*May Be It's You*

2


 吉羅が何を言っているのか、香穂子は一瞬解らなかった。
 頭が真っ白になる。
 心臓の音だけが、ただ煩いぐらいに鳴り響いている。
 香穂子は呼吸を何度も浅くしながら、吉羅を見つめた。
 まさか。
 吉羅の婚約相手が自分だなんて、そんなことは思いもよらなかった。
 香穂子がうろたえていると、吉羅はクールなまなざしで見つめてきた。
「…あ、あの…、今のは本気ですか!?」
「勿論」
 吉羅は落ち着きの払った声で言うと、香穂子の腰を抱いた。
 吉羅のお嫁さんになること。
 それは幼いころからの香穂子の願いだった。
 いつも一番の願いだったのだ。
 それがこんなにも突然に叶うなんて、思ってもみなかった。
「…香穂子…笑ってお辞儀をするんだ」
「は、はいっ」
 どう対処して良いかが香穂子には解らなくて、ただただ吉羅に言われた通りにした。
 すると会場から拍手が湧くと共に、一部の女性からは痛い視線を受ける。
 それがほんのりと切ない。
 ステージのようなところから下りて、吉羅に客の輪に連れていかれる。
「おめでとうございます」
 祝福をされても、香穂子はにっこりと微笑むことしか出来ない。
「有り難うございます」
 ただ人形のように挨拶を繰り返しただけだった。

 ようやく骨が折れるような挨拶が終わり、吉羅に応接室に連れていかれた。
 ふたりきりになって、ようやく真相を問い質せる。
「吉羅さんっ…! 先ほどの宣言はどういうとですか!?」
 流石に香穂子も困惑を隠しきられない。
「…どういうこと…も…、こういうことだ…。君とは婚約する。両親の手前、結婚しなければならなくなってね。君ならば両親も気に入ってくれている。それにフリーだ」
 吉羅は、婚約をすることがビジネスであるかのように、淡々と話している。
「…私は…使用人格の家の出ですし…、吉羅さんとは家柄が違うから…」
「君は随分と古風な考え方をするんだね」
 ナンセンスだとばかりに、吉羅は言うと、高飛車に腕を組む。
「明治時代ではあるまいし、今時、家柄が違うから結婚出来ないなんてないだろう…? 時代錯誤だ」
 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子を見る。
 その瞳はビジネスシーンよりも冷徹だ。
「とにかく、両親を安心させるためにも、周りを黙らせるためにも、婚約をして欲しい。君には、ヴァイオリニストになるための助力をする。また、君の実家のパティスリーの経営にも力を貸す。悪い条件ではないだろう」
 吉羅は巧みに香穂子の外堀を埋めて行く。
 本当になんて狡い男なのだろうかと、香穂子は思った。
 香穂子は複雑な気分になる。
 誰よりも大好きなひとからビジネスライクな婚約を持ち掛けられるなんて、思ってもみないことだった。
 吉羅だから出来ることなのだろう。
 吉羅はただクールに香穂子を見つめている。
「…吉羅さん、もし…、私がそんなことは出来ないと断ったとしたら…、あなたはどうされますか…?」
 香穂子の言葉に吉羅は眉をあげる。
「他の女性をあたるね」
 吉羅の言葉に、香穂子の腹は決まった。
 他の女性が、吉羅の婚約者になるなんて、考えられない。
 そんなことを許すぐらいならば、自分が婚約者になる。
 切ない想いを抱えてじっと見ているのはたまらない。
 香穂子は吉羅を見ると、深呼吸をした。
「解りました。受け入れます」
 香穂子は背筋を伸ばすと、キッパリと言い切った。
「有り難う。君ならそう言ってくれると思っていたよ」
 吉羅は相変わらず淡々と話すと、香穂子の手を握り締めてくれた。
「…それに君は羽根虫どもが見える唯一の吉羅家以外の人間だ。説明するのもいちいち面倒臭くなくて良いからね」
「…吉羅さん…」
 香穂子は悟る。
 自分は総てにおいて吉羅には好都合な女なのだろう。
 確かにそうかもしれない。
 香穂子は深呼吸をすると、吉羅を見た。
「…君には色々と協力してもらうところがあるから、宜しく頼む」
「吉羅さん…」
 香穂子はただ頷くことしか出来なかった。

