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彼女を初めて見掛けたのは、市の音楽祭だった。 背筋を美しく伸ばして、凛とした雰囲気でヴァイオリンを奏でる姿は、本当に美しかった。 総てを包み込むような温かくない深みのあるヴァイオリンの音色は、私の魂を揺さぶった。 彼女に逢いたい。 彼女に近付きたい。 何処か憧れにも似た感情が、やがて激しい熱情に変わるまでは、そう時間はかからなかった。 美しきヴァイオリニスト。 彼女がいなくなるだけで、まるで日蝕が起こったような気持ちを抱かせた。 彼女がいなければ生きていけないなんて思う事になろうとは、少しも考えはしなかった。 ヴァイオリンを片手に、香穂子は何度も深呼吸をする。 こんなにも多くの人々が集まる前でヴァイオリンを演奏するのは初めてで、脚が震えるのを感じた。 力が上手く入らない。 だが、演奏時間は、刻々と迫っている。 香穂子は背筋を伸ばして、覚悟を決めなければならないと思った。 「日野、しっかりやってこい!」 担当講師である金澤に思い切り背中を押されて、香穂子は覚悟を決めるしかないと思った。 行かなければ。 「ジャガイモにヴァイオリンを聴かせて発育を良くすると思って行ってこい」 「あ、は、はいっ!」 いつも金澤の喩えは強引だ。 香穂子は何時深呼吸をした後で、お腹に力を入れた。 ヴァイオリンを片手にステージへと向かう。 落ち着けば素晴らしい演奏が出来る筈だ。 香穂子は真っ直ぐ歩いてステージへと向かった。 一番得意な曲を弾く。 香穂子の得意なものは、やはり恋の歌だ。 香穂子はヴァイオリンに集中すると、数曲奏でた。 ヴァイオリンを奏でることに集中していると、不思議と緊張しなくなる。 曲の世界観に没頭しているからだろう。 曲の世界に入り込むことによって、何も周りが見えなくなってしまうのだ。 それが良いのか悪いのかは、香穂子には解らない。 ただ、それが演奏には今のところ良い作用を働かせていることは、理解することは出来た。 ただ悪い事は、演奏中は、観客の反応すらも全く入らないということだ。 それは欠陥だと、香穂子は感じていた。 今日も演奏が終わった途端に、観客席が見える。 誰もが概ねは好印象で拍手を沢山くれる。 香穂子にとってそれは良いことだ。 だがただひとり、不機嫌そうにこちらを見ている男がいて、それがとても気になってしまった。 整った顔立ちをしていたので、冷たさが余計に助長されているような気がした。 香穂子は男はきっとヴァイオリンをかなり聞き慣れているのだろうと感じて、しょんぼりとした気分になった。 こんなにも切ない気分はないと思わずにはいられなかった。 音楽祭の出演者を労いつつ、チャリティー目的のお疲れ様パーティに呼ばれて、香穂子は部屋の隅にちょこんと立っていた。 立派なヴァイオリニストもかなり来ていて、香穂子はミーハー気分で、コソコソとヴァイオリニストたちを見つめては満足していた。 「香穂!」 美しいヴァイオリニストの先輩に声を掛けられて、香穂子はそこに向かった。 香穂子の先輩は、美貌と実力が兼ね備わったヴァイオリニストとして、かなり人気が出てきている。 注目を浴びている若手ヴァイオリニストのひとりだ。 誰もが憧れの目で見ていて、香穂子もその一人だった。 とても綺麗で、実力があることから、注目も浴びていた。 香穂子がゆっくりと近付いて行くと、あの冷たい美貌の男が一緒にいた。 香穂子は背中が凍り付くのを感じる。 その冷徹なまなざしを見つめていると、逃げたくなるのに逃げられなくなる。 「今日の演奏は良かったわ。あなたの良さが出ていたわね」 「有り難うございます」 香穂子は笑顔で礼を言うと、憧れの先輩は笑みを浮かべてくれた。 ふと男と目が合い、香穂子は目が離せなくなった。 捕らえられたといっても過言ではないだろう。 「香穂ちゃん、ご紹介するわね。こちらは吉羅暁彦さん。今回の音楽祭にもご尽力頂いています。音楽祭のスポンサーでもいらっしゃるのよ」 音楽祭のスポンサー。かならば様々な音を聴いているから耳は肥えているだろう。 香穂子の音色など、はしにもひっかからないと思っているだろう。 それゆえにあの表情だったのかと、香穂子は妙に納得をしてしまった。 「星奏学院大学音楽学部三年の日野香穂子です。よろしくお願い致します」 香穂子は儀礼通りの挨拶をする。 吉羅は自分とは違う世界に住んでいるひとなのだと、香穂子は強く感じた。 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅はスッと手を差し延べてきた。 その仕草にびっくりしてしまう。 「あ、あの…」 「手を差し延べたら、握手をするのは当然ではないのかね? それとも君は慣れてはいない?」 「慣れてはいません…。今回が初めての大きなステージでしたから…、こうして財界の方や支援をして下さる方にお逢いするのは初めてですから…」 香穂子は戸惑いながらも、手を差し延べた。 握手をすることなんて初めてで、ましてや相手が吉羅暁彦であることが緊張してしまう。 こんなにもセレブリティな雰囲気を身に纏っているひとは他には知らない。 吉羅暁彦の前にいるだけで、その雰囲気で喉がからからになるぐらいに緊張してしまった。 尊大な雰囲気が似合い過ぎている吉羅暁彦を、香穂子はじっと見つめる。そしてようやく手を差し出す事が出来た。 その途端、しっかりと手を握り締められる。 その力強さに、香穂子は胸がきゅんと締め付けられるのを感じた。 同時に本能が警告をしている。 吉羅暁彦に近付いてはならないと。 香穂子は吉羅暁彦に近付けば、きっと総てを支配されるだろうと感じていた。 「よろしく、日野君」 「宜しくお願い致します」 よろしく、と言われたところで、吉羅暁彦とは住む世界が全く違うのだ。 再び逢う事など有り得ないのではないかと思う。 香穂子はそう思うと、吉羅を真っ直ぐ見た。 手を離そうとしたが、なかなか離そうとはしてくれない。 意地の悪いことでもしているのだろうか。 そんなことをしたところで得にはならないと香穂子は思った。 「吉羅さん、財界の方とのご挨拶もありますよ」 先輩が業を煮やしたのか、吉羅に声を掛けてくれて、ようやく手を離してくれた。 香穂子はホッと溜め息を吐くと、先輩に僅かに笑みを零した。 だが先輩は、珍しくかなり苛立った顔をしたままだった。 苛立った表情は、綺麗な女性だからか、余計に冷たい印象を受けた。 吉羅のことだけを熱っぽい表情で見つめている。 先輩は恐らくは、吉羅暁彦のことが好きなのだろう。 見ていて直ぐに解った。 「じゃあ日野君、またの機会に。君のヴァイオリンを是非また聴きたいものだね」 「有り難うございます」 社交辞令も、恐らくはもう逢わないからだろう。 香穂子はそう思いながら、吉羅に笑顔を見せた。 「また是非に」 「ああ」 吉羅は先輩とふたりで、財界人たちが数多くいるところに向かう。 先輩も綺麗だし、ふたりは雰囲気も似ているから、このまま付き合っても良いのにと思う。 とにかく香穂子にとっては、月ぐらいに遠い存在だ。 ただ逢えたことを話の種にしようとぐらいにしか、香穂子は思ってはいなかった。 これが運命の出会いになるとは、ついぞ知らなかった。 彼と出会った時、私は本当にこれが運命の出会いだったことを気付かなかった。 |