*Limited Lovers*

35


 香穂子が泣き笑いで浮かべた笑顔を、吉羅は永久に忘れないと思う。
 あんなにも凜として綺麗な香穂子は、今までなかったから。
 信じている。
 きっと香穂子は帰ってくる。
 帰って来なければならないのだ。
 香穂子を信じて待つことしか、今は出来ないのだから。
 ふたりでしっかりと抱き合った後、甘く切なく、それでいて力強いキスを交わす。
 大丈夫、きっと大丈夫。
 お互いの信じる気持ちを確かめた。
「行ってきます、暁彦さん」
 香穂子が初めて吉羅の名前を呼んでくれる。
「必ず私は帰って来ますから」
 香穂子の柔らかな声と、笑顔を、吉羅は正確に記憶する。
「待っているから」
 吉羅が想いの丈を込めて呟くと、香穂子は頷き、背筋を伸ばして、麻酔室へと向かった。
 なんて美しく勇気がある背中だろうと、吉羅は思わずにはいられない。
 こんなに美しい香穂子は本当に初めてだ。
 吉羅はまた逢えると信じて、香穂子を見送った。

 手術中は、談話室に待機するようにと、担当看護師に言われ、吉羅たちは待機をした。
 かなり時間がかかる手術だからとのことで、カフェテリアで食事をしたり休憩を取るようにと、勧められた。
 まだ麻酔が始まったばかりだからということで、吉羅たちはカフェテリアに向かうことにした。
 だが、手術の行方が気になり過ぎて、誰もが軽くお茶をしただけで、談話室へと戻ってしまった。
 談話室に行っても余り話をすることはなく、吉羅は談話室の窓から見える横浜の風景を眺める。
 この街の風景を香穂子と肩を並べて見つめたい。
 みなとみらいの夜景を見ながら、快気祝いが出来れば良いのにと、吉羅は思った。
 時計がのろのろと進む。
 香穂子に今朝合わせて貰った時計だが、壊れてしまったのではないかと思うぐらいに、のろのろとし過ぎているように思えた。
「吉羅さんのご家族の皆様はどちらに」
 ナースステーションから、看護師がやって来た。
 心臓が痛くて、胃が強張るのを感じた。
「手術が無事に終了しました。吉羅さんはそのまま集中治療室に向かいます。先生からのお話がございますから、ご家族の方は病理室へと向かって下さい」
 看護師から病理室までの地図を受け取り、吉羅たちは向かう。
 手術が終了。
 成功したということだろうか。
 病理室前のロビーで、吉羅たちは呼ばれるのを待つ。
 その間、病理室前の電動のレールを、銀色の箱が何度も行来をする。
 そこに切除したものが入っているのだろう。
「吉羅さん、お待たせしました」
 都築は半分泣きそうな顔で、吉羅たちの前に現れた。
 一瞬、緊張が走る。
「香穂子さんですが、無事に手術が終わりました。現在容態は安定しています。後は経過次第です。このまま容態が安定していることが確認出来れば、手術は成功ということになります」
 医師であるが故に、都築は言葉を選んでいるようだった。
 吉羅はホッとする余りに躰から力が抜けて、そのまま泣き出しそうになる。
 とにかくひとつの大きな山は越えたのだ。
 吉羅は深呼吸をすると、ホッと笑みを浮かべた。
「ではこちらへどうぞ」
「有り難うございます」
 吉羅は静かに病理室に入る。
 すると、外科医が笑みを浮かべていた。
「吉羅さん、あなたの愛が勝ちましたね。間一髪、香穂子さんの神経芽細胞種を切除出来ました。それがこちらです。これが彼女を苦しめていた悪魔です」
 病理を見せられ説明を受けながら、吉羅は冷静でいられた。とても落ち着いた気分だった。
「先生、本当に有り難うございます。助かりました」
 吉羅が深々と頭を下げると、医師は首を横に振る。
「難手術ではありましたが、奇蹟が起こったんですよ。それはあなた方ご夫婦の愛の力だと私は思っていますよ」
「先生…」
 吉羅は嬉しくて、泣き出しそうになる。
「もう血流を邪魔をしているものはなくなりました。後は術後の回復次第です。大丈夫だとは言い切られないところが辛いですが、恐らくは大丈夫です。後は都築医師に任せていますから」
「有り難うございました」
 吉羅はこれまでにないぐらいに深々と頭を下げる。
 なかなか頭を上げることが出来ない。それぐらいに医師には感謝をしていた。
 香穂子の母親も深々と頭を下げる。
「あの子は本当に幸せものです。あなたのような方に巡り逢い、愛されたのですから…」
 母親は吉羅に何度も頭を下げる。
 吉羅もまた頭を下げた。
「…私こそ…、彼女と出会って生きる意味を知りました。感謝してもしきれません…。本当に有り難うございます。私に香穂子を下さって」
 吉羅はこれ以上の感謝はないと思った。

