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後悔なんてしない。 香穂子はそう思いながら、腕の中で眠る息子を見つめた。 夫と別居して1年半。息子も間も無く一歳になる。 勿論、夫の子供だ。 連絡すべきだとは思ったが、離婚を言い渡されて夫の元を去った以上、香穂子には出来なかった。 息子を励みに、今まで頑張ってきた。 そろそろけじめをつけなければならない。 だからきちんと離婚をして貰わなければならない。 そうすれば、子供を日向で育てることが出来る。 夫は大企業グループに成長した吉羅グループの総帥。 所詮は香穂子とは住む世界が違う人だった。 セレブリティでしかも容姿端麗であるが故に、美しい女性に引く手あまたで、結婚前はかなりの女性がいた。 一夏の激しい恋に落ち結婚をしたが、結局はスピード婚であったからか、二年後に別居となった。 そして別居してから1年半だ。 吉羅から離婚を申し渡されて、香穂子は家を出た。 それからずっと別居状態だ。 月々、慰謝料なのか生活費なのかは分からないが、充分に暮らすことが出来る金額が銀行口座に振り込まれているが、香穂子はそれには一切手を付けずに暮らしていた。 香穂子は、吉羅に離婚届けを書いて郵送することにした。 恐らくは署名捺印をして、送り返してくれるだろう。 それで充分だ。離婚届と一緒に、通帳も書留で送っておいた。 これで何もかもスッキリだ。 息子が吉羅の子供である事実は残るが、それだけだ。 香穂子はいつものように息子の世話をした後、元気よく仕事に行くことにした。 得意のヴァイオリンを活かした仕事だ。 小さな音楽出版会社に就職することが出来て、内心ホッとしていた。 実家に息子を預けて、香穂子は会社へと向かう。 新しい時間が始まっている。 もう吉羅暁彦のことなどは、考えなくて良いのだ。 なのに胸がチクチクと痛い。 それは吉羅暁彦をまだ求めているという証だった。 ひどい仕打ちをされたのだから、もう思い出さなくても良いし、もう関わらなくても良い。 なのにどうしてこんなにも切ないのだろうかと、思った。 とはいえ、香穂子はまだ“吉羅香穂子”なのだ。 旧姓ではない。 離婚すれば、旧姓に戻ろうと思っていた。 話し合うことももう何もないから、このまま吉羅暁彦と逢うこともないだろう。 夢のような時間だった。 ほんのわずかな間だが。 恋に恋をしているような少女だった香穂子が、大人の男性である吉羅暁彦と恋に落ちて、猛スピードで 恋の時間を駆け抜けたのだ。 それももうとても遠い過去の話だ。 香穂子は仕事で出先を回った後、ふと懐かしい通りに出た。 デートをしていた頃、吉羅と一緒によく歩いた道だ。 懐かしい。 そして少し切ない場所だ。 離婚届も通帳も出し終えて気分がスッキリとしたからだろうか。 香穂子はふとノスタルジックな気分になりながら、吉羅とかつてよく待ち合わせていたカフェに、ふらりと入った。 ここのランチもケーキも大好きだった。 特に、吉羅を待っている間によく食べていたケーキが絶品だった。 そんなことを思い出しながら、香穂子はランチを注文して、ぼんやりと外を眺めていた。 「おや…。こんな場所で珍しいひとに逢うとは思わなかった」 聞き慣れたよく通る低い声に、香穂子は背筋を凍らせながら顔を上げる。 直ぐに誰かが解った。 吉羅暁彦だ。 香穂子は顔を引きつらせながら、吉羅を見上げる。 現れた吉羅は、相変わらず隙がないぐらいに素晴らしい。 本当に素敵過ぎてうっとしとしてしまう。 一瞬、恋していた頃に戻ってしまい、香穂子は慌ててその想いを引っ込めた。 「…吉羅さん…」 「変な呼び方だね。君もまだ“吉羅さん”の筈だが…?」 