*May Be It's You*

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 あのひとは高嶺の花。
 手を伸ばしても、決して届かない極上の花だ。
 あのひとに手を伸ばして触れられるのは、あのひとと同じ世界にいるひとだけだ。
 自由に恋愛をして良い時代になったとはいえ、それは変わらない。
 未だに見えない壁が存在するのは確かだ。
 だから遠くから見つめる。
 それだけで感謝したい気分だった。

 あのひとは大きな屋敷に住む、旧華族の家柄。
 ああいう世界は、未だに家柄を重視して結婚をするのだ。
 奥さんになるなんて、そんな大それたことは考えられない。
 ずっとそう思っていた。

「吉羅さん家のホームパーティで、ヴァイオリン演奏をすることになったの? まあ、粗相のないようにね」
「解っているよ、お母さん」
 吉羅家と言えば名門中の名門で、香穂子が通っている大学の理事長を務める家柄だ。
 香穂子の家は、昔から吉羅家に出入りを許された横浜の小さなパティスリーだ。
 今でも、堅実に営業を行なっている、横浜では老舗の部類に入る。
 そこの娘であるから、香穂子は小さな頃から吉羅家に出入りをしていた。
 吉羅家の長女が亡くなってからは、あまりケーキの配達はなくなってしまったが、それでも事あるごとに呼ばれている。
「今度のパーティはかなり大掛かりのようよ。ひょっとして、息子さんの婚約パーティなのかもしれないわね」
 母親がしみじみと言うのを、香穂子はドキリとして聞く。
 吉羅暁彦が結婚してしまうかもしれない。
 こんなにも切ないことはない。
 香穂子は何とか笑顔を浮かべると、母親には動揺を知らせないようにする。
「そ、そうなんだ。吉羅さんもそろそろお年頃だものね…」
「そうねえ…。奥様も結婚して早く安心させて欲しいとおっしゃっていたからね」
「そうだね…」
 香穂子はフッと暗い笑みを浮かべる。
 昔から吉羅のことが好きで好きでしょうがないのに、恋人候補になったことすらない。
 年齢的なこともあるのだが、それ以上に身分的なこともある。
 香穂子の家は、吉羅家にとっては出入り業者で、パーティや日常のスウィーツ全般を取り仕切る、いわば使用人に近い。
 カジュアルなパーティでは、香穂子の父親が簡単な料理まで腕を振るうのだ。
 実際にパティスリーのカフェでは、ランチタイムだけ食事を供給しているのだ。
 それゆえに一度もリストに上がったことはなかった。
 吉羅には食事によく誘って貰っているし、ドライブもよくする。
 香穂子が音楽家になるために力を貸してくれている。
 それにふたりは共通で音楽の妖精を見ることが出来る。吉羅一族以外でずっと見られるのは、香穂子だけなのだ。
 共通点はあっても、あくまで恋人ではないのだ。
 吉羅の恋人はいつも別にいたのだから。
「じゃあこれから吉羅邸に行ってくるね。ヴァイオリン弾いたら帰ってくるから」
「いってらっしゃい。あ、ここにご飯代わりにお父さん特製のパンを持っていきなさいな」
「はい。有り難う」
 パーティの客人ではなく、お客様を楽しませるほうだ。
 香穂子は自分がお腹が空いた時のために、食事パンを持っていった。
「じゃあお母さん行って来ます」
「はい」
 香穂子は、ヴァイオリン演奏のために買ったワンピースにボレロを羽織って、歩いて吉羅邸に向かう。
 香穂子の家は坂の下にあり、吉羅の家は坂の上にある。
 これがふたりの住む世界の違いを現している。
 香穂子は常々そう思っていた。
 今日も父親と同じく、吉羅邸の勝手口から入れて貰い、香穂子はいつものように、使用人詰所である休憩室に向かう。
「こんにちはおばさん」
「今日はヴァイオリンを弾きに来たの?」
「うん、そうだよ。ここに夕食を置かせてね」
 香穂子はテーブルの上に夕食を置いた後、椅子にゆったりと座る。
「ヴァイオリニストとして知られてきたあなたが、此所にいていいの?」
「いいって、いいって。私の楽屋はここだもん。時間になったらここからヴァイオリンを弾きに行くから」
 香穂子がにこにこしながら言うと、家政婦長が困ったように笑う。
「今日はあなたもゲストなんだけれどね…」
「ゲストじゃないよ。だって、お客様を楽しませる側にいるんだから」
「そう言われてもねえ…」
 家政婦長は困ったように言うと、香穂子を見た。
「出番が終わったら、ここで夕飯食べて行くからね」
「…解ったよ。あなたは本当に変わらないねえ」
 香穂子はただにっこりと微笑んだ。

