*真夏のMy Fair Lady*

3


 今は昔のように、身分違いの恋だとかは、表面上にはない。
 自由恋愛の世の中だ。
 だが、家柄が邪魔をしているのも、本人のステイタスが邪魔をする場合もある。
 皆、ステイタスで釣り合いの取れる人物を選ぶのだ。
 恐らくは吉羅暁彦もそうだ。
 そう思うと、ほんのりと切なさを覚えた。
 吉羅暁彦が興味を持ってくれているのは、ほんの短い間だけだろう。
 それならば、夢中になってしまった後の代償が大きすぎるというものだ。
 そんなに大きな代償を払う事は出来ない。
 傷付いて苦しんでからは遅いのだと香穂子は強く思った。
 切なくて苦しい想いは他にはないはずだ。
 だからこそ夢中になってはならないと、香穂子は思った。
 危険が大き過ぎるのだ。
 香穂子は踏み止どまるべきだと、自分に釘を刺した。
 今日も校門へとゆっくりと歩く。
 つい、先日、吉羅がいた場所でその姿を探してしまう。
 だが、そこにはいなかった。
 がっかりなんてしなくても良いはずなのに、がっかりしてしまう。
 香穂子は、期待している自分に釘をさすと、アルバイトに向かった。

 香穂子はごく普通の家庭で育ったから、やはりお金を貯めるにはアルバイトをするしかない。
 しかもヴァイオリンを勉強するというのは、かなりの費用がかかるのだ。
 親になんて頼ってはいられない。
 授業料が高い大学に通わせて貰っているのだから。
 それだけでも充分に甘えていると思う。
 それ以上に甘えることなんて、香穂子には出来なかった。
 香穂子はアルバイト先の本屋で、レジ打ちをしたり本を整理したりする。
 もっと割の良いアルバイトがあるかもしれないが、地道なものが良いと思っていた。
「…おや…? 日野君ではないかね?」
 よく響く低い声で言われて、香穂子はハッと顔を上げた。
 そこに立っていたのは、アメリカのビジネス雑誌を持っている吉羅だった。
 偶然、買いに来たのだろう。
「ここでアルバイトをしていたのか。気付かなかったよ…」
 吉羅はいつものように冷たい雰囲気を漂わせた表情で言う。
「吉羅さんはビジネス雑誌を買いに来られたのですか?」
「情報は常に収集しておかなければならないからね」
 吉羅はクールに言うと、雑誌を片手に列に並んだ。
 香穂子もまた、仕事に集中することにした。
 吉羅暁彦が気になるのは気になるが、気にしていては仕事も身に入らない。
 香穂子は仕事のことだけを考えて、集中することにした。
 仕事に没頭していると、吉羅がいつの間にかいなくなっていた。
 とうの昔に帰ってしまったのだろう。
 当然だ。
 雑誌を買いに来たに過ぎないのだから。
 香穂子はそれだけを思うと、また仕事に集中した。

 アルバイトは八時に終わり、香穂子は店から出た。
 疲れが溜まっている。
 家に帰ったら、しっかりと眠ろうと思っていた。
「日野君」
 聞き慣れた声に、香穂子は飛び上がりそうになる。
 まさか吉羅暁彦にここで逢えるとは思わなかった。
「吉羅さん…」
 香穂子が名前を呼ぶと、吉羅はゆっくりと近付いてきた。

 まさかここまでやることになろうとは、吉羅自身も思ってもみなかった。
 香穂子をそばに置きたいと、本気で思っている。
 今までで、一番夢中になった女性だ。
 それだけは自信があった。
 本当にこんなにも素早く恋に没頭してしまうなんて、思ったことはなかった。
 自分自身が驚いてしまっている。
「こんな夜遅くに、“時間はあるか”だなんて訊くのはかなり野暮にになるね。食事はまだかね?」
「…まだ…ですが…」
 香穂子が正直になると、吉羅はフッと微笑んでくれた。
「じゃあ軽く一緒にふたりで食べようか」
「有り難うございます」
 吉羅に断る理由などないから、香穂子は素直に頷くしかなかった。

