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香穂子が泣き笑いで浮かべた笑顔を、吉羅は永久に忘れないと思う。 あんなにも凜として綺麗な香穂子は、今までなかったから。 信じている。 きっと香穂子は帰ってくる。 帰って来なければならないのだ。 香穂子を信じて待つことしか、今は出来ないのだから。 ふたりでしっかりと抱き合った後、甘く切なく、それでいて力強いキスを交わす。 大丈夫、きっと大丈夫。 お互いの信じる気持ちを確かめた。 「行ってきます、暁彦さん」 香穂子が初めて吉羅の名前を呼んでくれる。 「必ず私は帰って来ますから」 香穂子の柔らかな声と、笑顔を、吉羅は正確に記憶する。 「待っているから」 吉羅が想いの丈を込めて呟くと、香穂子は頷き、背筋を伸ばして、麻酔室へと向かった。 なんて美しく勇気がある背中だろうと、吉羅は思わずにはいられない。 こんなに美しい香穂子は本当に初めてだ。 吉羅はまた逢えると信じて、香穂子を見送った。 手術中は、談話室に待機するようにと、担当看護師に言われ、吉羅たちは待機をした。 かなり時間がかかる手術だからとのことで、カフェテリアで食事をしたり休憩を取るようにと、勧められた。 まだ麻酔が始まったばかりだからということで、吉羅たちはカフェテリアに向かうことにした。 だが、手術の行方が気になり過ぎて、誰もが軽くお茶をしただけで、談話室へと戻ってしまった。 談話室に行っても余り話をすることはなく、吉羅は談話室の窓から見える横浜の風景を眺める。 この街の風景を香穂子と肩を並べて見つめたい。 みなとみらいの夜景を見ながら、快気祝いが出来れば良いのにと、吉羅は思った。 時計がのろのろと進む。 香穂子に今朝合わせて貰った時計だが、壊れてしまったのではないかと思うぐらいに、のろのろとし過ぎているように思えた。 「吉羅さんのご家族の皆様はどちらに」 ナースステーションから、看護師がやって来た。 心臓が痛くて、胃が強張るのを感じた。 「手術が無事に終了しました。吉羅さんはそのまま集中治療室に向かいます。先生からのお話がございますから、ご家族の方は病理室へと向かって下さい」 看護師から病理室までの地図を受け取り、吉羅たちは向かう。 手術が終了。 成功したということだろうか。 病理室前のロビーで、吉羅たちは呼ばれるのを待つ。 その間、病理室前の電動のレールを、銀色の箱が何度も行来をする。 そこに切除したものが入っているのだろう。 「吉羅さん、お待たせしました」 都築は半分泣きそうな顔で、吉羅たちの前に現れた。 一瞬、緊張が走る。 「香穂子さんですが、無事に手術が終わりました。現在容態は安定しています。後は経過次第です。このまま容態が安定していることが確認出来れば、手術は成功ということになります」 医師であるが故に、都築は言葉を選んでいるようだった。 吉羅はホッとする余りに躰から力が抜けて、そのまま泣き出しそうになる。 とにかくひとつの大きな山は越えたのだ。 吉羅は深呼吸をすると、ホッと笑みを浮かべた。 「ではこちらへどうぞ」 「有り難うございます」 吉羅は静かに病理室に入る。 すると、外科医が笑みを浮かべていた。 「吉羅さん、あなたの愛が勝ちましたね。間一髪、香穂子さんの神経芽細胞種を切除出来ました。それがこちらです。これが彼女を苦しめていた悪魔です」 病理を見せられ説明を受けながら、吉羅は冷静でいられた。とても落ち着いた気分だった。 「先生、本当に有り難うございます。助かりました」 吉羅が深々と頭を下げると、医師は首を横に振る。 