*Love Afair*

6


 吉羅を意識する余りに、距離を少しだけ空けてしまう。
 車に乗ると、吉羅と密着してしまい、余計に意識をしてしまった。
 顔がほてってしまうほどに、吉羅を意識せずにはいられなかった。
 顔が熱い。
 つい手でパタパタと扇いでしまう。
「香穂子、暑いのかね?」
「熱いといえば熱いですが、ただ熱いのは顔だけなので…」
 話しているだけなら、“暑い”と“熱い”のニュアンスの違いが伝わらない。
 それを良いことに、香穂子は誤魔化すように笑った。
「大丈夫です。冷えのぼせをしただけですから…」
「それなら良いのだが…」
 まさか吉羅を意識し過ぎて顔が真っ赤になりましたとは、とてもではないが言えない。
 香穂子は、家に近付くにつれて、更に緊張していく自分に気付いていた。
 吉羅とふたりきりになる。
 香穂子の大好きなひとと夜にふたりきりになる。
 緊張し過ぎているのは、甘くて幸せで艶のある時間を想像してしまっているからだろう。
 香穂子にとっては蜜のようにとろとろとした魅惑的な時間には間違なかった。
 吉羅とふたりでそのような時間を過ごすなんて、ほんの少し夢見ていたこと。
 だから余計に緊張して意識をしてしまうのかもしれない。
 だが、吉羅とは、結婚式の当日にキスをしただけの関係だ。
 それ以上も以下もない。
 セクシャル的な関係なんて、全く皆無と言っても良かった。
 吉羅暁彦は大人の男性で、付き合うというのは、そのような関係を含めたことを言うのだろう。
 だが、香穂子に対しては、一度もそのようなことを求めたことはなかった。
 吉羅ならば、大人で美しい女性とそのような関係には直ぐになれるだろう。
 香穂子にとってはそれが辛かった。
 吉羅のような男性を、女性が放っておくはずはないのだから。
 自意識過剰。
 じいしきかじょう。
 ジイシキカジョウ。
 香穂子は呪文のように何度も何度も唱えた。
 いよいよ車が駐車場に入る。
 心臓が口から飛び出してしまうのではないかと思う。
 香穂子は何度か深呼吸をした後、車から降り立った。
「今夜は疲れただろう。お風呂に入ったら、ゆっくりと休むと良い」
「有り難うございます…」
 吉羅は事務的に言うと、あくまで紳士的にエスコートをしてくれた。
 香穂子にとっては、ドキドキとときめきが交差するシチュエーションだった。
 エレベーターにいる間、吉羅は手をしっかりと握り締めてくれる。
 手を強く握り締められていると、恋情が高まる。
 本当にこのまま吉羅に身を委ねても構わない。
 そのようなことを思ってしまう。
 吉羅は、香穂子の手を握ってくれてはいるが、表情はかなりクールだ。
 それがほんのりと香穂子を傷つけてはいた。
「着いたよ」
「は、はいっ!」
 香穂子がかちこちになったままで返事をすると、吉羅は淡く微笑んだ。
「どうぞ、奥さん」
「…有り難う…」
 吉羅は、あくまでブリティッシュジェントルマンのような振る舞いを崩さない。
 それが何処か他人行儀にも思えた。
「慣れないからよく眠れないかもしれないが、先にお風呂に入ってゆっくりしなさい」
「有り難うございます」
 吉羅は慣れない香穂子のために、お風呂を準備してくれた。
「香穂子、明日、この家に関することは伝えよう。今夜はゆっくりと休むんだ」
「はい…」
 ほんの少しだけ残念な気持ちになる。
 それ程までに吉羅と甘くて艶やかな時間を過ごせると考えていた自分が、香穂子は恥ずかしくてしょうがなかった。
 吉羅に甘い甘い期待をしていたらしい。
 残念な気持ちを知られたくなくて、香穂子は黙っていた。
「どうしたのかね?」
 吉羅が心配そうに柔らかな声で話しかけてくれる。
 香穂子は紅潮させた顔と、潤んだ瞳を吉羅に見せた。
 その瞬間、吉羅の綺麗な指先が、香穂子の頬を捕らえる。
 柔らかく撫でられて、思わず目を閉じてしまう。
 うっとりとした幸せな気分になったのは間違なかった。
 まるでふわふわとしたパステルカラーの世界にいるかのようだ。
 香穂子は雲の上を散歩しているような気分で、吉羅を見た。
 キスしてくれたら、こんなにもロマンティックなことはないのに。
 まるで王子様のキスを待つ、童話の中のお姫様のような夢見る気持ちになった。
 香穂子が目を閉じながらときめいていると、吉羅の綺麗な指先が、二度、三度と、フェイスラインを何度も撫でてくれる。
 感度が高まり、ときめきも高まった時だった。
「…おやすみ…。お風呂に入って、しっかりと休むんだ」
 吉羅の魔法のような指先がゆっくりと離れていく。
 香穂子は、躰が傾いて体勢を崩してしまい、恥ずかしい想いをする。
 目を開けると、既に王子様である吉羅はいなくなっていた。