 車に揺られて、吉羅とふたりでドライブがてら出掛けることにした。
「遅い時間に誘ってすまないね」
「…あ、大丈夫ですよ。お腹空いていましたから、タイミングが良かったです」
「そうか。何か食べたいものはないかね?」
「ついいつも食べるラーメンだとか、思い浮かべてしまいますね」
「だったら、軽く美味しく食べられるところに行こうか」
「有り難うございます」
 香穂子は笑顔で頷いた。

 こんなにも誰かに逢いたいと思ったことはなかった。
 こんなにも必死になったことなんてなかった。
 香穂子が軽いものが食べたいと言ったので、吉羅は寿司屋に向かって車を走らせる。
 量をコントロールすることが出来る食べ物はこれぐらいしか思い浮かばなかった。
 吉羅は車を寿司屋に向かった。

 寿司屋に着いた途端に、香穂子は驚いてしまった。
 このような立派な寿司屋で食事をするのは、生まれて初めてだ。
 それだけでも緊張するのだ。
「…こ、こんな寿司屋さんに来たことがないので、緊張しています」
「好きなものを注文すると良い。軽く食べるのなら、自分でコントロール出来る寿司は良いからね」
「確かに」
 香穂子が食べたい寿司を三種類ほど注文し、後は茶碗蒸しを選ぶ。すると吉羅は「遠慮しなくて良いんだ」と言ってくれた。
 だが、本当に好きなものを食べられるだけ選んだのだと告げると、吉羅は僅かに眉を寄せた。
「君のように余り欲のないお嬢さんは初めてだよ…」
「そうですか?」
「ああ」
 香穂子は、自分の感覚に従っただけだから、これには驚いてしまった。
「自分の好きなものを好きなだけ食べていますよ」
「君はもう少し食べなければならないかもしれないよ。随分と痩せているからね」
「普通だと思っていましたが…、やっぱり痩せ過ぎていますか?」
「私の感覚からするとね」
 吉羅にボディラインをさり気なく見つめられるだけで、恥ずかしくてしょうがない。
 香穂子は、そっと俯くしか出来なかった。

 寿司屋で楽しいひとときを過した後で、吉羅は家まで送ってくれた。
 その大人の紳士らしい態度に、香穂子がうっとりとしたのはいうまでもなかった。
「有り難うございました」
「こちらこそ有り難う」
「今日はとても素敵な時間を過ごすことが出来て嬉しいです」
「こちらこそどうも有り難う。私も楽しい時間を過せたよ」
 吉羅にそう言って貰えるのは、香穂子はとても嬉しい。
「じゃあまた。スケジュールがあえばまた誘おう」
「有り難うございます」
 吉羅はフッと笑うと、フェラーリを発進させる。
 香穂子はその様子をいつまでもずっと眺めていた。

 香穂子の姿がまたバックミラーに映っている。見えなくなるまで見送ってくれるのが、とても嬉しかった。
 ここまで素直で温かな見送りは他にはない。まるで宝物のようだ。
 吉羅はこころが幸せで満たされるのを感じながら、機嫌良く自宅のある六本木へと向かう。
 香穂子を手に入れたい。
 その想いが益々強くなっていく。
 香穂子をそばに置きたい。
 そばにいてさえくれたら、自分は世界で一番幸運な男になるというのに。
 吉羅はそう思わずにはいられなかった。

 早速、吉羅は夏休みに香穂子をそばに置くために画策をすることにした。
 それは香穂子をヴァイオリニストとして一週間、所有するリゾートホテルに招くというものだ。
 その間、自分も夏休みを取れば良いから。
 それほどまでにして香穂子には逢いたい。
 いつもそばにいて欲しい。
 吉羅は自分がこれほどまでに情熱的な人間だなんて、今まで気付かなかった。
 気付かせてくれたのは、香穂子だ。



Back Top Next