*One More Chance*

3


 吉羅がこちらを厳しいまなざしで見つめている。
 当然だ。
 香穂子が子供を連れているのだから。
 緊張が全身に走り抜ける。
 香穂子は勇気を振り絞って笑顔を見せた。
 頭を礼儀正しく下げて、吉羅に近寄っていく。
 吉羅はすっかり固まってしまっていたが、香穂子はしょうがないと思った。
 いきなり香穂子がバギーカーに子供を乗せているものだから驚いたのだろう。
 無理もない。
「お待たせ致しました。吉羅さん」
「…君は…ベビーシッターにでもなったのかね…」
 吉羅は明らかに顔を引きつらせている。
 その表情を見ながら、香穂子は半ばしょうがないと思った。
 吉羅が驚くのはしごくまともなことだからだ。
「…ベビーシッターではありません…。私の赤ちゃんです…。正確に言うと、私たちの…ですが」
 吉羅は眉根を顰めて訝かるように香穂子を見つめた。最初から想定出来た反応だったが、やはり傷付いてしまう。
「この子は幾つかね?」
「もうすぐ一歳です。あなたと離婚前提で別居をしてから、七か月後に生まれました」

 香穂子は努めて冷静に言うと、吉羅を見つめた。
「妊娠はいつ解った?」
「出て行った翌日に気分が悪くなって、二週間経っても気分の悪さが治まらなかったので病院に行ったら、妊娠していると言われました」
 香穂子は震える声で言う。
 吉羅はと言えば、全く息子を見ようとはしなかった。
「…名前は…」
「暁史と言います」
「私の名前を一字取ってくれたのだね」
 吉羅は低くて僅かに優しい言葉で呟く。
「…そうです。せめて名前だけでも父親のものを遺しておきたかったから…」
 父親がいない子ではあるが、本当はちゃんといるのだということを、息子には教えてあげたかった。
 吉羅はようやく息子に視線を向ける。
 香穂子は緊張するのを感じた。
 吉羅の子供であることは明らかな子供だ。
 本当によく似ているのだ。

 香穂子と自分の子供がバギーカーに乗っている。
 俄かに信じられないことだが、吉羅は取り敢えず、その顔を確かめることにした。
 緊張しながら吉羅はバギーカーの中にいる子供に視線を合わせる。
 少しだけ怖かった。
 香穂子を信じていないわけではないが、子供が出来難いと言われていた以上は、信じろというのがどうかしていると思った。
 バギーカーの中にいる子供を恐る恐る見る。
 子供を視界に入れた瞬間、吉羅は言葉では表現出来ないような感動を覚えた。
 バギーカーの中にいる子供は、本当に自分によく似ていた。
 赤ん坊時代の自分の写真にそっくりだと、吉羅は思った。
 もっとじっくりと息子が見たい。
 正真正銘の我が子だ。
 検査をしなくても解る。
「暁史…」
 吉羅が息子の名前を呼ぶと、輝く光のような微笑みを向けてくる。
 これ以上の笑顔は他にないのではないかと、吉羅は思わずにはいられない。
 こんなにも感動したことは他になかった。
「…暁史…」
 吉羅はぎこちなく手を伸ばして息子を抱き上げる。
 なんて柔らかくて愛しい存在なのだろうかと思った。

