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リゾートホテルでの演奏会が決まってからというもの、あたふたと仕事の準備をした。 短い時間しかなかったせいもあり、本当にバタバタした。 今回は長期滞在になるので、洋服や化粧品といった細々としたものもかなりの量だ。 吉羅曰く、クリーニングは毎日無償で出せるから、そんなにも荷物は持って行かなくても大丈夫だということだったが、それでも最低限の荷物を入れてもかなりの量だった。 キャリーバッグにボストンバッグの2種類になった。 ドライヤーや髪を巻く鏝はあるとのことだったので助かったが、それでも衣装やヘアアクセサリーがかなりの幅を締めていた。 ただ家の前まで迎えに来てくれるということだったので、かなり助かったのだが。 香穂子が迎えの車を待っていると、なんと吉羅のフェラーリがやってきた。 多忙な吉羅がわざわざ送ってくれるなんて、想像すら出来なかった。 吉羅の愛車フェラーリが、ピタリと香穂子の家の前に停まった。 「お待たせしたね」 「…あ、は、はいっ。今日は宜しくお願いしますっ!」 本当に想像することが出来なかったから、香穂子は戸惑いと緊張を滲ませて挨拶をした。 吉羅はトランクを開けて荷物を入れてくれる。しかしトランクには、既に大きくて立派なキャリーバッグが入っていた。 まさか吉羅もリゾートホテルで仕事をするということなのだろうか。 そうだったら、嬉しい反面緊張もする。 香穂子がフェラーリに乗り込むと、吉羅は静かに車を出した。 「朝早くて申し訳ないね。ドライブがてら楽しもうか。ランチの時間には間に合うから」 「有り難うございます」 車はゆっくりと横浜を出る。 「あ、あの…、吉羅さんも…、リゾートホテルでお仕事をされるんですか?」 「ああ、そのつもりだ。後半は夏休みも兼ねているよ。あちらで仕事をしても支障がないからね。この時期は特にね」 「そうですか」 ずっとそばにいられるのは確かに嬉しい。 だが、心臓がいくらあっても足りない。 「君の立ち振る舞いのレッスンなどは見させてもらうつもりだから。私はこれでも立ち振る舞いに関しては厳しいからね」 吉羅は目は笑いながらも、言葉はかなり厳しい。まるで香穂子にしっかりとやれと言っているようだ。 勿論、しっかりとやるつもりではあるが、これはかなり気合いを入れてやらなければならないと思った。 「吉羅さん、覚悟を決めて頑張ります」 「本番まではきちんとスケジュールを立てているから、それに従ってやってもらう。解ったね」 「はい」 契約書には署名捺印をしたのだ。 もう逃げられないのは解った。 だからここは腹を括るしかないのだ。 吉羅は、本当に純粋に、香穂子に期待を持ってヴァイオリニストとして育って欲しいと、思ってくれているのだろう。 それはとても嬉しかった。 その期待に応えるためにも頑張らなければならない。 香穂子はリゾート気分を総て捨て去って、ヴァイオリニストとしてのモードに切り替えた。 「これからのレッスンはかなり厳しいものになると思う。覚悟しておきたまえ」 「望むところです」 香穂子が瞳に少し勝ち気な色を浮かべると、吉羅は頷いた。 「結構だ」 吉羅はまんざらでもない風に言うと、フッと微笑んだ。 車は一路リゾートホテルへと向かう。 まさに戦場に向かうのだと、香穂子は思った。 海岸線を走って行くと、まるで西洋の城のような建物が見えてくる。 「あれがそうだ。海も見えるが、奥には小さな森もある」 まるで夢を見ているように美しいリゾートだ。 このような場所でヴァイオリンを弾けるなんて、本当にうっとりとする。 香穂子は夢見心地な気分になっていた。 車はホテルの敷地に入っていく。 「演奏をして貰うのは、この本館でだが、滞在して貰うのは、この奥にある別館だ」 「はい」 こんな素敵な場所で過ごせるだけでも嬉しい。 香穂子はついうっとりとしてしまう。 「本当に綺麗ですね。写真で見るよりもずっとずっと素敵な場所です」 「それは光栄だね」 吉羅は何処か嬉しそうに笑ってくれた。 車は宿泊客専用の駐車場の横を走り抜けて、更に奥へと向かう。 香穂子は美しい森に入って、更にうっとりとした。 本当にリゾート地にはふさわしい場所だ。 このように“完璧な”リゾートは、他にはないのではないかと思う。 「…本当に素晴らしいところですね」 香穂子が感嘆の声をあげていると、こぶりで可愛らしい邸宅が見えて来た。 明らかにホテルとは違う雰囲気だ。 「あれだ。あの屋敷はうちの別荘でね、君にはそこに滞在して貰うよ」 「有り難うございます。嬉しいです」 吉羅の別荘。 そう思うだけで、香穂子の胸は高まる。 本当に吉羅に似合いの別荘だ。 「とても綺麗な別荘ですね。嬉しいです」 吉羅は邸宅前にある門をリモコンで開けて中に入る。ホテルの中にあるということで、きちんと席がされているようだった。 吉羅は静かに車を駐車スペースに停めた。 「さて着いたよ。テラスには既にランチを用意してくれているようだ。一緒に食べようか。先に部屋に案内しよう」 「はい」 吉羅がインターフォンを鳴らすと、いかにも外国の小説に出てきそうな可愛らしいおばさんメイドが出て来た。 「まあ、坊っちゃん、おかえりなさいませ」 「ただいま。彼女を部屋に案内してくれませんか?」 「はい、かしこまりました」 女性は愛くるしい笑みを浮かべると、香穂子を見つめた。 人懐っこい笑顔に癒されて、香穂子も満面の笑みを浮かべた。 「こんにちは初めまして。日野香穂子と申します。ヴァイオリンを弾きに参りました。お世話になります。宜しくお願い致します」 香穂子は深々と頭を下げて、きちんと挨拶をした。 「まあまあ、お可愛らしいこと。私はこの家の家政婦をしております。主人はホテルの執事として働かせて頂いています。ここは痛まないように、私たち夫婦が住み込みをさせて頂いているんですよ。私たちのプライベートスペースは一階の奥にありますからいつでも来て下さい。2LDKの広さがしっかりありますからね」 「有り難うございます」 香穂子は家政婦に案内されて二階の端の部屋に向かう。 「この部屋から眺める景色は最高ですよ。特に夕焼けの時間は、言葉を忘れてしまいますよ」 「有り難うございます。楽しみです」 それほどまでに美しいのか、香穂子はロマンティックに楽しもうと思う。 「こちらですよ」 部屋のドアを開けられて、香穂子は思わず息を飲む。 これぞ外国のリゾートホテルなのではないかと、錯覚してしまうほどだ。 ベッドのインテリアもかなりこだわって造られている。本当に素晴らしいと思わずにはいられない。 「本当に綺麗な部屋ですね」 「ここは影のスィートルームですよ。リゾートにはピッタリのイメージです。奥にはセパレートのお手洗いと洗面所、バスルームがありますから、ひとりでゆっくりと出来ますよ。窓からは海が見えますよ」 「とても綺麗ですね。本当にロマンティックです」 「ええ。ゆっくりとして下さいね。ランチが出来ていますから、荷物を置いて一階のテラスに来て下さいね」 「有り難うございます」 香穂子が礼を言うと、家政婦は笑顔になる。 本当に何もかもがロマンティックでふさわし過ぎる。 香穂子は窓の外からの見事な風景を見つめながら、幸せな気分になった。 |