*真夏のMy Fair Lady*

5


 吉羅が心からの有り難うを言ってくれているのが解る。
 香穂子は嬉しくてつい笑顔になった。
「…吉羅さん…、お世話になります。宜しくお願い致します」
 何度頭を下げたか解らないぐらいに、香穂子は頭を下げる。
 吉羅には見えないだろうが、香穂子にとってはそんなことはどうでも良かった。
「早速だが、出発の朝、八時に君を迎えに行く。そこからリゾートホテルに送ろう。それと契約書を作成してあるから、その説明をした後に、署名捺印が必要になるから、印鑑を持参の上で、本社に来て貰いたい。うちの本社だが、最近、移転をした関係で品川区にある。シーサイド駅で降りて貰ったら駅直結だから直ぐに分かると思う」
「分かりました。時間は」
「午後六時で構わないかね?」
「はい。それで大丈夫です。有り難うございます」
 香穂子の大学との距離も考えてくれているのだろう。
 その気遣いには感謝した。
「では、明日、伺います」
「有り難う。待っているよ」
「はい」
 香穂子は携帯電話を切ると、ホッと溜め息を吐く。
 この先のことを考えると、本当にわくわくしてきた。
 つい笑顔になってしまう。
 吉羅と明日も逢えるのも嬉しい。
 綺麗にしていかなければならないと、香穂子は思った。

