しいのに、こうしてメールアドレスと携帯番号を知ることが出来るなんて。
 余りにもの幸せな展開に、香穂子自身が驚いてしまっている。
 吉羅と近付けたこと。
 それだけでも嬉しくて、このまま飛び上がってしまいそうだ。
 今まで頑張って生きてきたから、恐らくは神様がご褒美を下さったのだろう。
 なんて素敵なプレゼントだ。
 香穂子はそう思わずにはいられなかった。
 バースデーイヴ。
 この日が素晴らしい日になることを、香穂子は予感せずにはいられない。
 吉羅との初デートに、香穂子は胸を踊らせていた。

 いよいよ明日、吉羅に逢う。
 興奮する気持ちを、香穂子は押さえることが出来なかった。
「日野!」
 キャンパスで金澤に呼び止められて、香穂子は笑顔で頭を下げた。
「調子はどうだ?」
「悪くないです」
 笑顔で答えると、金澤は納得するように頷く。
「だろうな。お前さんの顔を見ていると充実しているようだからな」
「はい。とても充実しています。ヴァイオリンの調子も良いですし。明日、明後日と、誕生日絡みの楽しいことが多いですから! みんなにお祝いして貰えるのが嬉しいんです」
「二日に渡って祝って貰えるのは嬉しいな。だが…」
 金澤はまた心配そうな表情を浮かべる。
「…大丈夫ですよ。金澤先生、それほど心配されないで下さい」
 香穂子が笑顔で言っても、金澤は複雑な表情をするだけだ。
「心配し過ぎるんですよ、先生は。大丈夫ですから、私は!」
「…だがな…」
 金澤はフッと溜め息を吐くと、香穂子を見た。
「…日野、吉羅のことを覚えているか?」
「はい、勿論」
「あいつには近付かんほうが良い。憧れを持ってしまうのは解るが、あいつだけは駄目だ。お前さんが傷つくことになる…」
 金澤は深刻な顔をしている。
 解っている。
 そんなことぐらいは。
 だが、吉羅は香穂子が傷つけなくて済む数少ない人種であることも解っている。
 だからそれぐらいは覚悟した上だ。
「解っていますよ。先生の言いたいことは。大丈夫ですよ! 私は」
 香穂子は穏やかに微笑むと、金澤を見た。
 吉羅は存在そのものが理想的であることはもちろん、そのスタンスも香穂子には魅力的だった。
 このひとなら心配しなくても大丈夫だから。
 先の事を思って愁う必要はないのだ。
「じゃあ失礼しますね」
 香穂子は金澤に深々と頭を下げると、静かに立ち去る。
 吉羅のことだけは、夢見ていたかった。

 仕事の後、短い時間ではあるが金澤に呼び出され、吉羅は静かなバールへと向かった。
「よお、ちょっと話しておかなければならないことがあってな」
「何でしょうか?」
 吉羅は大体の事が察しがつく。恐らくは日野香穂子のことだろう。
 金澤がどの生徒よりも香穂子を気に入っていることは、吉羅も薄々は気付いていた。
「…日野のことだ。きちんと忠告をしておく。本気でないのならば、あいつだけは手を出すな。あいつだけは駄目だ」
 金澤は何処か苦しげな声で言う。そこには恋心を超えた苦悩があるように思えた。
「…金澤さん…。あなたが教え子のことを思うのは分かりますが…、日野君ももう大人です。自分で判断出来るでしょう」
「それを解っているから…お前さんに言っているんだ…。お前さんもあいつも後悔させないために…」
金澤は苦しげに言った後で空を見る。
 そこには切なさと哀しみが滲んでいた。



Back Top Next