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吉羅の手配は素早くて、香穂子のアパートの荷物は瞬く間に片付けられてしまった。 その手際の良さに、香穂子は目を丸くするしかなかった。 流石は吉羅暁彦と言うしかない。 その辺りの手配の迅速さは、政治家に見習わせたいなどと思ってしまう。 綺麗にアパートが片付けられて、香穂子は吉羅が住む摩天楼へと向かう。 この町の優しい暖かさが好きだったが、今日からは冷たい摩天楼に身を置く。 何が起こるかは分からないが、香穂子は、期待と不安でいっぱいになっていた。 先ずは、吉羅がいる会社に向かう。 些か緊張してしまう。 受付に行くと、先日の受付嬢がまた座っていたが、今度はきちんと対応をしてくれた。 面倒な説明がいらなかったので、香穂子はかえって助かった。 エレベーターに乗り込み、吉羅が待つCEO室へと向かう。 ときめきと緊張が交互に襲ってきて、どうしようもないほどに胸が圧迫された。 呼吸をするとほんの少しだけ苦しかった。 エレベーターが吉羅が待つ場所に停まる。 セキュリティを解除し、いよいよ最終的な門番、吉羅の秘書がいる部屋にたどり着く。 「ようこそ、奥様。CEOがお待ちですよ」 「有り難うございます」 香穂子は素直に頷くと、吉羅が待つ奥の部屋へと向かった。 「暁彦さん、香穂子です」 「入りたまえ」 吉羅の相変わらずの冷たい声が響き渡る。 香穂子は背筋を伸ばすと、真っ直ぐ吉羅のいる場所に向かった。 「こんにちは、暁彦さん」 「引越は無事に済んだようだね」 「はい。もうかなり早くて驚きました」 香穂子が苦笑いを浮かべながら言うと、吉羅は僅かに唇を上げた。 「精鋭部隊を配置したのだからね。当然だよ」 「そうですね」 香穂子は僅かに笑うと、頷いた。 「君に家のセキュリティキーを渡さなければならないと思ってね。このキーのセキュリティは、本日の午後5時から有効だ。引越が終わったら、キーが変更されるように手配をしておいたからね」 「有り難うございます」 恐らくは引越業者対策なのだろう。 流石は吉羅暁彦だ。 抜目はない。 「引越の監督は、私の信頼出来る第一秘書に頼んでいる」 「有り難うございます」 吉羅暁彦はどこまでも完璧だ。 穴を探そうとしてもなかなか見つからない。 そこは、やはり流石だと思わずにはいられなかった。 「…私の仕事が終わるまで待っていてくれないかね? 夫婦として、きちんとしたスタートを切るお祝いをしたいからね。構わないかね…?」 「はい」 吉羅とレストランで食事をするなんて、なかなかない機会ではあるから、香穂子は素直に嬉しいと思った。 自分の内側にある、吉羅への愛情が、たっぷりと感じられる。 それが嬉しかった。 「仕事を続けるから、君はソファに座って待っていてくれるかな?」 「はい」 吉羅は、立派な椅子と机に着くと、再び仕事を始めた。 秋の陽射しがとても優しく吉羅を照らしている。 真摯に仕事をする吉羅は、なんて精悍で美しいのだろうか。 芸術品だって、恥ずかしくなって逃げ出してしまうだろう。 それほどまでの綺麗だと思った。 うっとりと見つめていたくなるほどに綺麗だ。 吉羅を見つめているだけで幸せで、きらきらと輝いているように見えた。 吉羅が本当に好きなのだ。 素直な自分の恋情を、香穂子は感じずにはいられなくなる。 本当にうっとりとしてしまった。 ふと、吉羅のコーヒーカップが空になる。 香穂子はそれに気付いて、コーヒーカップを下げた。 新しいのを淹れてあげよう。 ミルクティーが良いだろう。 ついでに自分が飲みたいものもそれで飲めるだろう。 