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アルバイト先に、吉羅が現れた。 嬉しさの余りについ笑顔になってしまう。 今日はビジネス雑誌は持ってはいなかった。 「アルバイトの後に少しだけ私に時間をくれないかね? 君に是非とも話したいことがあるんだ」 「はい、分かりました」 吉羅が話したいこと。 それは何なのだろうか。 香穂子はドキドキしながら、仕事が終わるまで過ごした。 あの多忙極まりない吉羅暁彦が自分を待ってくれている。 それだけでもかなり大それたことなのだ。 吉羅暁彦が待ってくれている。 それだけで何だかとんでもないことをしているような気がしてならなかった。 仕事が終わり、ロッカー室で着替える。 本当に普段着過ぎて吉羅暁彦の目の前には出たくはない。 化粧品だって持ってはいないから、香穂子は仕方がなくせめてグロスタイプのリップクリームを塗ろうと思った。 髪を梳かしてなんとか準備をした後、香穂子は吉羅のところに向かった。 「お、お待たせしました」 香穂子が緊張気味に言うと、吉羅はフッと微笑む。 その優しい笑みに、香穂子は癒される気分になった。 「この近くにカジュアルイタリアンがある。行こうか」 「はい」 吉羅が歩き出した後を、香穂子は着いていく。 ふと吉羅が立ち止まり、こちらを振り返った。 「日野君、どうして並んで歩かないのかね…?」 「そ、それは…。何というか…恐れ多いかなあ…なんて…」 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅は神経質そうに目をスッと細めた。 「一緒に堂々と歩けば良いんだ。来なさい」 吉羅はそう言うと、香穂子の手を思い切り引いた。 「…あっ…!」 思い切り手を握り締められて、香穂子はドキリとする。 こんなにもしっかりと手を握り締められたことなんてない。 香穂子はドキドキする余りに、深呼吸が上手く出来なかった。 香穂子の手を握り締めた時、なんて華奢で可愛らしい手なのかと思った。 ヴァイオリンをやっているからか指先は細くて長いが、それでも吉羅よりも小さくて柔らかい。 まさかこうしてアルバイトが終わるまで、自分が待ったことなど、吉羅はなかった。 むしろ仕事が終わるまで待たせることのほうが、多かったというのに。 自分も随分変わってしまったものだと、吉羅は思わずにはいられなかった。 香穂子が余り緊張しないようにと、吉羅はカジュアルだが味は最高のイタリアンレストランに連れてきた。 ここなら香穂子も安心出来るだろう。 「ここのパスタはどれも美味しいが、かにのクリームタイプのものがお勧めだ。新鮮な魚介を使ったカルパッチョサラダも美味しいがね」 「だったらその二つにします」 「解った。では魚の香草焼も一緒に頼んで食べようか」 「有り難うございます」 香穂子は本当に幸せそうな表情をする。その姿がまた愛らしかった。 食事が運ばれてきて、少し食べ始めたところで、吉羅は話を切り出した。 「今日は、実業家としてビジネスの話をしにきた。君に依頼したいことがあってね」 吉羅は、静かに所有するリゾートホテルのパンフレットを差し出した。 差し出されたパンフレットを見て、香穂子は目を丸くする。 日本でも有数のリゾートホテルだ。 エステやオーガニックフードを使ったフルコースが食べられたり、のんびりと海が眺められたりする、最高級リゾートホテルだ。 「このホテルは、私の会社が所有している。お客様により満足を得て頂くために、いつも夕刻にはクラシックの演奏会を開催している。夏休みにそこで演奏をして貰いたい。出演料は支払う。出演期間は七日間。その前に十日間、ホテルで立ち振る舞いレッスンや、指定楽譜をマスターするためのヴァイオリンレッスン。また見た目を研いて貰わなければならないからその為のレッスンを受けて貰うことになる。拘束は、前後の日にちや進むを考慮して三週間だ。出発は一週間後だ。急な話で申し訳ないがね。往復の足もきちんと確保をする。返事は申し訳ないが三日以内にお願いしたい」 「…三日以内…」 余りに急な申し出であると同時に、考える時間が余りない。 だが、とても魅力的な申し出ではある。 香穂子はオファー内容を飲み下すのがやっとだ。 「…分かりました…。考えさせて下さい。必ずきちんとお返事します」 「有り難う」 「こちらこそ有り難うございます。こんなにも良い条件をご提示下さいまして、本当に嬉しいです」 「こちらが私の携帯電話の番号と、メールアドレスだ。君の返事を楽しみにしているよ」 吉羅の言葉に、香穂子は頷いた。 こんなにもきちんとした形で仕事の条件を提示してくれるなんて、なんて嬉しいことだろうかと思う。 きちんとしたレッスンを受けさせてくれるのだ。 香穂子にとってはこれ以上の条件はないのではないかと思った。 実力以上に評価をしてくれている。将来性を見てくれているということなのだろうか。 それならばこんなに嬉しいことはない。 香穂子は嬉しくてしょうがないと思いながら、笑顔で食事をした。 香穂子を家に送り届けた後、また見えなくなるまで見送ってくれるのが嬉しかった。 お膳立てはした。 後は香穂子の返事を待つのみだ。 香穂子次第だが、この三日間はかなり緊張した状態になるだろうと思う。 厳しいビジネスの取引であったとしても、こんなにも緊張したことはなかった。 恋ゆえだろうか。 吉羅は苦笑いをうかべながらも、幸せを噛み締めていた。 ひとりになり、香穂はじっくりと考える。 パンフレットを読みながら、こんなにも素晴らしい条件は他にはないと思う。 しかも会場が日本有数のリゾートホテルなのだ。 ここのクラシック演奏会は有名で、必ずステップアップが出来ると評判だった。 香穂子もいつか出て見たいとぼんやりと考えてはいたが、まさかそれが叶うとは思ってもみなかった。 乗らない手はないだろう。 先ほどは緊張する余りに、つい考えさせて欲しいと言ったが、話を聞いた時からやりたいと思っていた。 果たして自分の実力で出来るのかという不安がないわけではない。 だがこれを乗り越えれば、確実にステップアップすることが出来るのだ。 香穂子は決意を固める。 吉羅の申し出を受けてみようと思った。 自分にとっては又とないチャンスなのだから。 それに吉羅のそばにいられるかもしれない。 そんな想いが香穂子を支配する。 恋をしてはいけないと思っていた相手なのに、やはり恋をしてしまった。 素直な気持ちには抗えないことだった。 かといって直ぐに返事をするのもがっついていると思われるのが嫌で気が引けて、香穂子はギリギリまで返事をしないようにした。 香穂子からなかなか返事は来ない。 吉羅はつい焦ってしまう。 香穂子から良い返事が得られないのではないだろうかと、つい心配をしてしまう。 吉羅は切ない苛立ちを持つ自分に苦笑いをするしかなかった。 返事を貰えるリミットの夕刻に、吉羅宛に電話が入った。 「はい吉羅です」 「吉羅さんこんにちは、日野香穂子です」 携帯を通して聞く声が、とても愛らしくて、吉羅は思わず微笑んだ。 「…あのお話ですが…」 可愛い香穂子の声が凛となる。 吉羅は一瞬断わられるのではないかと思った。 「…吉羅さん…、お受け致しますので、宜しくお願い致します」 香穂子が携帯電話の前で深々礼をするのが想像出来る。 吉羅は嬉しくてしょうがなかった。 「有り難う」 |