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「香穂子…! 香穂子…!!!」 吉羅は、崩れ落ちた香穂子を咄嗟に抱き留めて、何度も名前を呼ぶ。 だが、全く反応をしない。 「…香穂子…っ!」 ギュッと強く抱き締めたとしても、香穂子は全く反応を示せなかった。 吉羅は悔し涙が込み上げてくるのを、何とか堪える。 「…吉羅さん、診せて下さい」 香穂子の主治医である都築が直ぐに近付いてくる。 「病院の救急車を手配しました。直ぐに到着します」 流石は医師であるだけあり、都築は冷静に対応をする。 香穂子の様子をしっかりと診て、脈拍を確かめる。 「生きてはいますが危険です。直ぐに冬森医師に連絡をします」 都築は、吉羅に代わって直ぐに連絡をしてくれた。 「冬森先生、日野香穂子の容態が急変しました。今どちらに…、え? 都内に! スモルニィ大学附属病院にお願いします。明日、朝一番の緊急手術ですね? 解りました、それまで何とか状態を保てるようです。有り難うございます」 都築の声を聞きながら、吉羅は胸が軋むのを感じた。 いよいよなのだ。 奇蹟に挑戦するのは。 香穂子とふたりならばきっと奇蹟を起こせると、吉羅はただそれだけを信じていた。 程なく救急車がやってきて、吉羅は乗り込む。 夫として、香穂子の両親と共に乗り込んだ。 「香穂子、頑張るんだ」 救急車の中で、都築が出来る限りのことをしてくれた。 酸素吸入をつけられ、痛々しい姿の香穂子を見つめながら、吉羅はその手を力強く握り締める。 どうか握り返して欲しい。 吉羅はただそれだけを祈る。 もう一度自分だけに笑いかけて欲しい。あの太陽のような力強い笑顔を見てみたい。 吉羅は顔色を失った香穂子を見る。 不思議と美しくて穏やかな顔をしている。 吉羅は本当に綺麗だと思う。 だが、生命力溢れる香穂子のほうがもっともっと美しいと思う。 吉羅は心からそう思った。 香穂子は直ぐに治療室に運ばれ、吉羅はそれに付き添う。 都築が出来る限りの処置をしてくれる。 明日の朝の手術が始まるまで、今の状態を維持しなければならない。 そのために、都築は処置を講じてくれていた。 一通りの処置が終わり、暫く、香穂子は眠ったような状況だった。 「…香穂子、香穂子…」 何度か名前を呼びながら、吉羅は香穂子の手を擦り続けた。 すると香穂子はゆっくりと目を開けた。 目を開けるだけでも奇蹟なのではないかと、吉羅は思わずにはいられなかった。 「…吉羅さん…」 「目覚めたかね?」 「…私…また発作を起こしたんですね…」 香穂子は掠れた声で呟く。その声を聴くだけで、吉羅は泣きそうになった。 香穂子はもう覚悟しているのだ。 次はないと。 次に発作が起こる時は、命が尽きるのだと。 香穂子は幸せそうに微笑むと、吉羅の手を握り締める。 「吉羅さん…、私…」 「パーティが終わった後、倒れたんだ。都築医師がいてくれたから、直ぐに応急処置を行うことが出来た…」 吉羅はそこで一旦、言葉を切る。次の言葉を続けるには、深呼吸が必要だと思った。 「…明日の朝、手術をする…」 「…はい…。いよいよなんですね…」 香穂子は現実を受け入れるように、にっこりと笑った。 都築が香穂子の様子を見にきてくれる。 「…香穂子ちゃん、大丈夫かしら…? 病室に戻るけれど構わない?」 「はい、随分と落ち着いていますから大丈夫です。病室に戻して下さい」 「解りました」 都築は頷くと、吉羅を見た。 「間も無く点滴が終わりますから、そのタイミングで病室に戻って貰います。後、付添は1名までですが、付添われますか?」 香穂子の両親を見ると付添いたい気持ちが出ている。 