*Love Afair*


 嘘の婚姻をこれ以上続ける必要はない。
 そろそろ吉羅を自由にしてあげたい。
 香穂子自身はまだまだ結婚を続けても構わない立場ではあるが、これ以上吉羅を“結婚”に縛り付けて いてもしょうがなかった。
 そもそもこの結婚はビジネスの契約と同じ。
 それを言ったのは、他ならぬ吉羅自身だったのだから。
 吉羅は、政略的な結婚から逃れるために。そして、大口ビジネスの契約を成功させるために、便宜上の  結婚をしなければならない立場に立たされていた。
 吉羅の立場を危うくさせないために、香穂子は結婚を受け入れた。
 完全に別居婚。
 しかも、公式的な場面の時だけに、妻として振る舞えば良いというものだった。
 吉羅には、パトロンとしても多大なる尽力を貰っているから、香穂子はそれを直ぐに受け入れた。
 それに、自分以外の女性が、吉羅な妻を名乗るのは耐えられなかったから。
 結婚して二年。
 香穂子の役割を終えて一年。
 離婚を申し出られたわけではないが、そろそろ潮時なのかもしれない。
 吉羅は、最近、香穂子ではない別の女性を公式な場所に連れていくようになった。
 本当に綺麗な女性だ。
 恐らくは吉羅の本命なのだろうと思う。
 ならば、そろそろこの契約結婚を解消しても構わないだろう。
 吉羅にもされが一番乗り違いない。
 ただし、香穂子にはかなり痛い事実になることは間違ないけれども。
 本当の意味での夫婦の関係はなかったのだから。
 普通はキスもしない夫婦なんていないだろうから。
 そういう意味では友人のようなものだった。
 いや、友人よりも浅い関係だったかもしれない。
 あるのは香穂子が持つ、吉羅への一方的な恋心だけだった。