 無事にパーティは終わり、香穂子は婚約者らしく吉羅に家まで送って貰う。
 あの急な坂道を下りるのは、かなり骨が折れるからだ。
 香穂子の家までの短いドライブ。
 今までなら飛び上がって喜んだのに、今日はそんな気分にはなれなかった。
 吉羅はあくまでビジネスの一環として婚約しようとしているのだ。
 香穂子は頭がくらくらするのを感じる。
 だが香穂子が断れば他の女性がその役割を果たすのだ。
 それはかなり嫌だった。
「君のご両親にもちゃんと挨拶をしておく。いいね」
「…はい」
 両親に知られてしまったら、それこそひっくり返ってしまうだろう。
 娘があの吉羅暁彦と婚約をするのだから。
 名門の家柄で、しかもビジネスマンとしても大成功をおさめている。
 誰もが夢見るような男だ。
 香穂子もまた小さな頃からあこがれていた。
 ヴァイオリンを始めたのも吉羅による影響が大きかった。
 吉羅家の直系にしか見えない音楽の妖精ファータのアルジェント・リリが見えるのも、影響しているかもしれないが。
 高校も大学も授業料が高めな星奏学院に行けたのも、吉羅家の尽力によるお陰なのだ。
「色々と干渉が多い世界に私も生きているからね。君にも迷惑をかけてしまうかもしれないが、宜しく頼む」
「…は、はい…」
 吉羅の前だと萎縮してしまい、動揺した返事しかすることが出来ない。
「もうすぐ君の家だ」
「…はい」
 小さな頃はよく手を繋いで坂の下の家まで送ってくれたものだ。
 今はそれが車になってしまったことが寂しい。
「小さな頃はよく送って下さいましたね」
「そんなことをよく覚えていたね」
「はい。大事な思い出ですから」
 香穂子が子どもの頃を思い出してくすりと笑うと、吉羅は髪をそっと撫でて来た。
 香穂子が幼い頃と同じ仕草だ。
 あの頃は褒められた気分で嬉しかったが、今は違った意味合いになる。
 香穂子よりも一回り以上も離れたひと。
 およそ十五歳も違うのだ。
 それがしみじみと切なくなることもある。
 香穂子は、吉羅が都合の良い婚約者もどきだと思っていないか、切なくなった。
「さてと君の家だ。挨拶をしなければならないから、車は店の駐車場に停めさせて貰うよ」
「…はい」
 吉羅は巧みなハンドル捌きで、車を駐車場に停めてくれた。
「さてと、ご挨拶に行くとしよう。君と結婚を前提にお付き合いをすると、婚約をすると、きちんとお伝えしなければならないからね」
「はい」
 本当に良いのだろうか。
 こんなことを宣言したら、それこそ両親はひっくり返ってしまうに違いない。
 あの吉羅家の次期当主の妻になるなんて、そんなことを知ったら、母親などは卒倒してしまいそうだ。
 吉羅は何を考えているのだろうかと、つい感じてしまう。
「行こうか」
「はい」
 吉羅に手をしっかりと握り締められて、香穂子は家に向かう。
 小さな頃は、吉羅にこうして手を握り締められて、よく家に帰ったものだ。
 あの頃は、吉羅家とは身分が違うということを知らなかった。
 だが、今はそれをよく理解することが出来る。
 吉羅は香穂子の自宅のインターホンを押す。
 すると母が出た。
「はい。まあ! 吉羅さん」
「お久し振りです…。ご挨拶に参りました」
「まあ、どうぞお入りになって下さい!」
 母親は慌ててドアを明けてくれる。
「いらっしゃいませ」
 そう言った瞬間、母親は黙り込む。
 視線は繋がれたふたりの手にあった。



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