吉羅も付添いたいが、両親にもそばにいさせてやりたいと思う。 「…吉羅さん…そばにいて…わがままだけれど…」 吉羅の苦悩を消すように、香穂子が笑顔で言う。 「付き添おう」 「嬉しいです…」 香穂子は笑顔を吉羅に向けた後で、両親を見た。 「お父さん、お母さん、ごめんなさい…。吉羅さんのそばにいたいの…」 香穂子は今にも泣きそうな顔で、両親に言う。 両親はそれを受け入れてくれ、ただ頷いた。 「有り難う…」 「ご両親、明日の朝8時から手術を行います。午前7時頃に、病院に見えて下さい」 「はい、解りました」 両親は頷いた後、代わる代わるに香穂子の顔を見つめる。 「…有り難うございます…お父さん、おかあさん。また、明日ね?」 「ええ、また明日。今夜はしっかりと眠りなさい」 「はい、有り難う」 香穂子はいつもよりも力は無いが笑顔になる。 そのまま両親を見送った。 ようやく点滴が終わり、香穂子は病室へと移動する。 病室は快適な個室だ。 吉羅用のベッドが用意され、しかもシャワールームがついている。 「…吉羅さん…とんでもない“新婚初夜”になってしまいました…。ごめんなさい…」 「大丈夫だ。そんなに気にやむことはない…」 「はい…」 「元気になったら湯河原に先ずは行こうか。その後はヨーロッパに新婚旅行だ」 「有り難う。それを楽しみに手術…、頑張りますね…」 「ああ」 香穂子はくすりと笑うと目を閉じる。 「疲れたみたいなので、ゆっくりと寝ますね」 「…ああ。ゆっくりとおやすみ…」 「吉羅さんもゆっくりと眠って下さいね…」 「ああ」 香穂子は暫くして寝息を立てて眠り始めた。 その寝顔を確かめてから、吉羅は病室を出た。 すると、天羽と金澤が心配するかのように、やってきて。 「吉羅、日野は…」 「明日、手術をします」 「そうか…」 金澤は神妙な顔をして頷く。 「明日の朝、手術をします」 「はい」 天羽も頷く。 ふたりにはもう解っていた。 これが香穂子にとっては、ラストチャンスなのだということを。 「金澤さん、煙草を一本下さいませんか…? 後、ライターがあれば貸して頂きたい」 「お前さん、煙草を吸わないんじゃ…」 「一本ぐらいは…、たまには吸いたくなりますよ…」 「解った」 金澤は煙草を一本とライターを吉羅に渡す。 「有り難うございます」 吉羅は静かに言うと、それをポケットに入れた。 「じゃあ俺たちはこれで…。明日…、来るから」 「はい。7時に起こし下さい」 「解った」 金澤たちは、吉羅がひとりになりたいことを察したのだろう。 何も言わずに帰っていった。 吉羅はひとりになる。 そっと屋上へと向かった。 病院の屋上は、驚く程に景色が美しかった。 みなとみらいを一望出来るのだ。 とても綺麗だ。 だが横には香穂子はいない。 明日、この近未来的な夜景を、ホッとした気分で見つめられたら良いのに。 吉羅は久し振りに煙草を口にする。 ライターで火をつけて、紫色の煙をくゆらせる。 吉羅は煙草を吸いながら、煙が目に染みるのを何とか我慢する。 ここでは泣けない。 泣いてはならない。 希望が消えたわけではないのだから。 だが瞳に映るみなとみらいの夜景は、滲んでいた。 香穂子は朝、きちんと目覚めたことに感謝をする。 今日が文字通りラストデイになるかもしれないのだ。 人生最期の日になるかもしれない。 だから辛いから苦しいからと泣いてはいけないと思う。 最後は笑顔でお別れをしたかった。 特に愛するひとには。 きちんと皆に“有り難う”と言いたかった。 それが自分にとって最期の仕事だと思った。 笑顔の練習をしようと起き上がろうとすると、吉羅の手としっかりと繋がっていた。 |