*May Be It's You*

3


「い、いらっしゃいませ吉羅さん、…お、おかえりなさい…香穂子…」
 母親がかなり動揺しているのは、その雰囲気で解った。
 香穂子はしょうがないと思いながらも、苦笑いを浮かべる。
 母親が驚くのは当然だ。
 香穂子のほうがかなり驚いてしまったのだから。
 吉羅の様子をちらりと見ても、全く動揺していない。
「ど、どうぞ中にでも…」
「有り難うございます」
 吉羅はいつものようにクールに言うと、家へと入った。
 吉羅の姿を見るなり、今度は父親が驚いた。
 無理もない。
 あの吉羅家の次期当主がやってきたのだから。
「あ、あの、むさくるしいところですが、お座り下さい」
「有り難うございます」
 吉羅は相変わらず落ち着いている。
 香穂子はと言えば、緊張の余りに心臓だけが激しいマラソンを繰り広げていた。
 息苦しいと思うほどの鼓動の激しさに、香穂子はどうして良いかが解らなかった。
 吉羅とふたりで並んでリビングのソファに座り、母親が吉羅にとっておきの紅茶を出す。
 両親とも様々な意味での緊張がピークになっているのを香穂子は感じながら、何度も深呼吸をした。
「…あ、あの…、お話というのは」
「はい。率直に申上げます。香穂子さんと結婚を前提としてお付き合いをさせて頂きたいのです」
 一瞬、両親は何を言われたかが理解出来てはいないようだった。
 だが次の瞬間に、ひっくり返りそうになった。
「あ、あのっ、香穂子と、そ、その結婚されたいとっ!」
 父親は今でもひっくり返ってしまうのではないかと思うぐらいに、動揺をしている。
 時代が違えば決して有り得ないことだ。
 巷では所謂“玉の輿”ということなのだろうが。
「いずれはそのようにと考えています」
「あ、有り難うございますっ!」
「こちらが有り難うと言わなければならないですよ」
 テンパっている父親を尻目に、吉羅はかなり落ち着いている。
「…香、香穂子はどうなの?」
 母親は香穂子を見つめながら、心配そうにしている。
「あ、うん…、いきなりのことで驚いているんだけれど…、今はドキドキし過ぎて、ちゃんと返事をすることは出来ないけれど…」
 香穂子はしどろもどろになりながら、母親を見た。
「そう…」
 母親は香穂子な答えに、更に心配そうな笑みを浮かべた。
 だが、吉羅はそんなことは気にしてはいないとばかりに口を開く。
「お嬢さんと結婚を前提にお付き合いをすることを許可頂けますか?」
「は、はいっ」
 父親は勢いで返事をしている。
 両親とも、香穂子が小さな頃から吉羅を好きなことを知っていてか、父親は半ば夢見心地に返事をする。
「有り難うございます。それでは私はこれで」
 吉羅は立ち上がると、静かに玄関先へと向かう。
 香穂子はどうして良いかが解らずに、吉羅に着いていった。
「あ、あの、吉羅さん」
 本当に突然のこと過ぎて、香穂子はどうして良いかが解らない。
「…あ、あのっ」
「香穂子、これが私のプライベートのメールアドレスと携帯電話のナンバーだ。渡しておく。後で携帯電話番号を書いてメールをしてくれ」
「はい」
 名刺の裏に書いたものを、吉羅は渡してくれる。
 何だか特別なものを貰ったようで嬉しかった。
「有り難うございます」
 香穂子はほんのりと頬を染めて、笑顔で言った。
「では、メールを待っている」
「は、はいっ」
 戸惑っているとはいえ、喜んでいる自分がいる。
 それに香穂子は困惑する。
 吉羅を見送った後、香穂子がリビングに戻ると、母親がにっこりと笑った。
「心配をしたのは、私の杞憂だったみたいね。先ほどのあなたの華やいだ表情を見たら、安心したわ」
 母親からは先ほどの不安な陰は消え去りつつあった。
 それを香穂子は複雑な気分で見つめる。
 ただ母親には微笑むことしか出来なかった。