 お風呂に入ってしまうと、疲れがゆったりと回ってきた。
 そのまま、特に何も考えないままで、香穂子は眠ることが出来た。
 これはかなり有り難かった。

 翌朝、いつも通りに目覚めたが周りの様子が違って、一瞬、慌ててしまった。
 記憶がゆっくりと蘇ってきて、吉羅と同居するこっになったことを思い出した。
 香穂子が着替えてダイニングに向かうと、既に吉羅が朝食の準備をしてくれていた。
 これには香穂子も驚いた。
「茶粥だが、一緒に食べないかね?」
「有り難うございます」
 香穂子はつい恐縮をしながら席に着いた。
 二日目から大失態だ。
「明日から私が作ります」
 申し訳ない気持ちで言うと、吉羅は薄く笑った。
「恐縮する必要はない。なるべくで構わない。だから、そんなには気にしないように」
「はい」
 吉羅は落ち着いた風に言うと、淡々と食事をしていた。
「香穂子、これが秘書が纏めた家事のマニュアルだ。一応、目を通しておいてくれ」
「はい」
 まさか、家事に関するマニュアルを渡されるとは思ってはいなかった。
 香穂子は驚いてしまい、思わず吉羅を見上げる。
「ここには色々と書かれている。君が生活をするのに困らない情報ばかりだとは思うよ」
「はい」
 ひとりでこの家にいても困らないようにというのは、吉羅なりの配慮ということなのだろう。
 マニュアルというのが、いかにも吉羅暁彦らしいと、香穂子は思った。
「有り難うございます。参考にさせて頂きます」
「ああ」
 吉羅は事務的に言うと、朝食を続ける。
 本当に事務的だと、香穂子は思った。
「今夜は遅くなる。ひとりで食事をしてくれたまえ」
「はい、分かりました」
「食材必要なら、これを使いたまえ」
 吉羅はピンクの可愛らしい財布を差し出す。そこにはお金とクレジットカードが入っていて、香穂子は驚いてしまった。
「食事ぐらいは自分で賄えます」
「君は私の妻なのだから、そんなことは気にしないように」
 吉羅は冷たく言い放つと、香穂子を見つめた。
「…はい…」
 吉羅の言葉に、香穂子は何だか施しを受けているような気分になり、切なかった。
「ではいってくる」
「いってらっしゃい」
 香穂子は、吉羅を見送った後、朝食の片付けをした。
 吉羅が女として自分を見てくれているとは思えない。
 香穂子は気分を沈み込ませながら、午前中を過ごした。
 吉羅はどうして自分と一緒にいたいと思っていたのだろうか。
 そんなことをぼんやりと思ってしまう。
 香穂子は、いつまで経っても答えが出ない事をーただぼんやりと考えては溜め息を吐く。
 吉羅には女として見てもらいたい。
 ただそれだけだった。



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