*Love Afair*

3


 吉羅の妻として、様々な人々と挨拶を交わす。
 誰もが好意的に受け入れてくれるのが、とても嬉しかった。
 品の良い香穂子と同じ年頃の男性がパーティ会場に入ってくる。
 その顔を見て、香穂子は直ぐに解った。
 ヴァイオリニスト、月森蓮だ。
 数々のコンクールで優勝し、今や日本で一番期待されているヴァイオリニストだった。
 香穂子は半ば憧れのまなざしを向ける。
 同じヴァイオリンを志すものとして、月森蓮は憧れであり、目標となる存在であったからだ。
 吉羅は、香穂子をギュッと引き寄せる。
「…あ…」
「月森君がどうしたのかね?」
「…あの…、月森さんは凄いヴァイオリニストですから、憧れのようなそんな想いで見ていたんですよ」
「…憧れ…ね」
 吉羅はあくまで皮肉げに言うと、香穂子を更に引き寄せた。
「君は私のものだ。表面上はね。だから他の男にそんな目を向けるんじゃない…」
 吉羅は厳しい声で、諫めるように香穂子に言う。
 香穂子は黙っていることしか、出来やしなかった。
 もしこれが本気で嫉妬をしてくれていたらこんなにも切ない想いを抱かずには済むのに。
 香穂子はうつむき加減でじっとしていた。
「…あれ、もしかして日野香穂子さんですか…?」
 月森に逆に声を掛けられて、香穂子は驚いて。
 しがないヴァイオリニストの自分が、月森蓮に声を掛けられるとは思わなかったのだ。
「月森さん…、初めまして。日野香穂子です」
 香穂子は丁寧に挨拶をする。
 だが、その間も、吉羅は香穂子を離してはくれなかった。
 これには甘い驚きを隠せない。
「…君の演奏はいつも聴かせて貰っている。とても温かな音色は、勉強になっています」
「有り難うございます」
 世界で一流のヴァイオリニストである月森蓮に褒められるなんて、こんなにも幸せな事が他にあるだろうかと 、香穂子は思った。
「同じヴァイオリニストとして、あなたの演奏は憧れです。そのあなたに演奏をほめて頂いて、本当に嬉しいです。有り難うございます…!」
 香穂子がほわほわとした幸せな気分を抱いていると、月森も笑顔になった。
「今度、是非、一緒に演奏をさせて頂きたいです」
 お世辞や社交辞令かもしれないが、あの月森蓮にこのようなことを言って貰えるなんて、本当に嬉しくてしょうがなかった。
 香穂子はこんなにも嬉しいと思っていることを伝えたい。
 そう思った時、吉羅の冷徹な声が響き渡った。
「月森君、妻を褒めてくれて有り難う。妻は、家庭を大事にしながら仕事をしてくれているからね。その合間に時間が許せば、是非、君と共演させたいものだね」
 吉羅はいつものようにさらりと言ったが、“妻”を強調されたような気がして、甘いドキドキが全身を包み込んだ。
「…日野さん、結婚しているのか…?」
「実はそうです」
 戸籍上は吉羅の妻である以上、香穂子はすんなりと認めた。
 素直に認めたと言っても良い。
 吉羅とは別居婚ではあるが、きちんとした結婚をしているのだから。
 ただし、契約結婚ではあるが。
 月森は驚いてふたりをじっと見ている。
「…そうなのか…」
「妻はヴァイオリニストとしては、旧姓で仕事をしていてね。だからだよ」
「そうなんですか」
 月森は少しだけやるせないような表情をした。
「ではまた、日野さん」
「はい、また。月森さん…」
 月森が行ってしまうと、吉羅は更に香穂子を抱き寄せた。
「先程言ったはずだ。君は私の妻としてこのパーティに来ているのだから、それ相応の振る舞いをして貰いたいものだね」
「…暁彦さん…」
 香穂子は厳しい吉羅のまなざしを受け入れる事が出来ずにいる。
「…君は私の妻であるという自覚を、もっと持たなければならないね。財界でも、君はもう私の妻であることを知られてしまった。これからは更なる行動の慎重性を求める」
