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すっきりと目覚めた時、最初に飛び込んできたのは、吉羅の顔だった。 香穂子は痛みと気持ち悪さを何とか堪えながら、愛する男性を見た。 戻って来られたのだ。 それだけで感謝だ。 こうして吉羅と再び逢えたことを、香穂子は神様に感謝をした。 こんなにも幸せなことは他には無い。 痛みにも、麻酔による気持ち悪さも、何とか堪えられるような気がした。 香穂子は吉羅をじっと見つめる。 「暁彦…さん…」 声を掛けると、吉羅が泣きそうに嬉しそうな顔で香穂子を見つめてきた。 なんて幸せな表情なのだろう。 「痛くはないかね…?」 「流石に…少しだけ痛いです…」 「気持ち悪さは?」 「気持ち…悪いです…」 素直に言うと、吉羅は切なそうな顔をする。 「君の痛みも気持ち悪さも直ぐに取ってあげられたら良いのにね…」 「大丈夫…。暁彦さんが…そばにいるだけで…、痛みは…かなり…マシになるよ…」 香穂子は掠れた声で言うと、力が無いが笑みを浮かべる。 吉羅は更に強く手を握り締めた。 「…もう大丈夫だ…」 「…はい…」 吉羅がそう言ってくれるのだから、大丈夫だ。 香穂子はそう信じて、思わず笑顔になった。 「暁彦さん…、有り難う…」 香穂子はまた“有り難う”を言うことが出来ただけでも嬉しかった。 翌日、香穂子は一般病棟に移った。 まだ様子を診なければならない部分はあるようだが、かなりのスピードで回復をしていっている。 これも香穂子の瑞々しい生命力と愛の力だと、誰もが認めるところだった。 少しずつ良くなり、香穂子が心配なくなったところで、吉羅は仕事を再開した。 仕事を終えて見舞いに行くスタイルになり、いよいよ退院も近付いてきている。 ふたりで病室で話しているところに、都築が現れた。 「吉羅さん、朗報よ! 退院出来るわ。真面目に術後を頑張ったからよ。良かったわね」 都築が直ぐに病室に駆け付けてくれ、良い知らせを届けてくれた。 「これでようやく本格的な新婚生活に入れるわね。ただ、まだ躰に負担が掛かることはダメだからね。特にご主人は気をつけてあげて下さい」 「…はい」 遠回しに何を言われているかが解り、少し恥ずかしかった。 香穂子は、ようやく吉羅と一緒に生活が出来ると思うと、飛び上がりたいぐらいに嬉しい。 「焦らずゆっくりと頑張っていくのよ。あなたたちはまだ始まったばかりですから」 「はい。有り難うございます。先生。先生のお陰です」 「あなたたちが頑張ったからよ。手術をされた冬森先生もおっしゃっていたわよ。後は体力を戻すだけね」 都築は本当に心から嬉しそうに言うと、香穂子の背中を撫でてくれた。 ようやく退院の日が決まり、心から嬉しくて思う。 ここがスタートなのだ。 まだ人生を生き始めたばかりなのだから。 ふたりで一緒に。 二年後、香穂子は母親になった。 ずっと夢見ていた吉羅の子供を産んだのだ。 細胞種を患っていたことが嘘のように思えてしまうほどに、香穂子は健康になっていた。 これには主治医の都築も驚いている。 香穂子は子供を抱いてのんびりと庭のパラソルの下で腰を掛ける。 なんて幸せなのだろうかと、思わずにはいられない。 柔らかな太陽の陽射を浴びるだけで、香穂子は匂いたつ幸せを感じていた。 こうして太陽の光を浴びられること。 綺麗な花や 青空を見つめられること。 こうして健康で生きていられること。 当たり前のように思えるが決して当たり前のことではないことを、香穂子は充分に解っている。 こうして生きていられるだけで幸せなのに、腕の中には愛する男性の子供を抱いている。 