 香穂子は、いつもよりもきちんとしたスタイルで、吉羅のところに向かった。
 きちんとしたワンピースの出で立ちだ。
 これならば、吉羅の会社に行っても恥ずかしくないだろう。
 しかも今日は綺麗にメイクをした。
 落ち着いたいつもとは違ったメイクをする。
 きちんとしているように見えなければ意味はない。
 吉羅の会社は一流企業なのだから、そのCEOに面会するのだから、こちらとしても儀礼を払わなければならないと思った。
 会社のビルはかなり立派だ。
 こんなビルを本社に構えるなんて、やはり凄いとしか言い様がなかった。
 受付に行くと、目が覚めるような美しい女性が、にこやかに迎えてくれる。
 流石は一流企業の受付なだけある。
 本当に綺麗だ。
 こんなにも綺麗な女性と一緒に仕事をしているなんて、吉羅は美人に慣れているのだろうと思った。
 切なくなる。
 恐らくは香穂子は余程珍しい部類の女の子入ったのだろう。
「私、日野香穂子と申します。六時より吉羅さんとお約束頂いているのですが」
「はい、日野様、お待ちしておりました。吉羅はCEO室におります。ご案内致します」
 流石は一流企業の門番、いや…受付を預かるだけある。
 かなりスマートに応対してくれる。
 こんなにも出来た女性を受付に置いているなんて、かなり凄いと思わずにはいられない。
 これぞ受付のプロフェッショナルだ。
 ひとりの受付が案内してくれ、もう一人が吉羅に連絡してくれる。
 連携プレーもそつがない。
 エレベーターで最寄の回まで乗ると、セキュリティゲート前まで案内してくれた。
 そこから向こうは、吉羅の秘書がやってきた。
 よく出来そうな初老の女性だ。
「さあ日野様、CEO室までご案内致します」
「有り難うございます」
 香穂子は秘書と受付に向かって、深々と頭を下げた。
「CEO、日野様が見えられました」
「有り難う」
 秘書はCEO室のドアを開けてくれると、香穂子が部屋に入るなりドアを締めてくれた。
「こんにちは、吉羅さん」
「こんにちは、日野君。早速だがそちらに掛けてくれないかね? 契約書についての説明をさせて貰おう」
「有り難うございます」
 香穂子がソファに座った後、吉羅は契約書の入った封筒を持って、向かい合わせに腰を下ろす。
「日野君、これが契約書だ。先ずはしっかりと読んで欲しい」
 契約書を見るなんて香穂子には初めてのことで、ドキドキしながら読んだ。
 かなり条件が良くてびっくりしてしまう。
 リゾートホテルにいる間は、ヴィラに住まわせて貰えることや、食事も総てついていると書かれている。休み はほぼないが、一日の自由時間がかなり多かった。 
 出演期間は実働数時間だ。
 しかも日当は、手取りで2万円とのことだった。これは本当に素晴らしい条件だ。
 ただし余程のことがない限りは、キャンセルは出来ないということだった。
 途中で仕事を降りる場合は、吉羅の許可を必ず取らなければならないということが書かれていた。
 それ以外は本当に良い条件であると、香穂子は思った。
「じっくりと読んでくれたまえ。不明瞭な点があれば、質問をしてくれたまえ。小さな文字で書いて責任逃れはしたくはないからね。後で訊いていないと言わないようにしてくれたまえ」
 吉羅があくまでビジネスライクなのは当然だ。
 やはりこれは契約がかかっているのだから。
 香穂子は、そのあたりを冷静に受け止めると、契約書を熟読した。
 吉羅とのこれはビジネス上の契約なのだ。
 そこには色恋沙汰をいれてはならないのだ。
 香穂子はそれを冷静に思う。
 これからソリストとしてやっていくならば、このような契約のシーンは想定出来るだろう。
 だからこそ香穂子はこれは練習のようなものだと思い、しっかりと対処することにした。
 オケでやるにしても同じことなのかもしれない。
 そのあたりを考えながら、香穂子は契約書を熟読した。
 吉羅側が作成した契約書はきちんと隙なく作られている。何処にも穴なんてない。
 しかも遠回しの表現が一切なく、明瞭に書かれていた。
 それも香穂子には有り難いことだった。
 吉羅は、香穂子をじっと見ている。恐らくはきちんと理解しているのかどうかを見ているのだろう。
 香穂子は視線を感じながらも、なるべく冷静になるようにした。
 とても分かりやすい表現で書かれていたので、香穂子は直ぐに署名捺印をすることが出来た。
「吉羅さん、有り難うございます。とても良い条件を頂いて感謝しています」
「こちらこそ、署名捺印をして貰って有り難いと思っているよ。さあ、これで契約成立だ」
 吉羅は背筋を美しく伸ばすと、握手を求めてくる。
 吉羅の手は男らしくて大きい。なのに指先はとても綺麗だ。まるでかつて楽器をしていたのではないかと、思わずにはいられない指先だった。
 香穂子はときめく胸を抑えることが出来ないまま、吉羅としっかりと握手をした。
「有り難う。これで契約成立だ」
「はい」
 吉羅の一言に香穂子は気分が引き締まるのを感じた。
 リゾート気分になんて浸れない。
 これは仕事なのだ。
 しかも吉羅のことだ。かなりのレベルを求めてくるだろう。
 条件は良くても厳しい現場には違いない。
 香穂子は戦場に行くような気分を味わっていた。 
 名残惜しそうに吉羅が手を離す。
 香穂子も同じ気持ちだ。
「吉羅さん、私、しっかりと頑張ります」
「ああ。君の働きを期待しているよ」
「はい」
 香穂子は深呼吸をした後、しっかりと頷いた。
「さて、契約もきちんと済ませたところで、日野君、食事はいかがかな?」
 吉羅の表情が厳しいビジネスライクなものから、ほんのりと柔らかくなる。
「はい。有り難うございます」
 香穂子は華やいで楽しい雰囲気になるのを感じながら、吉羅を見つめた。
「ビジネスの話を抜きにして、純粋に食事を楽しみたいからね。宜しく頼む」
「はい。こちらこそ」
 吉羅とゆっくりと食事が出来る。それだけでも嬉しい。
 ゆったりとした時間を過ごせるのだ。
「では行こうか。時間は待ってはくれないからね」
「はい」
 ふたりで並んでCEO室から出る。
 幸せな瞬間だった。



Back Top Next