「…暁彦さん」
 吉羅の言葉はいつも厳しくて鋭いナイフのようだ。
 それを聴く度に辛かった。
「君は、あくまで私の妻だ。今はね。だから、香穂子、君はきちんとした行動をして欲しい。でないと、私は監視せざるをえなくなるからね」
「…暁彦さん…」
 本当に都合の良い女に成り下がっているような気がする。
 もし吉羅を物凄く好きでなければ、このような申し出を受けることは出来なかっただろう。
 恋をした者の弱味なのかもしれない。
 それはとても切なくて重いことだと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 吉羅は香穂子を監視するようにずっとそばに置く。
 こうしてそばにいてくれるのはとても嬉しいが、それが監視目的なのが哀しい。
 吉羅にとっては、香穂子は都合の良いお気楽な女なのだ。
 パーティの間、ずっと離れずにいたことはときめくことではあるが、複雑な気分になる。
 切ない気分で、それ以上でも以下でもなかった。
 吉羅が一瞬だけ席を外している間、月森が話しかけて来た。
「日野さん」
「あ、月森さん」
 やはり超一流のヴァイオリニストたるオーラがある。
 香穂子はうっとりと見つめてしまう。
「今日は会えて嬉しかったです。まさか君が、吉羅さんの奥様だとは思わなかった…けれどね」
 正直、似合わないと思っているのだろう。
 それはしょうがないと香穂子は思う。
「釣り合ってないから」
 香穂子が自嘲気味に言うと、月森は首を振った。
「…そうじゃない。バランスは取れている。だがその相手が、ヴァイオリニストの君なのが意外だっただけだ。むしろ君には同じ志しを持った男が必要だと思うが…」
「…月森君…」
 月森の言葉は嬉しくも切なくもあると、香穂子は思わずにはいられなかった。
「香穂子、お待たせしたね」
 吉羅の声がして、香穂子は振り返る。
 すると厳しくも冷たいまなざしがこちらに向けられている。
 そのような冷徹な瞳で見つめられたら、凍り付いて動けなくなるような気がした。
「では月森君、また機会があれば。君の演奏は、妻と一緒に聴かせて貰いに行くよ」
「はい…お待ちしています…」
 吉羅は香穂子の腰をしっかりと抱くと、まるで威嚇するように見つめてきた。
 まなざしが厳しくて、香穂子はどうしようかと思った。
「行こうか、香穂子」
「あ、はい。月森君、また音楽の話をしましょう」
「…そうだね…。日野さん、また…」
 月森はわざと旧姓で名前を呼んでくれると、香穂子にだけ笑みを浮かべてくれた。
「香穂子、帰るぞ」
「はい」
 吉羅は香穂子を濃密にエスコートをしたまま、駐車場へと向かった。

 車に乗せられて、家に向かった。
 吉羅は香穂子の家は知っているせいかスムーズに目的地へと向かう。
「今日は付き合ってもらって有り難う。お陰で助かった」
「それは良かったです…。私も…、色々と収穫はありましたし…」
「月森君に逢えたことかね?」
 何処か嫌味に聞こえるように言われて、香穂子は驚いてしまう。
「…そうですね…。月森さんのように上手いヴァイオリニストさんは、身近にはなかなかいないですから、勉強になります。お話を聴いて、ヴァイオリン演奏の参考になりますから」
 香穂子はさらりと言ったが、吉羅は納得がいかないのか、皮肉げに眉をあげただけだった。
 ふと車窓に見慣れた風景とは違う物が広がっている。
「暁彦さん、うちの近くと違うような気がします…」
「ああ。私の自宅に向かっている」
 吉羅の言葉に、香穂子は目を見開く。
 吉羅の自宅は踏み入れたことがない領域だった。



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