*真夏のMy Fair Lady*

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 吉羅暁彦に逢ったこと自体が夢の中の出来事で、香穂子には非日常の出来事だと思えるようになっていた。
 香穂子はいつものようにヴァイオリンをしっかりと練習し、いつものようにアルバイトをしたり、音楽を勉強したりする日々。
 それだけだ。
 吉羅のことを忘れかけた頃に、大学の正門でばったりと出会った。
 しかもいつもよりは随分と違うフェラーリが停まっていることに、どうせ誰かの恋人が迎えに来たのだろうぐらいしか思わなかった。
 香穂子がフェラーリの前を通ると、いきなりクラクションを鳴らされる。
 思わず振り返ると、そこには吉羅暁彦がいた。

 今まで誰か女性を待ち伏せすることなんて、なかったというのに、こんなことをしてしまうなんて、吉羅自身が驚いてしまっていた。
 日野香穂子に逢いたくて、ただ逢いたくて、吉羅は大学の前で待ち構えていた。
 吉羅はただ香穂子を探す。
 大学には知人がいたので、香穂子がいつ授業が終わるのかをさり気なく訊いていたのだ。
 それぐらいに香穂子に逢いたかった。
 そんな気持ちになったのは初めてだった。
 香穂子の姿が見えた。
 フェラーリには見向きもせずに、そのまま立ち去ろうとしている。
 それは嫌だったから、吉羅は思わずクラクションを鳴らした。
 香穂子が振り返る。
 そのタイミングで吉羅は車から降りた。
「…吉羅さん…、こんにちは…」
「日野君、久し振りだね」
「お久し振りです」
 最初は戸惑っているようだったが、直ぐに笑顔になった。
「先輩なら、まだ、キャンパスにいらっしゃると思いますよ」
 香穂子は笑顔でさらりと言う。
 香穂子の先輩というのは、セレブリティ好きの大学生のことを言っているのだろう。
 良家の娘であることは記憶してはいるが、下の名前すら思い出せない。
 大体、昔から、いくらアプローチをされていても、興味のない者の名前は、全くと言っていいほど覚えなかった。
 香穂子の場合は、直ぐに姿も名前もインプットされた。これは、やはりかなり興味があるということなのだろうと、吉羅は認めざるをえなかった。
「いいや。彼女には用はない。私は君に用があるんだよ」
 吉羅のストレートな言葉に、香穂子は驚いてしまっていた。
「わ、私にですか?」
「そう君にだ」
 吉羅はさり気なくクールに言うように心掛けるが、内心、こころが弾んだ。
「少し時間はあるかね?」
「はい、ありますが…」
「では、車に乗りたまえ。ここで話していると目立ってしょうがないからね」
 香穂子はちらりとフェラーリを見て、納得したかのように頷いた。
「分かりました」
 香穂子は大きく深呼吸をすると、しょうがないとばかりに車に乗り込む。
 こんなにも吉羅に好意を見ない女性も珍しいと思った。
 だからこそ、余計に新鮮に映ってしまう。
 今まではどの女も、吉羅に良く思われたいとばかりの態度や言動ばかりだった。
 香穂子にはそれもないとこれが、益々好ましく思う。
 このような女性は初めてだと吉羅は思った。
「吉羅さん、お話というのはなんでしょうか?」
「少し落ち着いたところで話そうか」
「あ、はい…」
 吉羅はハンドルを握り締めながら、一生懸命、理由を考える。
 話したい。
 ただそれだけで他に何か理由があるわけではない。
 今まで用件がない状態で女性を誘う事など、一度としてなかったのだ。
 なのに今こうして誘っている。
 こんなことは今まで経験したことはなかった。
 それは運命なのではないかと、吉羅は思っていた。
 何か新しい運命が動いている。
 自分の新しい一面に驚きながらも、新鮮な楽しみを感じていた。