香穂子は、パントリーに向かい、手早く紅茶を淹れた。 ふとパントリーの奥にドアがあることを気付いた。 好奇心で開けようとしたが、残念ながら、そこは鍵がかけられていた。 恐らくは仕事の重要な書類などが保管されているのだろう。 香穂子はこれ以上触れないほうが良いと思い、紅茶を淹れるのに集中をした。 紅茶を出すと、ふと吉羅が顔をあげてくれた。 「有り難う」 吉羅は静かに礼を言ってくれる。 ほんの一瞬ではあるが、吉羅の瞳が笑ったような気がして、香穂子はそれが嬉しかった。 再び吉羅は仕事に没頭し、香穂子は優雅な幸せを感じながら紅茶を飲む。 幸せを絵に描いたような午後だ。 こんなにも綺麗で美しい午後はないのではないかと、香穂子は思った。 吉羅のそばにいられる。 それは香穂子にとってはかけがえのない幸せだった。 幸せな気分になると、つい笑顔になってしまう。 香穂子は優しい気持ちで紅茶をゆっくりと楽しんだ。 リラックスしていたからだろうか。 いつの間にかうとうととまどろんでいたらしい。 吉羅の声で、ハッと現実に引き戻された。 「…香穂子、仕事が済んだのだが…」 「あ、は、はいっ」 香穂子は慌てて、たたずまいを直す。 「疲れていたのかね?」 「いいえ、そういう訳では…。ただ気持ちが良かっただけです」 「そうか…。では出掛けるとしようか」 「はい」 香穂子が立ち上がると、吉羅は先に行く。 香穂子はその後を、ゆっくりと着いていった。 吉羅とふたりで食事をしたことは、幾度となくあるが、こうして本当の意味で“デート”と呼べるものはなかった。 だからだろうか。 いつももときめいているのに、今日は更にときめいているように思えた。 吉羅は、いつも以上にエスコートをしてくれる。 本当の意味でシンデレラにでもなったような気分だ。 吉羅はあくまでスマートに、香穂子をエスコートしてくれる。 日本の男子で、ここまで素晴らしくエスコートをしてくれているのは、吉羅ぐらいじゃないだろうか。 まさに香穂子にとっては現代のチャーミング王子そのものだった。 吉羅が連れていってくれたのは、ロマンティックな夜景が美しいレストラン。 食事もかなり美味しかったが、それよりも吉羅の素晴らしさにうっとりとしてしまう。 シチュエーションよりも何よりも、香穂子は完全に吉羅に酔ってしまっていた。 いつものようにクールな表情を崩さない吉羅であるが、香穂子にはそれでもときめきを感じさせてくれる。 いつか。 本当に近いいつかに、お互いに対等に笑う事が出来ればと、思わずにはいられなかった。 「デザートも食事もとても美味しかったですよ。有り難うございます」 香穂子は心からの満足を感じながら、吉羅を見つめた。 この瞬間は、本当に満足して幸せな気分だった。 「君は本当に幸せそうな顔をするね」 吉羅が不意に甘く笑う。 その笑みがとても綺麗で、ついうっとりと見惚れてしまう。 「素直に感情が出てしまうみたいですね。私は」 「素直なのは悪くない」 吉羅は静かに言うと、香穂子に柔らかな優しさが滲んだ笑みを浮かべた。 「有り難うございます…本当に。今日は楽しかったです」 「こちらこそ」 吉羅は大人の男性らしく言うと、香穂子をエスコートしてくれる。 「うちへ帰ろうか。私たちの家に」 “私たちの家” その言葉に、香穂子は喉がからからになるほどに緊張してしまう。 確かに、今日からは“私たちの家”なのだ。 今日から吉羅とふたりで暮らすのだ。 そう思うと、香穂子は心臓が飛び出してしまうかと思うぐらいにドキドキしてしまい、吉羅を意識してしまう。 甘い緊張が全身を駆け抜けて、香穂子はどうしようもないほどに甘くなっていた。 |