1
あのひとは高嶺の花。 手を伸ばしても、決して届かない極上の花だ。 あのひとに手を伸ばして触れられるのは、あのひとと同じ世界にいるひとだけだ。 自由に恋愛をして良い時代になったとはいえ、それは変わらない。 未だに見えない壁が存在するのは確かだ。 だから遠くから見つめる。 それだけで感謝したい気分だった。 あのひとは大きな屋敷に住む、旧華族の家柄。 ああいう世界は、未だに家柄を重視して結婚をするのだ。 奥さんになるなんて、そんな大それたことは考えられない。 ずっとそう思っていた。 「吉羅さん家のホームパーティで、ヴァイオリン演奏をすることになったの? まあ、粗相のないようにね」 「解っているよ、お母さん」 吉羅家と言えば名門中の名門で、香穂子が通っている大学の理事長を務める家柄だ。 香穂子の家は、昔から吉羅家に出入りを許された横浜の小さなパティスリーだ。 今でも、堅実に営業を行なっている、横浜では老舗の部類に入る。 そこの娘であるから、香穂子は小さな頃から吉羅家に出入りをしていた。 吉羅家の長女が亡くなってからは、あまりケーキの配達はなくなってしまったが、それでも事あるごとに呼ばれている。 「今度のパーティはかなり大掛かりのようよ。ひょっとして、息子さんの婚約パーティなのかもしれないわね」 母親がしみじみと言うのを、香穂子はドキリとして聞く。 吉羅暁彦が結婚してしまうかもしれない。 こんなにも切ないことはない。 香穂子は何とか笑顔を浮かべると、母親には動揺を知らせないようにする。 「そ、そうなんだ。吉羅さんもそろそろお年頃だものね…」 「そうねえ…。奥様も結婚して早く安心させて欲しいとおっしゃっていたからね」 「そうだね…」 香穂子はフッと暗い笑みを浮かべる。 昔から吉羅のことが好きで好きでしょうがないのに、恋人候補になったことすらない。 年齢的なこともあるのだが、それ以上に身分的なこともある。 香穂子の家は、吉羅家にとっては出入り業者で、パーティや日常のスウィーツ全般を取り仕切る、いわば使用人に近い。 カジュアルなパーティでは、香穂子の父親が簡単な料理まで腕を振るうのだ。 実際にパティスリーのカフェでは、ランチタイムだけ食事を供給しているのだ。 それゆえに一度もリストに上がったことはなかった。 吉羅には食事によく誘って貰っているし、ドライブもよくする。 香穂子が音楽家になるために力を貸してくれている。 それにふたりは共通で音楽の妖精を見ることが出来る。吉羅一族以外でずっと見られるのは、香穂子だけなのだ。 共通点はあっても、あくまで恋人ではないのだ。 吉羅の恋人はいつも別にいたのだから。 「じゃあこれから吉羅邸に行ってくるね。ヴァイオリン弾いたら帰ってくるから」 「いってらっしゃい。あ、ここにご飯代わりにお父さん特製のパンを持っていきなさいな」 「はい。有り難う」 パーティの客人ではなく、お客様を楽しませるほうだ。 香穂子は自分がお腹が空いた時のために、食事パンを持っていった。 「じゃあお母さん行って来ます」 「はい」 香穂子は、ヴァイオリン演奏のために買ったワンピースにボレロを羽織って、歩いて吉羅邸に向かう。 香穂子の家は坂の下にあり、吉羅の家は坂の上にある。 これがふたりの住む世界の違いを現している。 香穂子は常々そう思っていた。 今日も父親と同じく、吉羅邸の勝手口から入れて貰い、香穂子はいつものように、使用人詰所である休憩室に向かう。 「こんにちはおばさん」 「今日はヴァイオリンを弾きに来たの?」 「うん、そうだよ。ここに夕食を置かせてね」 香穂子はテーブルの上に夕食を置いた後、椅子にゆったりと座る。 「ヴァイオリニストとして知られてきたあなたが、此所にいていいの?」 