 香穂子は、吉羅がいるオフィスビルに来ていた。
 相変わらず立派なビルだ 。
 ここの最上階の役員室に吉羅暁彦はいる。
 相変わらずテキパキと仕事をしているのだろう。
 香穂子はそんなことを思いながら、社の受付へと向かう。
 本名は吉羅香穂子。だが、それは飾りの名前といっても良い。
 吉羅と一緒にいる時以外には、いつも旧姓である、日野香穂子を名乗っていたのだから。
 吉羅とは半年ほど逢ってはいない。
 そのような夫婦はいるかもしれないが、それは異常以外にはない。
 勿論、香穂子たちも契約結婚であるから、異常なのだろうが。
 香穂子は、吉羅と対等に話をするために、今日はピシリとしたスーツに、ハイヒール姿で来ていた。
 就活中の学生のようには見られたくはなかったから、わざと華やかな白いスーツで来た。
 このスーツも、吉羅にプレゼントをして貰ったものだ。
 香穂子は颯爽と受付に向かう。
 自分はまだ吉羅の妻なのだから堂々としていれば良いのだ。
 香穂子は自分自身にそう言い聞かせていた。
 吉羅の妻ではまだあるのだから。
 香穂子は、背筋をきちんと伸して、受付の前に立った。
 美しき門番が、香穂子を真っ直ぐ見ている。
「CEOの吉羅暁彦さんにお会いしたいです。香穂子です」
 受付嬢は怪しげなまなざしを香穂子に向けて来る。
 新入りだと思った。
 前の受付嬢ならば、直ぐに通してくれたのだから。
「秘書の火原さんに連絡をお取り下さいませんか?」
 受付嬢は訝しげなまなざしのまま、秘書に連絡を取ってくれる。
 だが秘書に連絡をするなり、驚いたようなバツの悪そうな表情になる。
 それは当然だろう。
 財界でも有力若手経営者として辣腕を振るっている吉羅暁彦の妻が、こんなにも若いのだから。
 驚いても仕方がない。
 それに、吉羅が結婚していることを知らなくても不思議ではない。
 香穂子は背筋を延ばすと、にっこりと微笑んだ。
「お待たせ致しました。CEOがお会いになるそうです。こちらがセキュリティカードです。最上階にお進み下さい」
「有り難うございます」
 香穂子はセキュリティ証書を受け取ると吉羅がいるCEO室へと向かう。
 吉羅の職場には久し振り来たが、毎度ながら緊張していた。
 しかも今回は、吉羅に離婚を申し出るのだから、当然だ。
 吉羅ときちんと話が出来るかは分からないが、恐らくは心地よく受け入れてくれるだろうと思う。
 香穂子はセキュリティを解除して、直通エレベーターで最上階へと向かった。
 近付くにつれてかなり緊張する。
 鼓動は激しくなる一方だ。
 香穂子は背筋を何とか伸して、最上階へと降り立った。
 最終のセキュリティは、吉羅の秘書だ。
 香穂子はインターフォンを押して、用件を伝える。
 するとドアが開き、吉羅暁彦自らが出て来た。
「久し振りだね、香穂子」
「ご無沙汰しています、吉羅さん」
 香穂子が礼儀正しく挨拶をすると、吉羅は皮肉げに眉を上げる。
「…別居婚とはいえ…、私たちは…、結婚しているのではないかね? 正確には君も“吉羅さん”の筈だが…?」
 吉羅は相変わらず冷徹な雰囲気を滲ませながら呟いた。
「…確かにそうですが…」
「…まあ、良い。中に入りたまえ。色々と話をしなければならないからね、私たちは…」
 吉羅は淡々と言うと、香穂子を、奥にある応接ルームへとエスコートしてくれた。
 奥には確か、吉羅のプライベートな客などをもてなすことが出来るスペースがあったはずだが、そこに案内を してくれているようだった。
「飲み物は何が良いかね?」
「直ぐに失礼しますので」
 香穂子が礼儀正しく言ったが、吉羅は気に入らないのか目をスッと細めた。
「こちらに掛けたまえ。紅茶でも淹れよう」
「本当にお構いなく」
 本来ならば妻である自分がしなければならないことを、吉羅はやってくれる。それが少しだけ香穂子には恥ずかしかった。
「どうぞ…」
「有り難うございます」
 吉羅に芳醇な紅茶を出して貰い、香穂子はそれを有り難く思う。
「君がここに来たのは話があるからだろう? 私も君に用件があるからね。ちょうど良かったよ」
「…はい」
 恐らくは同じ用件だろう。
 そう思うと、ほんのりと切ない気分になった。
「用件は何かね? 先ずは君からだ」
「有り難うございます」
 香穂子はいざ言うために、勇気を掻き集めた。
「…吉羅さん…そろそろ潮時だと思っています…」
「…何がかね?」
「私たちは離婚すべきではないでしょうか」
 香穂子がストレートに言うと、吉羅の表情は更に険しいものとなった。
 吉羅は静かに香穂子を見る。
 その目力はかなりのもので、香穂子はすっかりあっという間に飲み込まれていく。
「…吉羅さん…、私たちは元々契約結婚です。あなたに対する責務を果たした以上は、夫婦でいる必要はないかと思うのです」
 香穂子は誤魔化しても仕方がないので、ストレートに言った。
「…もう半年も逢っていませんし…、特に、これ以上は結婚を続けても、何もメリットはないかと…」
吉羅は冷酷なまなざしで、ただ香穂子を見つめてきた。
「…私は離婚するつもりはない」
 吉羅はシンプルにかつスマートに言う。
 キッパリと言われて、香穂子は驚いた。
「どうして? 吉羅さんも自由になれるはずです」
 吉羅は溜め息を吐くと、香穂子を見た。
「そうとは限らない。香穂子、私は離婚しない。早速だが、きみには妻として一緒に来て貰いたい場所がある。来てくれないかね」
「…吉羅さん…、それは…」
 吉羅の言葉に香穂子は戸惑うばかりだ。
「…君には選択の余地はないよ」
 吉羅は冷徹に言い放つと、香穂子の手をしっかりと握り締めた。



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