 香穂子は集中治療室に運ばれ容態を看られる。
 吉羅も中に入ることを許されて、ずっと手を握り締めていた。
「香穂子…よく頑張ったね…」
 吉羅は声を掛けながら、香穂子の回復を祈った。
 香穂子がそばにいればそれだけで良い。
 神様からの最高のプレゼント。
 それは香穂子だと思った。

 どれぐらい時間が経ったかは解らない。
 香穂子の瞼が僅かに動く。
「香穂子…?」
 名前を呼ぶと、まつげだけがちらちらと動いた。
「…痛い…」
 最初に言った言葉は、“痛い”。
 吉羅は香穂子の手を握り締めて、そっと語りかけた。
「何処が痛いのかね?」
「…胸が痛い…」
 点滴や複数のカテーテルが着けられて、その上酸素マスクまでされている。
 痛々しいながらも、香穂子の生命力の素晴らしさが感じられた。
「…香穂子…、先生を呼ぶから待ちなさい…」
「…うん…。…痛いの…」
「ああ。解っているから」
 吉羅は直ぐにナースステーションに連絡をし、香穂子が目覚めた旨を言った。
 すると担当看護師、手術を担当した医師と同行した外科医、更には都築がやってきた。
 直ぐに香穂子の様子を診察する。
「…これなら大丈夫ですね…。恐らく明日には病室に戻れるでしょう。大手術でしたから、少し入院して頂きますが、梅雨が明ける頃には退院が出来るでしょうね」
 医師は太鼓判を押して、にっこりと笑ってくれる。
 吉羅は更にホッとした。
「吉羅さん、痛いですか…?」
「…吉羅…? あ、私…?」
 意識が朦朧としているせいか、自分が“吉羅香穂子”であることが解らないようだ。
「…あなたですよ。吉羅香穂子さん…。痛いですか?」
「痛くて…熱い…」
「じゃあ痛み止めと解熱剤の点滴をいれますね。吐き気は?」
「大丈夫…」
 香穂子はまるで子どものように話している。
 それが可愛くもあり、少しだけ切ない。
「…解りました。では痛み止めと解熱効果のある点滴を入れますね…」
「…はい…」
 看護師は直ぐに香穂子に氷枕をあてがい、痛み止めの点滴を行ってくれる。
 吉羅はその様子をじっと見ていた。
 医師は香穂子の様子を確認すると、何度も頷いた。
「…吉羅さん、峠は越えましたから」
「はい。有り難うございました」
「食事はもう少ししたら出来るようになりますから。重湯から始めなければなりませんがね」
「はい」
 香穂子の様子を見て、医師たちは何度も頷く。
 もう安心だと言っているようだった。

 再びふたりきりになり、吉羅は香穂子の手を握り締める。
 まだ熱っぽくて辛そうだ。
 香穂子はうつらうつらとしながら、麻酔と闘っている。
「痛い…」
「大丈夫だ。もうすぐ薬は効くから」
「うん…」
 香穂子とこうして話せる。
 無事に戻ってきてくれて有り難うと、吉羅は心の中で呟いた。



Back Top Next