*One More Chance*

2


 我ながら迷ってしまった。
 本当は携帯電話の番号なんて、教えないほうが良いことぐらい解ってはいる。
 特に相手が吉羅暁彦なのだから当然だ。
 吉羅に知られたら、子供を取り上げられるリスクがあることぐらいは、誰よりも解っていた。
 だが、教えなければならないと本能で思った。
 こうしなければ綺麗サッパリ吉羅と別れることが出来ないだろうから。
 香穂子はこの選択は正しかったと、自分で思い込むしかなかった。
 食事をし終わり、香穂子は慌てて席から立ち上がる。
 自分でも新記録だと思ってしまうぐらいに、かなり早く食べることが出来たから。
「香穂子、また連絡をする」
「はい解りました、吉羅さん」
「君もまだ、“吉羅さん”だと思うがね」
 吉羅に言われてハッとする。
 そうなのだ。
 離婚が成立していない以上、香穂子も戸籍上は、吉羅香穂子なのだ。
 それは事実として残る。
「ではまた」
 香穂子は自分の分だけレジで払うと、カフェから飛び出した。
 こんなことは今までなかった。
 それだけ吉羅暁彦の威力は凄まじいということなのだ。
 香穂子のかつての夫。
 いや、かつて、という言葉では片付かないのかもしれない。
 香穂子はカフェを出て早々に仕事に戻る。
 動揺が隠せなかった。

 吉羅は香穂子が行ってしまった後、軽く溜め息を吐いた。
 ようやくいる場所を突き止めた。
 香穂子が出て行ってから、一切連絡がなかったのだから。
 結婚して1年半ほど子供が出来なかった。
 吉羅家にとって跡継ぎ問題というのは、かなり重要だ。
 そのためにうるさい外野から、香穂子はよく言われていたのだ。
「子供は出来ないのか?」と。
 香穂子がおかしいかもしれないと言われて、それを払拭するために不妊検査を受けた。
 結果、妊娠し難い躰だと言われて、「離婚」を親戚が申し渡したのだ。
 しかも、吉羅からだと言わんとばかりに。
 香穂子はそれに素直に従い、結局は、出て行ったのだ。
 後から検査がミスしていたということが解ったが、それは後の祭りだった。
 香穂子が何処に行ってしまったかは分からなかったし、両親も居所を教えてはくれなかった。
 あれからもう1年半。
 吉羅も限界にきていた。
 きちんと、ふたりで話し合わなければならない。
 そんな矢先に、香穂子の居所を突き止めたのだ。
 香穂子が書留で、離婚届と通帳を送ってきてくれたことで、ようやく判明したのだ。
 そしてわざと孫会社に仕事に来るように仕向けたのだ。
 香穂子は、結婚して一緒に暮らしていた時よりもかなり美しくなっていた。
 見違えるほどだ。
 吉羅はその姿にしばし見惚れてしまう。
 親戚がこれぞとばかりに香穂子に離婚を申し出て、世sら自信も、「不妊」の事実を隠されていたこともあり、怒ってしまったが、その後、でうしてフォローしてやれなかったのかと猛烈に後悔をした。
 香穂子に連絡を取ろうとしたが、携帯電話は繋がらない上に、実家からは拒否されてしまった。
 解っている。
 吉羅もまた、香穂子に厳しいことを言ったのだから。
 吉羅は、後悔してもしきれないと思い、弁護士を通じて何度か連絡を取ったが、それも徒労に終わった。
 吉羅は、香穂子を取り戻すのをあきらめて、また元の生活を送るようになっていた。
 きちんと離婚しなければならないだろうと思いながらも、今一つ踏切ることが出来なかったのは、やはりまだ愛情が残っているのだろう。
 香穂子が、音楽出版会社で働いているらしいという情報を得た矢先、手がつけられていなかった生活支 援金が入った通帳と、離婚届が送りつけられた。
 慎重をきして、印鑑は吉羅の弁護士に香穂子の姉が届けていた。
 吉羅は早く決着をつけなければならないと、心から思い、香穂子を捕まえたのだ。
 離婚を前提にと思ってはいたが、それが出来ない自分がいることを吉羅は気付いてしまった。
 香穂子に逢うと、吉羅の決心が揺らいでしまう。
 だが。
 どうなるにしろ、そこは決着をつけなければならないと、吉羅は思っていた。

