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いつの間にか眠っていたらしい。 眠れないと思っていたのに、こんなにも簡単に眠れるとは、思ってもみなかった。 夢を見ていた。 香穂子が夢の中で笑っている。 吉羅と寄り添いながら、腕の中に赤ん坊を抱いている。 ふたりの子ども。 ふたりとも太陽の光にキラキラと輝いている。 こうなれば良いのにと、吉羅は思わずにはいられない。 柔らかくて温かな最高の絹のような幸福感が吉羅を包みこんでいる。 幸せでしょうがない。 三人でいるだけで幸せな気分を味わうことが出来た。 ずっとずっとこうしていたい。 そう思ったところで、吉羅の目が覚めた。 眠る前に握り締めていた香穂子の手をギュッと握り締める。 あんなにも幸福な夢を見たのだから、きっと手術は成功する。 成功以外は有り得ないと、吉羅は思わずにはいられなかった。 吉羅にとって何よりもの幸福。それが香穂子なのだ。 香穂子が人生最高の幸いなのだということを、吉羅は強く感じていた。 吉羅が自信を持って気持ち良い気分で過ごしていると、香穂子がベッドで身動ぎをするのが解った。 「…起きたのかね…?」 「…はい。吉羅さんも…」 香穂子は吉羅に顔を向けて、にっこりと微笑んだ。 「ああ。今朝はとても幸せな夢を見たから目覚めが良かったんだよ。香穂子、本当に良い夢だった。だから 今日の手術は成功するよ。必ず上手くいくから」 「…はい…。有り難うございます…」 香穂子はにっこりとただ微笑む。 人生を達観したかのようなまなざしと微笑みに、吉羅は胸を突かれる。 香穂子は、今までで一番透明感があり、美しかった。 「起きようか」 「そうですね」 吉羅と香穂子は手を繋いだまま一緒に起き上がった。 「…吉羅さん、本当に有り難う」 香穂子は綺麗な水のような声で言うと、吉羅の手を弱い力ながら握り締めてくれる。 吉羅は、逆に励まされてしまったような気分になった。 「香穂子、気分はどうかね?」 「大丈夫ですよ。私も…とても心地良い気分なんですよ…。先ほどの吉羅さんの夢の話を聞いて、きっと大丈夫だって思えるようになりました。有り難う…。お医者様を信じて、総てを委ねようと思います」 「香穂子…」 「手術の準備をしなくちゃいけませんね。細々な準備をしますね」 「ああ」 香穂子は手術用の寝間着に着替え、細々とした用を淡々と済ませていく。 そんな様子を見ていると、吉羅はまた胸が痛い。 大丈夫だ。 絶対に大丈夫だ。 あんなにも素晴らしい夢を見たのだから、手術が失敗するはずはないと、吉羅は思った。 後は信じて待てば良いから。 きっと大丈夫だ。 奇跡を起こすために、こんなにもしっかりと準備をしたのだから。 香穂子が準備をして戻ってきた後、ベッドに腰掛ける。吉羅はその手をずっと握り締めていた。 吉羅が今何時だと腕時計で確認しようとすると、時計が停まっていた。 「吉羅さん、私が時間を合わせます」 「ああ、頼んだ」 香穂子はテレビをつけると、時間を合わせてくれた。 この腕時計の時間を合わせるのが、妻としての最後の仕事になるのかもしれない。 本当に腕時計しか合わせなかった、申し訳ない妻になってしまうけれども。 香穂子はいつもよりも丁寧に時計の時間を合わせた。 吉羅に丁寧に差し出す。 「有り難う」 吉羅は本当に幸せそうに笑ってくれると、丁寧に時計を着けてくれた。 これでホッとした。 吉羅への仕事はお終いだ。 また、吉羅にこうして時計を合わせてあげられたら良いのにと、願わずにはいられなかった。 「…吉羅さんは、どのような夢を見たんですか?」 