4
吉羅は、息子を得られた喜びに、冷水を浴びせかけられたような気分になった。 香穂子が望んでいたとしても、吉羅は絶対に認めるわけにはいかないと思った。 吉羅は、香穂子をじっと見つめる。 「子どもが産まれた以上、私たちはまた“夫婦”としてやっていかなければならない。私は自分の子供を片親にしたくはないからね。私は離婚は受け入れない」 吉羅はキッパリと言い放った。 「片親だけで育てるなんて考えられない。香穂子、私は親権を諦める気は無いからね」 吉羅は香穂子に挑戦するように言う。 どうしても、妻である香穂子も息子も、吉羅は放す気などは全くなかった。 それどころか、ふたりを未来永劫離したくはない。 「親権は私にも権利がある」 吉羅は香穂子を挑発するように言うと、じっと見つめた。 香穂子は追い詰められたような表情をしている。吉羅は内心胸が痛んだ。 「…吉羅さん、私…この子の幸せの為には離婚したほうが良いと思います。それにあなたも自由になれます。…まあ、あなたは既に“自由”なのかもしれないですが…」 「確かに君がいない間は、聖人のような生活をしていたわけじゃない。それは認める。だが、これと親権は無関係ではないのかね?」 吉羅は、苦々しい想いで香穂子を見る。 すると左手薬指にはまだ結婚指環が光っていた。 離婚前提で別居をしても、香穂子はまた指環を身に着けてくれている。 一縷の光が見えたような気がした。 香穂子は八方塞がりで俯く。 息子を連れて来なければ良かったのかもしれない。 吉羅と親権を争えば不利だ。 通常の状況ならば香穂子に親権が行くだろうが、今の状況では、恐らくは吉羅が勝つだろう。 あちらは弁護士が着いて強力に押してくるだろうから。 追い詰められる。 ただ子供のためだけに再び一緒に暮らしたとしても、少しも楽しくは無い。 むしろ、狂うように苦しい日々が待ち構えているだけだ。 吉羅と愛し合っているなどという幻想は、既に打ち砕かれているのだから。 「君には選択肢はない筈だ。君と子供は再び私と暮らして貰いたい。この子は正真正銘吉羅家の跡取りだからね」 解っている。そんなことぐらい。 香穂子は、自分は子供を産む役割だけの機械に思えてならなくなる。 吉羅にとっては、それぐらいにしか思ってはいないのだろう。 愛する女ではなく、跡継ぎを産んだ女とぐらいにしか。 ふと吉羅の左手薬指にはめられた指環が光った。 吉羅がまだ結婚指環を身に着けてくれている。 これは体裁のためだろうか。 それとも…。 恐らくは体裁の為だろう。 妻と別居をしていて、その所在も解らないなんてことは、知られてはならないことだろうから。 香穂子にとっての結婚指環は、大切なものだった。 未だに吉羅と結婚しているという事実にしがみつきたかったから。 離婚を言い渡されたとはいえ、吉羅とはずっと繋がっていたかった。 その象徴が息子であり、指環だった。 「君がその気なら、私は裁判でいくらでも容赦無く闘う用意があるよ。解っているね」 「脅していらっしゃるんですか?」 香穂子は怯んでいることを知られたくはなくて、吉羅をじっと見つめた。 「脅してなんかはいない。ただ、君が私の元に戻ってくれば良いと思っているだけだ」 吉羅は一切引かないとばかりに言う。 「…あなたのところに戻るのはとても難しいです。一度壊れた鏡が元に戻せないのと同じです…。あなたは 既に私と離婚をしようとされているんですから、今さら元に戻そうとしても、それは上手くいかないかと思います」 香穂子は声を震わせながら呟いた。 本当に上手くいくとは思えなかった。 「だったら、君は親権を失うことになるだろう。それで構わないんだね?」 吉羅は絶望的な一言を投げ付けてくる。 息子を失う。 そんなことは香穂子には堪えられないことだ。 吉羅の心を失い、今まで息子だけを心の拠り所として生きてきたのだから。 絶望的な気分だ。 辛くて苦しくて涙が込み上げて来た。 「…誰も暁史と私を引き離すことは出来ないわ…!」 「だったら…君は私のところに戻ってくるんだ。それが得策だと、私は思うけれどね」 「吉羅さん…」 吉羅に追い詰められた。 完全に袋小路だ。 これ以上何処にも行けやしない。 行けるとすれば、吉羅の元に戻るだけだ。 よりを戻すしかない。 どう考えても、香穂子にはそれしか思い浮かばなかった。 吉羅もそれを充分に解っているのだろう。 子供と離れない為には、もう一度吉羅と一緒にいるしかないのだ。 「…解りました…。あなたのところに戻ります…」 香穂子は、吉羅の顔をまともに見ることが出来ないままで、震える声で呟いた。 もう腹を括るしかないのだ。 なのに苦し過ぎてどうして良いかが分からなかった。 香穂子を追い詰めている。 その自覚は吉羅にはある。 だが、吉羅はどうしても香穂子を離したくはなかった。 勿論、息子も…。 だからこそ、余り許されないことでもやらざるをえなかった。 吉羅は後味が悪いと思いながらも怯まずに頷いた。 息子が人質のようなことはしたくはなかったのだが。 「では決まりだ。直ぐに君達にはうちに移動してもらう」 「…はい…」 香穂子が恨めしそうにこちらを見ている。 だが、今はしょうがないと思った。 「君の荷物はまだうちに置いてある。子供の荷物を取りに行かなければならないね。子供のベッドは手配しておく」 吉羅は手早く携帯電話で指示を出して、手配をする。 その様子を眺めながら、香穂子はいよいよ腹を括って事実を受け入れなければならないと思った。 吉羅をじっと見つめていると、食事が運ばれてきた。 こんなことは予想出来た筈なのに、全くなんて迂闊だったのだろうかと、香穂子は自分自身を諫めるしかなかった。 美味しそうでとても豪華な食事。 だが香穂子は食べる気にはなれなかった。 こんなにも豪華な食事をするのは、吉羅と別居以来初めてではあるが、香穂子はそれが切なくて痛い。 「食べないのかね…?」 「…あ…。はい、頂きます…」 食事を取りながら、香穂子は少しも味がしなかった。 本当はかなり美味しいものだろうから、少しだけもったいないような気がした。 「きちんと食べて栄養をつけなさい。母親は体力がいるものだからね」 「有り難うございます…。だけど余り食欲が無くて…」 「そんなんだから痩せるんだ…。もっとしっかりと食べなさい」 吉羅はまるで親のように言うものだから、香穂子は苦笑いを浮かべた。 「…大丈夫ですよ。本当に…。ご心配有り難うございます…」 香穂子は小さな声で呟くと、浅く呼吸をした。 食事をしながら息子の世話をする。まだまだ離乳食の段階なので、お粥などを、レストランが用意してくれた。 「あきちゃん、美味しい?」 息子に声を掛けると、本当に嬉しそうにパタパタと手足を振るものだから、本当に癒された。 「ぐるぐるっ!」 「そうか、ヨーグルトを食べようか」 香穂子は息子にヨーグルトを食べさせながら、本当に幸せな気分になった。 「本当に君は良い母親なんだね」 吉羅がしみじみと言ったが、香穂子は幸せな気分になった。 「…有り難うございます。素直に嬉しいです。仕事があるので、母親らしいことはなかなかしてあげられないのは辛いですが、自分なりに精一杯頑張りたいと思っています」 「うちにいたらずっと母親業をこなすことが出来る。違うかね?」 吉羅の言葉に、香穂子は押し黙った。 |