 実家に子供を迎えにいき、香穂子は近くのアパートに戻る。
 親には散々迷惑をかけていたから、これ以上は迷惑をかけたくはなくて独立をしたのだ。
 とはいえ、借りたアパートは自宅近くなのだが。
 子供をバギーカーに乗せて家に帰る。
 絶望的になるぐらいに息子は吉羅に似ている。
 吉羅としか血が繋がっていないのではないかと思うほどだ。
 皮肉なものだ。
 別れる原因になった子供が出来難い事実を嘲笑うかのように、別れて直ぐに妊娠が発覚したのだから。
 全くもって青天の霹靂だ。
 本当に人生は皮肉に満ちていると、香穂子は思った。
 家に戻り息子をお風呂に入れ、自分も手早くお風呂に入る。
 毎日パタパタとしてはいるが、充実している。
 これも子供のお陰だと、香穂子は思った。
 息子の寝顔を見つめながら、香穂子はうっとりとした幸せに浸る。
 本当にこの瞬間があるからこそ、頑張れるのだと思った。
 不意に携帯電話がメールの着信を知らせる。
 メールを恐る恐る開くと、送り主は吉羅だった。
 日曜日の朝10時に、みなとみらいのインターコンチネンタルホテルのティーサロンにて待つ。吉羅

 香穂子の都合などを聞かずに、吉羅は横暴にも時間を指定して来る。
 吉羅がかなり忙しい身の上であることは解ってはいるが、それでもこれはかなりきつい。
 香穂子は仕方がなく行くことにした。
 本当にこれが最後だ。
 これで離婚が成立するのだから。
 そうすれば、総てのことにおいて自由になれる。
 息子を自由に育てていける。
 もうこそこそとする必要などないのだ。
 香穂子にとっては、それが何よりも幸せだった。
 そう思い込もうとしていただけなのかもしれない。

 運命の日曜日だ。
 香穂子は、幾分かマシに見えるだろうワンピースを着て、いつもよりもきちんと化粧をする。
 戦いに行く。
 まさにその言葉が、ピッタリと当てはまると香穂子は思った。
 離婚を成立するには、子供のことをきちんと話さなければならない。
 子供の親権が関わってくるのだから。
 子供の書類等は、役所に頼んで香穂子の実家に届けて貰っている。
 だから戸籍をきちんと見ない限りは、吉羅は子供がいることは知らない。
 だが、それは余りにもフェアではないと思い、香穂子は思い切って話すことにした。
 そのためにも子供をホテルに連れていくことに決めた。
 それ以外にはない。
 養育費なんていらない。
 吉羅の子供であって、子供ではないのだから。
 そのあたりもきちんと話をして、離婚して貰わなければならないと、香穂子は思った。
 緊張してしまう。
 吉羅に息子のことを知られることが。
 吉羅家の跡継ぎにすると言われてしまうだろうか。
 それとも、きれいさっぱり別れてくれるだろうか。
 子供と別れることだけは、どうしても出来ない。
 香穂子にとっては、そこだけは譲れないラインでもあった。

 香穂子と正式に離婚の話をする。
 別れてしまえばせいせいするだろう。
 そんなことは解っていると腹では考えていながらも、本当はそうでないことぐらいは解っている。
 吉羅は本音を解ってはいながらも、プライドがどうしてもそれを認めさせてはくれなかった。
 香穂子と別れたくはない。
 香穂子以上の女性はいない。
 そんなことは本当は解りきっているのかもしれない。
 だからこそ、逢って話し合いたいと思っているのだろう。
 吉羅は愛車フェラーリでホテルへと向かう。
 少し早く着いたのでロビーで待つ。
 遠くからバギーカーを引いてやってくる女性がいる。
 目を凝らして見ると、それは香穂子だった。



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