「難手術ではありましたが、奇蹟が起こったんですよ。それはあなた方ご夫婦の愛の力だと私は思っていますよ」 「先生…」 吉羅は嬉しくて、泣き出しそうになる。 「もう血流を邪魔をしているものはなくなりました。後は術後の回復次第です。大丈夫だとは言い切られないところが辛いですが、恐らくは大丈夫です。後は都築医師に任せていますから」 「有り難うございました」 吉羅はこれまでにないぐらいに深々と頭を下げる。 なかなか頭を上げることが出来ない。それぐらいに医師には感謝をしていた。 香穂子の母親も深々と頭を下げる。 「あの子は本当に幸せものです。あなたのような方に巡り逢い、愛されたのですから…」 母親は吉羅に何度も頭を下げる。 吉羅もまた頭を下げた。 「…私こそ…、彼女と出会って生きる意味を知りました。感謝してもしきれません…。本当に有り難うございます。私に香穂子を下さって」 吉羅はこれ以上の感謝はないと思った。 香穂子は集中治療室に運ばれ容態を看られる。 吉羅も中に入ることを許されて、ずっと手を握り締めていた。 「香穂子…よく頑張ったね…」 吉羅は声を掛けながら、香穂子の回復を祈った。 香穂子がそばにいればそれだけで良い。 神様からの最高のプレゼント。 それは香穂子だと思った。 どれぐらい時間が経ったかは解らない。 香穂子の瞼が僅かに動く。 「香穂子…?」 名前を呼ぶと、まつげだけがちらちらと動いた。 「…痛い…」 最初に言った言葉は、“痛い”。 吉羅は香穂子の手を握り締めて、そっと語りかけた。 「何処が痛いのかね?」 「…胸が痛い…」 点滴や複数のカテーテルが着けられて、その上酸素マスクまでされている。 痛々しいながらも、香穂子の生命力の素晴らしさが感じられた。 「…香穂子…、先生を呼ぶから待ちなさい…」 「…うん…。…痛いの…」 「ああ。解っているから」 吉羅は直ぐにナースステーションに連絡をし、香穂子が目覚めた旨を言った。 すると担当看護師、手術を担当した医師と同行した外科医、更には都築がやってきた。 直ぐに香穂子の様子を診察する。 「…これなら大丈夫ですね…。恐らく明日には病室に戻れるでしょう。大手術でしたから、少し入院して頂きますが、梅雨が明ける頃には退院が出来るでしょうね」 医師は太鼓判を押して、にっこりと笑ってくれる。 吉羅は更にホッとした。 「吉羅さん、痛いですか…?」 「…吉羅…? あ、私…?」 意識が朦朧としているせいか、自分が“吉羅香穂子”であることが解らないようだ。 「…あなたですよ。吉羅香穂子さん…。痛いですか?」 「痛くて…熱い…」 「じゃあ痛み止めと解熱剤の点滴をいれますね。吐き気は?」 「大丈夫…」 香穂子はまるで子どものように話している。 それが可愛くもあり、少しだけ切ない。 「…解りました。では痛み止めと解熱効果のある点滴を入れますね…」 「…はい…」 看護師は直ぐに香穂子に氷枕をあてがい、痛み止めの点滴を行ってくれる。 吉羅はその様子をじっと見ていた。 医師は香穂子の様子を確認すると、何度も頷いた。 「…吉羅さん、峠は越えましたから」 「はい。有り難うございました」 「食事はもう少ししたら出来るようになりますから。重湯から始めなければなりませんがね」 「はい」 香穂子の様子を見て、医師たちは何度も頷く。 もう安心だと言っているようだった。 再びふたりきりになり、吉羅は香穂子の手を握り締める。 まだ熱っぽくて辛そうだ。 香穂子はうつらうつらとしながら、麻酔と闘っている。 「痛い…」 「大丈夫だ。もうすぐ薬は効くから」 「うん…」 香穂子とこうして話せる。 無事に戻ってきてくれて有り難うと、吉羅は心の中で呟いた。 |