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吉羅の自宅に向かう。 妻でありながら、一度として踏み入れたことのない場所。 自分には許されてはいない場所のように香穂子は思えてならなかった。 「うちでお茶でも飲まないかね?」 吉羅はさらりとした口調で何気なく言う。 香穂子は半分緊張しながら頷いた。 「分かりました。少しだけなら」 「横浜の君の家には、責任を持って送っていく」 「有り難うございます」 吉羅の横顔をちらりと見つめる。 本当にいつ見ても精悍な美しさを持っている。とても綺麗だと、思わずにはいられなかった。 吉羅を見つめているだけで、心の奥が甘く苦しかった。 吉羅は自宅近くの洋菓子店で名物のシュークリームを買い求め、その後、摩天楼のような場所に向かう。 「ゆっくりとしてから帰ると良い。君は一人暮らしだから、門限は関係はないだろう?」 「そうですが…」 一人暮らしであるとはいえ、吉羅のカテゴリーに入るのは、些か抵抗がある。 このまま溺れてしまうのではないかと思ってしまうからだ。 吉羅に更に溺れてしまえば、苦しい立場に立たされることは間違ない。 それは香穂子自身が一番解っていることだ。 吉羅は車を駐車場に入れると、静かに車から降り立った。 「香穂子、行くぞ」 「はい」 まるでエスコートをするかのように助手席のドアを開けてくれると、吉羅は手をしっかりと取ってくれた。 吉羅は無言のままで香穂子の手を引いてエレベーターへと乗り込む。 こうしていると吉羅は本当に理想的な男性のように思える。 少なくとも香穂子にとってはそうだった。 「こちらだ」 「はい」 妻のくせに、夫のカテゴリーに入ったことがないなんて、普通はこんな奇妙なことは考えられないと思うだろう。 少なくとも香穂子はそうだ。 だが、それをしても構わないと思うぐらいに、吉羅のことが好きなのだ。 これはもう惚れた弱味だわ 「どうぞ」 「はい」 吉羅がドアを開けてくれ、部屋の中に入る。 ファブリックはシンプルにシックなモノトーンに統一がなされていた。 それが香穂子には吉羅らしいと映った。 吉羅はリビングに連れていってくれ、そのままソファに座らせてくれる。 エスコートされるだけで、うっとりとした気分になるのは間違なかった。 「香穂子、コーヒーにするかね、それとも紅茶にするかね? ミルクティーも出来るがね」 「じゃあ…ミルクティーでお願いします」 「解った」 吉羅は茶葉から紅茶を丁寧に淹れてくれる。 こうして男性が紅茶を丁寧に淹れてくれる行為は、最高のシチュエーションだと思う。 特に相手が吉羅暁彦ならば、こんなにもうっとりとするような幸せな事はない。 「どうぞ」 「有り難うございます」 何だかお姫様にでもなったような気分になり、香穂子はつい鼻歌を歌いそうになった。 「何だか嬉しいです。こうしてこの時間から素敵なティーパーティが開けるなんて」 「それは良かった」 香穂子は、とっておきのシュークリームを手に取ると、それを食べることにする。 「うわあ、品の良い甘さが素敵です。とっても美味しいです」 香穂子がニンマリと微笑むと、吉羅もまた笑顔になってくれる。 それが嬉しかった。 「…君のようにスウィーツを美味しそうに食べてくれるのは、見ていて嬉しいけれどね」 吉羅が、今日初めて笑ったかもしれないと思うような甘い笑顔を見せてくれて、香穂子は思わずには釣られるように笑った。 「だって美味しい物を食べたり幸せな気分になって笑顔になりますよ」 香穂子が素直な気持ちで言えば、吉羅も心をオープンにしたかのような笑みをくれた。 それがとても嬉しかった。 「…香穂子、ここにいれば、いつでもこうしてティータイムが楽しめる…。毎日君の好きなスウィーツを食べると良い」 「太っちゃいますよ。毎日、こんな時間でスウィーツを食べていたら。この時間はお茶だけが良いかもしれないですよね」 香穂子は、こうして吉羅と一緒にいる時間こそが、甘くて幸せな味があるのだということを、まなざしで伝える。 言葉では伝える事はやはり難しいから。 吉羅への想いが露顕することだけは、避けなければならないから。 「だったら、私が仕事から帰ってきたら、毎日ティータイムをしないかね?」 「ティータイム…」 それは毎日、吉羅のところに通って良いとのことなのだろうか。 吉羅と毎日逢う事が出来れば、こんなにも素敵なことはないのにと、香穂子は思う。 「毎日、暁彦さんと逢えるということですか…?」 香穂子が素直な気持ちで言うと、吉羅は頷いた。 「そういうことだね」 「…毎日だと、私がこちらに通うということですか?」 香穂子がそれでも構わないと思いながら言うと、吉羅は一瞬、呆気に取られたような表情になった。 「そうじゃないよ」 吉羅は珍しく笑うと、香穂子を真っ直ぐ見た。 「私たちは夫婦なのだから、一緒に暮らさないかといった意味で言ったんだよ」 吉羅はおかしそうに淡い笑みを浮かべている。 吉羅の真意を知って、香穂子は真っ赤になった。 鼓動が激しいビートを刻んでいる。 どう反応して良いかが分からないぐらいに甘い緊張してしまっている。 動揺しているといっても良かった。 「…あ、あのっ、そ、それは、暁彦さんと同棲をすることですか?」 「同棲じゃない。私たちは結婚しているのだから、そうはならないはずじゃないかね?」 吉羅はあくまで楽しんでいるように言う。 確かに吉羅の言う通りだ。 「そ、そうですね」 かちこちになったままで、返事をしてしまう。 それを見て、吉羅はまたくすりと笑った。 「君も家賃はいらなくなるし一石二鳥のはずだ。うたはもうひと部屋空いているから使うと良い」 「あ、有り難うございます」 香穂子はつい反応をして、お礼を言ってしまう。 「では、君はうちに引っ越してくるということで異論はないね?」 吉羅に確認をするように言われて、香穂子はハッとした。 そう言われても、ドキドキして上手く返事が出来ない。 じっくりと考えなければならないことのはずなのに、そんなことをする前から、答えなんて決まっているような気がした。 「…あ、あの…。分かりました。引っ越してきます…」 考える前に、口が勝手に動いてしまったのではないかと、香穂子は思ってしまう。 本当にそんな気分になる。 気持ちが理性の命令の前に唇を動かしてしまったような気分だ。 「解った。引っ越しの手配は私で行なう。君には煩わしさをかけないからね」 「…有り難うございます…」 「早速だが、明日の午後あたりはいかがかね」 思い立ったら素早く行動をしてしまう吉羅らしい。 だが、いきなり明日だなんて、そんなこっは思ってもみないことだった。 「え、い、いきなり明日ですか? 荷造りをしたり、片付けをしたりする時間がいります…」 香穂子が戸惑いながら言うと、吉羅は支配者のような微笑みを向けて来た。 「総てを引っ越しスタッフで行なうように手配をする。うちの傘下に引っ越し業者がいるからね、そこに全面手配をしておく。君はただ立ち会えば良い。午前中にスタッフが入って、夕方には引っ越しを完了させるから」 吉羅の素早い手配に、香穂子は驚いていた。 明日からいきなり吉羅と暮らす。 香穂子は緊張と華やぎを同時に感じずにはいられなかった。 明日から始まる本格的な夫婦生活に、香穂子は戸惑いと期待を抱いていた。 |