 あまりひとに懐かない暁史が、吉羅には満面の笑みを向けている。
 香穂子は半ば泣きそうになった。
 やはり離れていたとしても親子なのだろう。
 直ぐに打ち解けるところを見ると、やはり絆は深いのだろう。
 少し切なくて、少し嬉しかった。
 だが、思いがけずに息子が吉羅に慣れてしまうことは、かなり危険なのではないだろうかと、香穂子は思う。
 吉羅に余りに慣れてしまったら、吉羅が誰よりも息子を愛してしまったら、取り上げられてしまうだろうか。
 それがかなり苦しい。
 もしそうなってしまったとしたら?
 どうしたら良いのだろうか。
「…この子は素晴らしい子供だ…」
 吉羅は誇らしげに呟いた。
「有り難うございます」
「我が子を褒めているんだ。礼なんて言わなくて良い」
「吉羅さん…」
「話し合うことが増えてしまったね。ここでは冷静に話は出来ないだろう。…うちに来るんだ。戻るといったほうが良いかな」
 皮肉げに吉羅が見つめてくる。
 危険だ。
 あの家に戻るのは。
 香穂子にとっては危険極まりないことだ。
 香穂子は吉羅と対峙するように真っ直ぐ見つめた。
「ここではいけませんか?」
「構わないが、君が感情的になると困ると思ってね」
「そんなことは…ないはずです…!」
 香穂子は握り拳を作りながら、声を震わせて呟いた。
「…吉羅さん…」
「だったらここで話を先ずしよう。長くなるようだったら、うちに移るんだ。以前と同じだ。君のヴァイオリンを弾くための部屋もそのままだよ」
 吉羅の言葉を聴いていると、香穂子の理性はぐらぐらに揺れる。
 吉羅と暮らしていた場所はそのままだというのだ。
 センチメンタルな気分になりながら、香穂子は何とか感情的にならないように踏ん張った。
「ではあちらで食事をしながら話そうか。長くなるようだったら、うちに行こう」
「はい…」
 香穂子は出来るのならば、ここで話は完結させたいと思う。
 吉羅の家に戻ることがいかに危険かは、自分自身が一番解っていた。
 ホテルのレストランに入り、香穂子たちは静かな海が見えるテーブルに通される。
 緊張しながら、香穂子はそこに腰を掛けた。
「この子は間違いなく私の子供だ。それは認める」
「信じて下さって有り難うございます」
 香穂子は神妙な表情で答える。
「この子は何処から見ても私と君の子供だ。本当に私の赤ん坊の頃によく似ている…」
「そうですね。日に日に大きくなっています」
「そして、日に日に私に似て来ている…。違うかね?」
その通りだから、香穂子は認めるしかなかった。本当に吉羅に似て来ているのだから。
「そうですね…」
「香穂子、君はどうして妊娠していることを私には伝えなかった」
 吉羅は必死に感情を抑えているようだったが、その声の端々には非難しているとも取れる感情が滲んでいた。
 香穂子は責められているのを感じながら、素直に事実を述べる。
「あなたに連絡をしましたが、携帯は繋がらない、会社に連絡したら、あなたの秘書に門前払いをされました。だからもう連絡する必要はないと思ってしなかったんです。十回も門前払いをされたら、誰だって諦めるでしょ」
 香穂子は事実のみを伝える。
 本当のことなのだからしょうがない。
 吉羅は苦虫を噛み締めるような表情で香穂子を見た。
「手紙を書くことは出来ただろうし、弁護士に話をすることも出来ただろう」
「手紙は書きました。弁護士さんにも話をさせて欲しいとお話はしました。だけど…駄目でした。プライベートなことだったし、とても重要なことだったので、…私はあなたに直接伝えたかったんですが…。だから用件はお伝えしませんでした」
 香穂子は淡々と話しながら、あの頃のことを思い出して、胸が張り裂けてしまうぐらいの切なさを感じていた。
 もう思い出したくはない過去だ。
 今は前向きでいたかった。
「…だからもうお伝えすることは出来ないと思ったんです。それだけです」
 香穂子はなるべくさらりとした口調で言うように努める。
「…だからお伝えしないままでこの子を産みました。出生届は母に出して貰いました。あなたが知らない間に、子供が戸籍に入っていることは謝ります。ですがもうすぐそれもなくなります。離婚するのに親権だけ頂ければそれで良いです。後は何もいりません」
 香穂子がピシリと言うと、吉羅の表情は更に厳しくなった。



Back Top Next