吉羅が手術の成功を確信出来るような、幸せな夢というのは、どのようなものなのだろうか。 知りたくなり、香穂子は吉羅を見た。 「吉羅さんは、どのように幸せな夢を見たんですか?」 「本当に幸せでしょうがない夢だったよ。だから、君はきっと助かると思ったよ…。だが、どのような夢だったか具体的には秘密だ。手術が終わった後に言おう。楽しみにしていたまえ」 「そうですね」 永遠に訊くことはないのかもしれなかった。 7時前後になると、病室が賑やかになる。 両親と天羽、兄と姉、そして金澤がやってきて、かなり賑やかな雰囲気になった。 香穂子は、心からのお礼をここにいる人々には言いたかった。 ベッドの上ではあるが、香穂子は背筋を伸ばして、愛しい人々を見つめた。 ずっと忘れないでいる意味を込めて見つめる。 「皆様、今日は有り難うございます。皆様と一緒に過ごせた日々は本当に幸せです。こうして手術前に来て下さって有り難うございます。私には有り難うしか言えません」 香穂子が深々と頭を下げた後、笑顔で愛する者たちを見つめる。 「本当に有り難うございます」 香穂子は決して泣くまいと誓いながら、笑顔で過ごした。 誰もが洟をすすって忍び泣く。 有り難うだけは言いたかった。 「きっと必ず元気になると信じて、手術を頑張っていきますから。手術は成功すると信じていますから。だから待っていて下さい」 香穂子は笑顔で力強く言う。 手術が必ず成功すると、香穂子は強く信じていた。 大好きな人達のためにも。 愛する人のためにも。 香穂子は必ず手術が成功して戻って来なければならないのだから。 「吉羅さん、時間です。麻酔室まで歩いて行きましょうか?それともストレッチャーを押して行きましょうか?」 看護師が呼びに来てくれ、香穂子は背筋を伸ばして立ち上がる。 「はい。歩いて行きます」 香穂子は笑顔で言うと、背筋を伸ばして歩いていく。 「ご主人もご一緒に、麻酔室の前の控え室までどうぞ」 「有り難うございます」 吉羅は香穂子の手をしっかりと握り締めて、支えてくれる。 この力強い手の温もりを勇気に代えて、人生最高の戦いに挑もう。 香穂子は、吉羅の手を握り返す。 本当は恐ろしい。 何も感じない眠りの世界に連れていかれたままで、自分がこのままいなくなってしまうのが。 胸が苦し過ぎる。 だがそれを補うように、吉羅が生きる勇気、闘う勇気、そして明るい未来への希望をくれるから、大丈夫。 麻酔室に向かう特別なエレベーターに乗りながら、ふたりは無言だった。 だが、何万もの言葉を並べたのと同じぐらいに心を通じ合わせていた。 控え室に入ると看護師が気遣って、吉羅とふたりきりにしてくれる。 ほんの短い時間。 有り難い温かな時間だ。 香穂子は吉羅の躰をギュッと抱き締めた。 吉羅もまた抱き締めてくれる。 お互いの温もりを闘う勇気に変換する。 「有り難う色々と。あなたにはまだきちんと有り難うを言っていないから、有り難うを言うために必ず戻ってくるね。だって、一生かかっても、あなたに“有り難う”を言い足りないぐらいに、感謝しているんだ…」 「香穂子…」 話していてやはり涙が込み上げてくる。だが涙を流さないように必死になって堪えた。 最高の笑顔で吉羅を見る。 泣き笑いになってしまった。 ふたりで唇をそっと重ねるだけのキスをする。 始まりのキス。 香穂子は笑顔でもう一度吉羅を見る。 魂にしっかりと刻み付けるために。 「行ってきます、暁彦さん」 初めて吉羅の名前を呼ぶ。 「必ず私は帰って来ますから」 「待っているから」 香穂子は頷くと、背筋を伸ばして、麻酔室へと向かった。 決して振り返らないと誓って。 |