「暁彦さん、香穂子ちゃんが来ないんだけれど…。ちゃんと楽屋を用意しているのに、困ったわね…」
 母親が困惑しているのを、吉羅はクールないつも通りの表情で見つめる。
「…どうせ、休憩室を楽屋にしているんですよ。確かめてみます」
 吉羅は直ぐに電話を取ると、内線で休憩室へと連絡する。
「休憩室です」
「香穂子はいますか?」
「香穂子ちゃんならいますよ。出番までここで待つそうです」
「…全く…、きちんと楽屋を用意したんですがね…」
「…あ、ここで良いので、出番が来たら会場に向かいますということです」
「ったく…。解りました。時間には広間に来るように伝えて下さい」
「解りました」
 吉羅は溜め息を吐きながら受話器を置く。
 香穂子らしい。
 いつもそうなのだ。
 吉羅家にあくまで迷惑がかからないようにと、行動をする。
 いつも使用人気分で吉羅に接してくるのだ。
 それはそれで困るのだが。
 吉羅は電話を置くと、仕方がなく会場に向かった。

 だいたいの時間は聞いていたので、その近くになってようやく会場へと向かう。
 そっと会場に入ると、とても豊かな雰囲気に、香穂子は気後れする。
 旧華族の家柄である吉羅家なら当然なのだろう。
 本当に吉羅家でなければ繰り広げられない光景だ。
 吉羅はと言えば、美しい女性と一緒に話をしている。
 お似合いだ。
 香穂子とは住む世界が違う。
 そういえば、今日のパーティの趣旨を訊いていなかった。
 香穂子は広間の隅で、そっと何のパーティかを訊いてみることにした。
「…すみません…。これは何のパーティかを知りたいんですが…」
「何でもご夫妻の結婚記念日と、子息の吉羅暁彦氏の婚約お披露目パーティも兼ねているらしいですよ…」
「そ、そうですか…」
 やはり吉羅が結婚するという噂は本当だったのだろう。
 香穂子は胸がズンと痛むのを感じた。
 吉羅暁彦が誰かと結婚するのは解っていた。
 だが、聞かされるとやはり辛い。
 吉羅が誰かのものになるなんて、想像出来なかった。
「有り難うございます」
 そろそろ時間だ。
 香穂子はヴァイオリンと一緒に、ステージに見立てた場所に立つ。
 ここではただヴァイオリンをしっかりと頑張れば良い。
 香穂子はヴァイオリンだけに集中をした。
 アニバーサリーに相応しい曲を幾つか演奏をする。
 誰もが楽しんで聴いてくれるのが、嬉しかった。
 吉羅が誰かのものになるのは、胸が痛んで苦しくなるくらいに辛い。
「香穂子ちゃん、素晴らしい演奏を有り難う」
 吉羅家女主人から言われ、香穂子は嬉しくてしょうがなかった。
「こちらこそ、有り難うございます。記念の日にヴァイオリン演奏が出来てうれしいです」
 香穂子は深々と頭を下げた。
 挨拶の後、香穂子はなるべく吉羅を見ないようにして、控え室へと戻る。
 ここで夕飯代わりの調理パンを食べて、自宅に帰るのだ。
 パンを食べている途中に、ドアがノックされて開かれる。
 振り返るとそこに吉羅がいた。
「香穂子、来るんだ」
「え!?」
 吉羅は有無言わせずに香穂子の手を握り締めると、そのまま会場へと連れて行く。
 先ほどのステージめいたところにいきなり立たされた。
「皆さん、私は彼女とこの度婚約することになりました」
 まさかと思った。



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