吉羅は皮肉げに眉を上げて香穂子を見つめている。 胸が痛い。 だが、ここは耐えなければならないのだ。 吉羅の尊大なまなざしの前では負けてしまうような気がしたから、香穂子はなるべくまなざしを合わせないようにした。 「離婚届と通帳はお返し致しました。もう私には必要ないものですから。離婚届はそちらで出されて下さい。ひょっとして、もう出されているのかもしれないですけれど…」 動揺する余りに声が震えてしまう。 「確かに離婚届と通帳は受け取った。だが、預かるという形を取らせて貰う。私たちは色々と話し合わなければならないことが沢山あると思うがね」 吉羅はゾクリとするほどに冷たいまなざしを向けてくる。 香穂子はそのまなざしに負けてはならないと、自分に言い聞かせるしかなかった。 大丈夫だ。 きっと大丈夫。 そればかりを自分に言い聞かせる。 香穂子は何度も深呼吸をするしかなかった。 「…話し合わなければならないことは、何もないと思います…。特にあなたとは…」 「そうかな…?」 「私と別れたいと言ったのは、あなたですから」 香穂子は俯いたまま、震える声で言う。吉羅をまともに見ることは出来なかった。 「私が真剣に離婚は望んでいないと言ったら…?」 吉羅の思いがけない言葉に、香穂子は目を見開いた。 吉羅はずっと探るように香穂子を見ている。 そのまなざしの深さが解らない。 ただの気紛れなのだろうか。 「…もう、終わったことです…。だから、離婚届を出して頂けませんか?」 香穂子は、冷静に言えると思っていたのに、上手く言えなかった。 声が震える。 それだけ吉羅と離婚をするのが辛いのだろうか。 結婚生活なんて、とうの昔に破綻しているというのに。 「私たちはきちんとそのことについて話し合わなければならない。解っているとは思うがね。君も…」 「今さら話し合うことはありません…。話し合いならば、私が出て行った直後にチャンスはあったはずですし…」 香穂子は胸の痛みを堪えながら、何とか呟いた。 「…私は…このままでは終わりたくないのだよ…」 吉羅は一瞬、苦悩に満ちた表情をする。 香穂子にはそれが辛かった。 香穂子が黙っていると、注文したランチが運ばれてきた。 「お待たせしました…。お連れ様ですか…?」 「ちが…」 香穂子が否定をしようとして、吉羅に先回りをするように肯定されてしまう。 「そうだ。私にも同じものを頼む」 「かしこまりました」 店員はそのまま行ってしまい、香穂子は臍を噛んだ。 言い争う前に、追い返してしまえば良かったと。 吉羅は香穂子の前の席に腰を下ろすと、じっと見つめて来る。 「吉羅さん…、もう話し合うことなんて何もないと思います。慰謝料なんていりませんから」 「生活支援金を送り返してきたぐらいだからね、君は…」 「はい。必要ないですから」 香穂子はキッパリと冷たく言い放つ。 本当にそんな気分だった。 「本当に綺麗に残っていたからね…。それは驚いたよ…」 吉羅はしみじみと言うと、香穂子をじっと見つめた。 香穂子は視線を避けるように、食事を続ける。 黙って食べて早くここから立ち去ろう。 香穂子はひたすら無言で食べ続けた。 「香穂子、きちんとした話し合いをしなければ、私は離婚に応じることは出来ない。だから話し合いの場所にきてくれたまえ」 吉羅は痛いところを突いてきた。 昔から狡い男だ。 香穂子をこうして追い詰めてくるのだから。 「…解りました…」 この条件を呑むしかない。 「香穂子、詳しい日程が決まったら、連絡をする。携帯電話の番号とメールアドレスを教えて欲しい」 本当は教えたくはない。 だが、これで済むのならそれでも良い。 香穂子は吉羅にメールアドレスと携帯電話の番号を書いたメモを渡した。 |