「いいって、いいって。私の楽屋はここだもん。時間になったらここからヴァイオリンを弾きに行くから」 香穂子がにこにこしながら言うと、家政婦長が困ったように笑う。 「今日はあなたもゲストなんだけれどね…」 「ゲストじゃないよ。だって、お客様を楽しませる側にいるんだから」 「そう言われてもねえ…」 家政婦長は困ったように言うと、香穂子を見た。 「出番が終わったら、ここで夕飯食べて行くからね」 「…解ったよ。あなたは本当に変わらないねえ」 香穂子はただにっこりと微笑んだ。 「暁彦さん、香穂子ちゃんが来ないんだけれど…。ちゃんと楽屋を用意しているのに、困ったわね…」 母親が困惑しているのを、吉羅はクールないつも通りの表情で見つめる。 「…どうせ、休憩室を楽屋にしているんですよ。確かめてみます」 吉羅は直ぐに電話を取ると、内線で休憩室へと連絡する。 「休憩室です」 「香穂子はいますか?」 「香穂子ちゃんならいますよ。出番までここで待つそうです」 「…全く…、きちんと楽屋を用意したんですがね…」 「…あ、ここで良いので、出番が来たら会場に向かいますということです」 「ったく…。解りました。時間には広間に来るように伝えて下さい」 「解りました」 吉羅は溜め息を吐きながら受話器を置く。 香穂子らしい。 いつもそうなのだ。 吉羅家にあくまで迷惑がかからないようにと、行動をする。 いつも使用人気分で吉羅に接してくるのだ。 それはそれで困るのだが。 吉羅は電話を置くと、仕方がなく会場に向かった。 だいたいの時間は聞いていたので、その近くになってようやく会場へと向かう。 そっと会場に入ると、とても豊かな雰囲気に、香穂子は気後れする。 旧華族の家柄である吉羅家なら当然なのだろう。 本当に吉羅家でなければ繰り広げられない光景だ。 吉羅はと言えば、美しい女性と一緒に話をしている。 お似合いだ。 香穂子とは住む世界が違う。 そういえば、今日のパーティの趣旨を訊いていなかった。 香穂子は広間の隅で、そっと何のパーティかを訊いてみることにした。 「…すみません…。これは何のパーティかを知りたいんですが…」 「何でもご夫妻の結婚記念日と、子息の吉羅暁彦氏の婚約お披露目パーティも兼ねているらしいですよ…」 「そ、そうですか…」 やはり吉羅が結婚するという噂は本当だったのだろう。 香穂子は胸がズンと痛むのを感じた。 吉羅暁彦が誰かと結婚するのは解っていた。 だが、聞かされるとやはり辛い。 吉羅が誰かのものになるなんて、想像出来なかった。 「有り難うございます」 そろそろ時間だ。 香穂子はヴァイオリンと一緒に、ステージに見立てた場所に立つ。 ここではただヴァイオリンをしっかりと頑張れば良い。 香穂子はヴァイオリンだけに集中をした。 アニバーサリーに相応しい曲を幾つか演奏をする。 誰もが楽しんで聴いてくれるのが、嬉しかった。 吉羅が誰かのものになるのは、胸が痛んで苦しくなるくらいに辛い。 「香穂子ちゃん、素晴らしい演奏を有り難う」 吉羅家女主人から言われ、香穂子は嬉しくてしょうがなかった。 「こちらこそ、有り難うございます。記念の日にヴァイオリン演奏が出来てうれしいです」 香穂子は深々と頭を下げた。 挨拶の後、香穂子はなるべく吉羅を見ないようにして、控え室へと戻る。 ここで夕飯代わりの調理パンを食べて、自宅に帰るのだ。 パンを食べている途中に、ドアがノックされて開かれる。 振り返るとそこに吉羅がいた。 「香穂子、来るんだ」 「え!?」 吉羅は有無言わせずに香穂子の手を握り締めると、そのまま会場へと連れて行く。 先ほどのステージめいたところにいきなり立たされた。 「皆さん、私は彼女とこの度婚約することになりました」 まさかと思った。 |