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吉羅が離婚を望んではいない。 これはどういうことなのだろうかと、香穂子は思う。 元々、吉羅とは契約結婚であるし、しかも男女の関係は一切ない。 友人関係というよりは、師弟関係にも似た間柄だった。 そのせいか、香穂子はいつも吉羅に対しては、敬語だし、まるで教師に話しているように話している。 吉羅の妻としての役割は、もう充分過ぎるぐらいに果たしたと思っている。 だからもう自分は必要ない。 その証拠に、吉羅からはこの半年間、全く声が掛からなかったのだから。 それが総てを表している。 少なくとも香穂子はそう思っていた。 なのに吉羅は婚姻を継続させるという。 流石にこれには香穂子も驚いてしまった。 「…それは…、世間体があるからですか…?」 香穂子はやんわりと吉羅に問い質した。 吉羅のような社会的な地位が高い者は、世間体を気にするものだからだ。 吉羅は皮肉げに唇を歪めて、嘲笑を瞳に浮かべた。 「…私がそのようなものを気にすると、君は本気で思っているのかね?」 吉羅の言葉に香穂子はハッとする。 確かに世間体を気にするのであるならば、吉羅は香穂子を契約結婚の相手に選ばないだろう。 益々分からなくなる。 「香穂子、とにかく君とは離婚しない。早速だが、妻として手を貸して貰いたいことがあるのだが、構わないかね?」 吉羅は握り締めていた手に更に力を込めると、CEO室から出ていく。 「あ、あのっ! どちらへ!?」 香穂子が戸惑いを隠せないでいると、吉羅はフッと笑う。 「今夜、ヨーロッパの重鎮が来るパーティがあってね。君には一緒に出席をして貰う」 「わ、私、全く準備が出来ていないですが!?」 「準備なら今からして貰う。銀座のサロンに予約を入れておく。ドレスは既にガリアーノのものを手配してある。だから何も心配しなくても良い」 吉羅はキッパリと言い放つとエレベーターに乗り込む。 「あ、あのっ、自分ひとりで行けますし、銀座のサロンなら、結婚式の準備の時にも何度も通いましたからっ」 香穂子が焦るように言うが、吉羅はクールなままだ。 「離婚を申し出ている妻をひとりにするわけにはいかないからね」 吉羅はビジネスライクにきっぱりと言い切る。 「…逃げたりはしません…。ま、まだ契約していますから…」 「だが、私も一緒に行く。それだけだ」 吉羅に監視をされる。 それだけで香穂子は緊張の余りに喉がからからになってくる。 正直言って、かなり心臓に悪かった。 駐車場まで連れていかれ、そのまま車に乗せられる。 吉羅の車に乗るなんて、半年以上ぶりだ。 こんなにドキドキすることは他にない。 「サロンで準備をしたら、そのままパーティ会場に向かうからそのつもりで」 「は、はい…」 こういった場所には妻が必要だから、吉羅は結婚を解消しようとはしないのだろうか。 そこが香穂子には解らなかった。 吉羅の車で銀座のサロンに向かう。 そこでは久し振りにサロンのオーナーと再会することが出来た。 結婚式の時にはかなりお世話になった。 本当に夢を見ているのではないかと思うぐらいに、ロマンティックな美しさを作ってくれたのだ。 大好きなひとと愛のない結婚をする。 その切なさを少しは慰めてくれた。 豪華で綺麗な結婚式だったのに、香穂子は少しも幸せではなかった。 この結婚が、契約によりものであったからだろう。 誰もが幸せだと思っていたようだが、香穂子は少しもそう思えなかった。 香穂子は久し振りの再会に笑みを零す。 「お久し振りです。宜しくお願いします」 「今日も、とっておきに綺麗にしますからね」 「有り難うございます」 この女性に総てを任せておけば大丈夫だ。 香穂子は少しでも華やいだ気分になりたくて、女性に総てを託すことにした。 「はい、これでパーティもバッチリですよ!」 鏡で全身を見せられて、香穂子はうっとりとしてしまう。 思えば吉羅と結婚式を挙げた時も、うっとりとするほどに綺麗にして貰ったのだ。 「写真を幾つか撮りますね」 「あ、はい…」 結婚式の時にも、こうして写真を撮って貰った。 今後のメイクやスタイルのアレンジに使用すると言っていたのを覚えている。 あの時も、デジタルカメラと携帯電話で写真を撮って貰った。 「参考にさせて貰いますね。吉羅さんはお綺麗だからとても参考になりますよ」 「有り難うございます」 香穂子はにっこりと微笑むと、鏡をじっと見つめた。 本当に綺麗にして貰えてとても嬉しい。 香穂子は幸せな気分になった。 「いつも有り難うございます。こんなにも綺麗にして頂いてとても嬉しいです」 「こちらこそ嬉しいですよ。綺麗にするのが仕事ですが、あなたは綺麗にするしがいがありますからね」 女性の言葉に、香穂子は真っ赤になって照れるしかなかった。 吉羅が待つロビーに行くと、ビジネス用のスーツではなく、フォーマルな装いに変わっていた。 吉羅は本当にうっとりと見つめてしまうほどに素敵だ。 香穂子はドキドキする余りにどうして良いかが解らなかった。 「暁彦さん、お待たせしました」 声を掛けると、吉羅がソファから立ち上がる。 香穂子を値踏みするようなまなざしで見つめてきた。 あくまでクールな態度を崩さない。 「悪くはないね。私の妻としては」 吉羅はさらりと言うと、香穂子をエスコートするように腰を抱く。 鼓動が跳ね上がってしまう。 吉羅とは友人以下の夫婦なのに、こうしてエスコートされると緊張してしまう。 吉羅は車に乗せてくれると、そのまま静かに出す。 何だかデートをするような気分になり、香穂子は極度に緊張してしまう。 実際にデートらしいデートなんてしたことがない。 いつもビジネス絡みのパーティに連れていかれるだけだ。 「…暁彦さん、有り難うございます。こうして綺麗にして下さって…」 香穂子がはにかんだように言うと、吉羅はクールにも僅かに眉を上げただけだ。 「…必要だからそうしたまでだ」 吉羅はあくまで冷静に言う。それが大人の男性の余裕に思えて、香穂子は切ない気分になった。 パーティ会場に入ると、吉羅はより密着してきた。 本当に愛し合っている夫婦のように密着してくる。 それが香穂子には嬉しくもあった。 だが、この気持ちは吉羅には秘密にしていることだから、あからさまに出すわけにはいかない。 甘い緊張とは裏腹に、香穂子は静かにしていた。 財界の重要なパーティらしく、ひたすら挨拶を交わす。 誰もが香穂子に逢うなり褒めてくれるのが嬉しかった。 その度に密着が強くなるのは、気のせいだろうかと、香穂子は思った。 ようやく挨拶から解放されても、吉羅は香穂子からは離れなかった。 まるで監視をしているかのようにずっとそばにいる。 それが少し切ない。 「香穂子、私のそばからは絶対に離れないように。良いね」 念を押すように言われて、香穂子は頷くしかなかった。 吉羅はずっと見つめている。 本当に喉がからからになるぐらいに甘い緊張が走り抜ける。 ふたりが何もない関係であるということを、誰か信じてくれるというのだろうか。 恐らくは誰も信じないだろう。 こんなにも密着しているのに男女の関係はないなんて、誰が信じるだろうか。 香穂子は密着しながら考える。 せめてこの時間だけ甘い幸せに浸れたらと、香穂子は思わずにはいられなかった。 |