 吉羅は本当に好きでいてくれるのだろうか。
 そこが不安だ。
 大好きで大好きでたまらないひとだからこそ、香穂子の不安は大きかった。
 自分と同じように好きでいてくれたら、幸せだというのに。
 それが解らない今は、五里霧中だった。
 部屋のベッドに寝転びながら、香穂子は吉羅にメールをする。
 携帯電話のナンバーもそこに記した。
 吉羅と携帯電話で話せることが、香穂子には嬉しくてしょうがなかった。
 それが本当に心から幸せであれば良いのにと、思わずにはいられなかった。
 そうなるには、吉羅から愛されていると確信できるものが欲しかった。
 メールをしてから暫くして、吉羅から電話がかかってきた。
 携帯電話のディスプレイに吉羅暁彦と文字が出る。
 飛び上がるほどに嬉しくて、香穂子は早々に電話に出た。
「はいっ、日野! あ、有り難うございます」
 つい礼を言ってしまうのは、今までの癖なのだ。
「こちらこそ今夜は有り難う。何か用がある時はきちんと連絡をするからそのつもりで」
「はいっ」
「早速だが、この週末、一緒に出掛けないかね?」
「え、良いんですか!?」
 いきなりのデートの誘いに、香穂子は嬉しくて声をうわずらせた。
「土曜日の午前中は仕事だが、午後からは一緒に食事に行かないかね?」
「喜んで!」
 香穂子は考えることないかのように、つい即答をしてしまった。
「…では当日に待ち合わせ場所を伝える。時間も流動的だから、メールをする。良いね」
「はい、有り難うございますっ」
「ああ。では、また」
 吉羅が電話を切った後も、香穂子はずっと携帯電話を離すことは出来なかった。
 夢見心地だ。
 吉羅とデートすること自体が夢だったから。
 こんなにも素敵な夢はないと思いながら、香穂子はにっこりとした。
 土曜日が待ち遠しい。
 ただそれだけだ。
 いきなりあのように婚約宣言をするとは思わなかった。
 ただそれも、時間が経つに従って幸せな気分になれるかもしれない。
 香穂子はそう信じた。

 約束の日は、本当にバタバタとしていた。
 吉羅と初めてのデートなのだから、本当に隅々まにまでお洒落をしなければ気がすまない。
 少しでも吉羅には綺麗だと思って貰いたかったからだ。
 余り華美にしても駄目だし、かといって地味過ぎるのは頂けない。
 香穂子は悩み抜きながら、良いものを作る機会を作りたかった。

 ようやく準備を終えて、香穂子は吉羅からの連絡を待つ。
 精一杯綺麗にしてから、香穂子は一階に下りていく。
 吉羅からの電話が待ち遠しい。
 香穂子が携帯電話を握り締めていると、電話が鳴り響いた。
「は、はいっ! 香穂子ですっ!」
「君の家の前だ。出てきてくれたまえ」
「はいっ!」
 香穂子は弾んだ声で返事をすると、直ぐに玄関先へと出た。
 直ぐ見える位置に吉羅の車が停まっているのが見える。
 そこに駆け寄ると、吉羅が車から降りて、ドアを開けてくれた。
「どうぞ」
「有り難うございます」
 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅は相変わらずクールな表情のままだ。
 笑ってもくれない。
 それが少しだけ寂しかった。
 吉羅に笑顔を求めることは、許されないことなのだろうか。
 そう思うと事実がチクチクと棘のように香穂子を刺してきたような気がした。
「美味しいイタリアンが食べられる店があってね。そこに行こうか」
「はいっ! 有り難うございます」
 イタリアンに連れていってくれるのは嬉しい。
 だがこれならいつもの食事の誘いとは全く同じような気がしてしまう。
 香穂子は、なんてわがままなんだろうと、自分を叱り付けた。



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