 吉羅に誘われて、香穂子は心臓を跳ねあげながら、何とか車に乗り込む。
 ドキドキし過ぎてどうして良いかが分からなくて、ただ小さくなることしかできなかた。
 何を話して良いのかもサッパリ解らない。
 吉羅が何を話したいのかも、香穂子には皆目見当がつかなかった。
 しいて言えば、先輩のことだろうか。本当にそれぐらいしか思い浮かばないのだ。
 香穂子は思い切って訊いてみることにした。
「吉羅さん、お話というのはなんでしょうか?」
 香穂子は声を震わせながら、一生懸命にさり気なさを出そうとしていた。
「少し落ち着いたところで話そうか」
「あ、はい…」
 落ち着いたところ。
 吉羅のことだから、さぞかし高級な店を知っていることだろう。
 それなのにカジュアル過ぎるスタイルの自分に、香穂子は溜め息が出るのを感じていた。
「君と話をしたくてね。ヴァイオリンのことで訊きたいこともあるからね」
「は、はい…」
 吉羅は何を語りたいというのだろうか。
 香穂子は緊張しながら、じっとしていることしか出来なかった。

 吉羅は、車をカジュアルなフレンチレストランの中に停めた。
 ドレスコードがあるレストランにいきなり連れて行ったとしても、香穂子が驚くだけだからだ。
 吉羅は、美味しくて楽しめるレストランにすることにした。
「日野君、野菜と魚に好き嫌いはあるかね…?」
「いいえ…。ありませんが…」
「なら、こちらでも楽しめるだろう。来たまえ」
「え、あ、レストランですか!?」
 香穂子は驚いたように吉羅を見上げる。
「何か不都合でもあるのかね?」
「不都合はありませんが…」
 明らかに戸惑いの色が隠せない。
 香穂子の表情を見ていると、内心は不安になってしまっていた。
 こんなことは今までになかった。
 誰かの反応に不安になるなんて、思ってもみなかった。
「私が誘ったから、私の奢りだ。好きなものを注文すると良い」
「…あ。有り難うございます」
 余り吉羅のことを知らないからだろう。香穂子はあくまで消極的だ。
 それは致し方がないとは思いながらも、少しだけ切なかった。
 香穂子を連れてレストランに入り、結局は同じコースを注文することにす。
 香穂子はかなり緊張しているようだ。
 吉羅もまたかなり緊張している。だがそれを出さないように努めた。
 香穂子とはさり気ない話をしながら、楽しみたかった。

 吉羅といきなり夕食を一緒に食べるなんて、思ってもみないことだった。
 香穂子は緊張するのをひしひしと感じながらも、ひたすら冷静を装うようにした。
 最初の料理が運ばれてきて、香穂子はそれを素直に食べる。
 お腹が空いてしょうがなかったからだ。
「あ! 美味しい!」
「それは良かった。ここは新鮮な野菜と魚が自慢のレストランなんだよ」
「これで明日もいっぱい頑張れそうです。有り難うございます」
 香穂子は本当に嬉しくて、ニコニコと笑ってしまう。
「それは良かった」
「…あ、だけど良かったんですか?」
「何が?」
「先輩を誘わなくて」
 吉羅は恐らくは先輩の思い人だ。だから余りでしゃばってはいけないのではないかと思う。
 香穂子が不安な気分で吉羅を見ると、しらっとしていた。
「君は気にしなくて良いんだ。彼女とは何でもないからね」
 吉羅はキッパリと言い切ってしまう。
 確かに吉羅にとってはどうでも良い相手なのかもしれないと、香穂子は思った。
「彼女よりも、むしろ、私は君に興味があるがね…」
「あ、あの…っ」
 じっと吉羅の魅力的なまなざしで見つめられて、香穂子はどうして良いのかが分からなくなる。
 吉羅暁彦に興味があると言われてしまった。
 嬉しさと戸惑いで、香穂子はどうして良いのかが全く分からなくなっていた。



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