そして、そばには太陽よりも愛してくれるひとがいる。 香穂子もそれ以上に吉羅を愛している自信はある。 本当に大好きなひと。 これ以上大好きなひとは他にはいない。 香穂子は、人生最大の幸福は、吉羅に逢えたことだと、胸を張って言えた。 吉羅が香穂子のそばにやってくる。手には庭で育てている紫陽花の花がある。本当に美しい。 「紫陽花の季節だからね、食卓に飾ろう」 「有り難う。とっても綺麗」 香穂子はにっこりと笑うと、瑞々しい紫陽花の花を見つめた。 「本当に綺麗…」 「そうだね」 吉羅が子供を抱く香穂子の横にそっと腰を下ろした。 「眠っているみたいだね。本当に気持ち良さそうだ」 「はい」 ふたりで愛息の寝顔をじっと見つめる。それが可愛くて香穂子はまた笑顔になる。 吉羅と出会えたことが奇蹟。 吉羅の子供を得ることが出来たことも奇蹟だ。 香穂子は幸せな気分で、ただ笑顔にならずにはいられなかった。 かつて見た夢は、“予知夢”だったのか。 吉羅はそう思わずにはいられない。 香穂子が喜ぶだろうと、吉羅は庭にある紫陽花を摘む。 食卓に飾れば、華やいだ雰囲気になるだろうと、吉羅は思った。 何よりも香穂子が喜んでくれる姿を見るのが嬉しい。 吉羅は、香穂子と息子がいる場所までゆっくりと歩いていく。 ふたりの姿は夢と同じだ。 いや、それよりももっと美しいと吉羅は思わずにはいられない。 あの時は、まるでパラダイスのように美しいふたりだったが、今はそれ以上に美しい。 吉羅はふたりの夢以上に麗しい姿を見つめながら、ゆっくりと近付いていった。 香穂子と二三言葉を交わした後、吉羅はその横に腰を掛けて夢見るように素晴らしくて、愛しいふたりを包みこむ。 香穂子と出会えたのは奇蹟。 そして息子を得ることが出来たことも。 香穂子に出会えたのは人生で最も意味がある出来事であったことを、吉羅は感じていた。 こんなにも幸せなことはないのだ。 ただ愛するひとがそばにいてくれる。 それだけで嬉しい、幸せだ。 「君が手術を受ける前に、こうしている夢を見たんだよ。これは正夢じゃないかと思って、手術が上手く行くと確信したんだよ」 「そうなんですか。こうして夢のような現実が過ごせて、私は嬉しいですよ」 「そうだね…。私たちは夢を現実にしたのだから、これからもこうして幸せがずっと続くように守って行かなければならないね」 「そうですね。ふたりで最高の幸せを守っていきましょう」 「ああ」 こうして守るべきものを得て、一層強くなったような気がする。 子供は自立をするまで、香穂子は一生守っていきたい。 かけがえのない女性なのだから。 これ以上の相手には、一生かかっても出会うことは出来ないだろうから。 暫く、家族三人で寄り添いながら幸せを噛み締める。 こんなにも素敵な幸せは他には無いと、香穂子は思わずにはいられなかった。 ふたりして子供を寝かしつけた後、ふたりだけの甘い時間が始まる。 吉羅はベッドルームの中にあるベビーベッドに眠る息子を見つめた後、香穂子を背後からしっかりと抱き締めた。 「…暁彦さん…」 「ようやく君を独占出来るね」 「私も暁彦さんを独占することが出来るので嬉しいです」 香穂子は笑顔になると、吉羅の手を思い切り握り締めた。 もう切ない想いをしなくても良いのだ。 自分達の幸せに“リミット”がなくなったのだから。 あの頃は、未来にこのような幸せがあることを願いながらも、叶わないと思っていたから。 「香穂子、愛しているよ。君を永遠にね」 「私も暁彦さんを永遠に愛しています」 期限付きの恋人だったふたりは、不滅の恋人へ。 これからもずっと幸せを紡いでいく。 |