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吉羅がこちらを厳しいまなざしで見つめている。 当然だ。 香穂子が子供を連れているのだから。 緊張が全身に走り抜ける。 香穂子は勇気を振り絞って笑顔を見せた。 頭を礼儀正しく下げて、吉羅に近寄っていく。 吉羅はすっかり固まってしまっていたが、香穂子はしょうがないと思った。 いきなり香穂子がバギーカーに子供を乗せているものだから驚いたのだろう。 無理もない。 「お待たせ致しました。吉羅さん」 「…君は…ベビーシッターにでもなったのかね…」 吉羅は明らかに顔を引きつらせている。 その表情を見ながら、香穂子は半ばしょうがないと思った。 吉羅が驚くのはしごくまともなことだからだ。 「…ベビーシッターではありません…。私の赤ちゃんです…。正確に言うと、私たちの…ですが」 吉羅は眉根を顰めて訝かるように香穂子を見つめた。最初から想定出来た反応だったが、やはり傷付いてしまう。 「この子は幾つかね?」 「もうすぐ一歳です。あなたと離婚前提で別居をしてから、七か月後に生まれました」 香穂子は努めて冷静に言うと、吉羅を見つめた。 「妊娠はいつ解った?」 「出て行った翌日に気分が悪くなって、二週間経っても気分の悪さが治まらなかったので病院に行ったら、妊娠していると言われました」 香穂子は震える声で言う。 吉羅はと言えば、全く息子を見ようとはしなかった。 「…名前は…」 「暁史と言います」 「私の名前を一字取ってくれたのだね」 吉羅は低くて僅かに優しい言葉で呟く。 「…そうです。せめて名前だけでも父親のものを遺しておきたかったから…」 父親がいない子ではあるが、本当はちゃんといるのだということを、息子には教えてあげたかった。 吉羅はようやく息子に視線を向ける。 香穂子は緊張するのを感じた。 吉羅の子供であることは明らかな子供だ。 本当によく似ているのだ。 香穂子と自分の子供がバギーカーに乗っている。 俄かに信じられないことだが、吉羅は取り敢えず、その顔を確かめることにした。 緊張しながら吉羅はバギーカーの中にいる子供に視線を合わせる。 少しだけ怖かった。 香穂子を信じていないわけではないが、子供が出来難いと言われていた以上は、信じろというのがどうかしていると思った。 バギーカーの中にいる子供を恐る恐る見る。 子供を視界に入れた瞬間、吉羅は言葉では表現出来ないような感動を覚えた。 バギーカーの中にいる子供は、本当に自分によく似ていた。 赤ん坊時代の自分の写真にそっくりだと、吉羅は思った。 もっとじっくりと息子が見たい。 正真正銘の我が子だ。 検査をしなくても解る。 「暁史…」 吉羅が息子の名前を呼ぶと、輝く光のような微笑みを向けてくる。 これ以上の笑顔は他にないのではないかと、吉羅は思わずにはいられない。 こんなにも感動したことは他になかった。 「…暁史…」 吉羅はぎこちなく手を伸ばして息子を抱き上げる。 なんて柔らかくて愛しい存在なのだろうかと思った。 あまりひとに懐かない暁史が、吉羅には満面の笑みを向けている。 香穂子は半ば泣きそうになった。 やはり離れていたとしても親子なのだろう。 直ぐに打ち解けるところを見ると、やはり絆は深いのだろう。 少し切なくて、少し嬉しかった。 だが、思いがけずに息子が吉羅に慣れてしまうことは、かなり危険なのではないだろうかと、香穂子は思う。 吉羅に余りに慣れてしまったら、吉羅が誰よりも息子を愛してしまったら、取り上げられてしまうだろうか。 それがかなり苦しい。 もしそうなってしまったとしたら? どうしたら良いのだろうか。 「…この子は素晴らしい子供だ…」 吉羅は誇らしげに呟いた。 「有り難うございます」 「我が子を褒めているんだ。礼なんて言わなくて良い」 「吉羅さん…」 「話し合うことが増えてしまったね。ここでは冷静に話は出来ないだろう。…うちに来るんだ。戻るといったほうが良いかな」 皮肉げに吉羅が見つめてくる。 危険だ。 あの家に戻るのは。 香穂子にとっては危険極まりないことだ。 香穂子は吉羅と対峙するように真っ直ぐ見つめた。 「ここではいけませんか?」 「構わないが、君が感情的になると困ると思ってね」 「そんなことは…ないはずです…!」 香穂子は握り拳を作りながら、声を震わせて呟いた。 「…吉羅さん…」 「だったらここで話を先ずしよう。長くなるようだったら、うちに移るんだ。以前と同じだ。君のヴァイオリンを弾くための部屋もそのままだよ」 吉羅の言葉を聴いていると、香穂子の理性はぐらぐらに揺れる。 吉羅と暮らしていた場所はそのままだというのだ。 センチメンタルな気分になりながら、香穂子は何とか感情的にならないように踏ん張った。 「ではあちらで食事をしながら話そうか。長くなるようだったら、うちに行こう」 「はい…」 香穂子は出来るのならば、ここで話は完結させたいと思う。 吉羅の家に戻ることがいかに危険かは、自分自身が一番解っていた。 ホテルのレストランに入り、香穂子たちは静かな海が見えるテーブルに通される。 緊張しながら、香穂子はそこに腰を掛けた。 「この子は間違いなく私の子供だ。それは認める」 「信じて下さって有り難うございます」 香穂子は神妙な表情で答える。 「この子は何処から見ても私と君の子供だ。本当に私の赤ん坊の頃によく似ている…」 「そうですね。日に日に大きくなっています」 「そして、日に日に私に似て来ている…。違うかね?」 その通りだから、香穂子は認めるしかなかった。本当に吉羅に似て来ているのだから。 「そうですね…」 「香穂子、君はどうして妊娠していることを私には伝えなかった」 吉羅は必死に感情を抑えているようだったが、その声の端々には非難しているとも取れる感情が滲んでいた。 香穂子は責められているのを感じながら、素直に事実を述べる。 「あなたに連絡をしましたが、携帯は繋がらない、会社に連絡したら、あなたの秘書に門前払いをされました。だからもう連絡する必要はないと思ってしなかったんです。十回も門前払いをされたら、誰だって諦めるでしょ」 香穂子は事実のみを伝える。 本当のことなのだからしょうがない。 吉羅は苦虫を噛み締めるような表情で香穂子を見た。 「手紙を書くことは出来ただろうし、弁護士に話をすることも出来ただろう」 「手紙は書きました。弁護士さんにも話をさせて欲しいとお話はしました。だけど…駄目でした。プライベートなことだったし、とても重要なことだったので、…私はあなたに直接伝えたかったんですが…。だから用件はお伝えしませんでした」 香穂子は淡々と話しながら、あの頃のことを思い出して、胸が張り裂けてしまうぐらいの切なさを感じていた。 もう思い出したくはない過去だ。 今は前向きでいたかった。 「…だからもうお伝えすることは出来ないと思ったんです。それだけです」 香穂子はなるべくさらりとした口調で言うように努める。 「…だからお伝えしないままでこの子を産みました。出生届は母に出して貰いました。あなたが知らない間に、子供が戸籍に入っていることは謝ります。ですがもうすぐそれもなくなります。離婚するのに親権だけ頂ければそれで良いです。後は何もいりません」 香穂子がピシリと言うと、吉羅の表情は更に厳しくなった。 |