*背伸びをしても*


 理事長だから。

 それだけで、ずっと気にかけてくれていたひと。

 その恩に報いなければならないと、一所懸命、ヴァイオリンをがんばってきた。

 今や日本で一番有名な、多数の音楽家を排出している音楽科を擁する、巨大学校法人の理事長。

 それと同時に、ヘッジファンドの役員やコンサルタントの肩書を持つひと。

 ずっとずっと大好きで、保護をされるのも心地が良いと思っていた。

 だからこそ大好きなひとのために、ヴァイオリンを頑張ろうと思っている。

 大好きなひとはヴァイオリンさえきちんとやり、学校にメリットがあれば、それだけで満足をする。

 私の恋心なんて、本当にどうでも良いとしか思えない。

 そんな対応しかない。

 こちらが、いくら好きでも、その想いは届かない。

 ただヴァイオリンを弾く道具としてしか、思ってはくれていない。

 それがひしひしと感じられて、私は切なくなった。

 私たちは、全く男と女の関係ではないし、私がそれを望んだとしても、あのひとがそれを望まないのは明らかだ。

 愛しているからこそ、ずっとそばにいて、頑張ってきた。

 いつのまにかヴァイオリンは、あのひとと一緒に居るための道具に過ぎなくなってきた。

 だから、あのひとの機嫌を取るように弾いてしまっている。

 これではいけないと。

 こんなことでは、ヴァイオリニストとしてはやってはいけない。

 私は吉羅暁彦から離れなければならないと、心から思った。

 

 香穂子は、現在、吉羅家で下宿をしている。

 ヴァイオリンを弾くことに集中するための環境作りのためだ。

 父親の赴任に伴い、一人暮らしの選択もあったのだが、吉羅が是非にと、実家で下宿をさせてくれている。

 吉羅自身は、自分のペントハウスを都内に持っているから、この場所では暮らしてはいないのだが、たまに顔を出してくれている。

 恐らくは、香穂子がヴァイオリンに集中しているかどうかを見るためだろう。

 本当に有り難いぐらいに最高の環境を作ってくれていることは感謝している。

 心から有り難うと思っている。

 パトロンとしては、本当に感謝をしている。

 だが、香穂子が欲しいのはそれ以上のものなのだ。

 それは、男女の愛。

 香穂子が望むものは、最もハードルが高いと云っても良い。

 相手が全く望んではいないのだからしょうがない。

 昨年の二十歳の誕生日に、吉羅に、キスが欲しいと決死の覚悟でねだった。

 吉羅は困ったような迷惑なような表情をして、額にキスをくれた。

 額にキス。

 唇ではなく。

 そして、迷惑そうな顔。

 あれで、吉羅がひとりの女性として見てくれていないことを知ったのだ。

 あれからは夢を見ないように頑張ってきた。

 だが、胸が壊れそうで、そろそろ限界だ。

 吉羅から離れなければならないと、香穂子は強く思っている。

 そして、このまま吉羅に依存をしていれば、自分がいつか駄目になるのではないかと思わずにはいられない。

 だからこそ、ひとりで頑張ってみようと思うようになった。

 ひとりで頑張らなければ、自分が駄目になってしまうような気がしたから。

 香穂子は、ヴァイオリンを弾いても大丈夫なマンションを探して、そこに入居する準備を始めた。

 引越しの手配もきちんとしてから、吉羅には伝えようと思っていた。

 そうするほうが良いような気がしたのだ。

 

 今日は、珍しく吉羅が実家に顔を出して、一緒に食事をしていくとのことだった。

 吉羅が実家で食事をするなんて、かなり珍しいことなのだ。

 吉羅は、いつも綺麗な女性と夜を過ごすことが多いので、実家に顔を出すことは少ない。

 しかも、顔を出すといっても、香穂子がきちんとやっているのかどうかを、監視するためだった。

 本当に珍しいと思ってしまう。

 最近は、吉羅と逢うことすらなかったというのに。

 香穂子は何かあるのではないかと、いぶかしんだ。

 吉羅暁彦は、かなり合理的な動きをする男だから、何かなければ、わざわざこうして食事には来ないだろう。

 ついでだ。

 吉羅家を出ていくことを、きちんと伝えなければならない。

 今までお世話になったことは、本当に深く感謝している。

 だから、その恩に報うためにも、更に頑張らなければならない。

 その覚悟で吉羅に言わなければならない。

 吉羅の保護下を離れることになるのだから。

 吉羅が期待するもの以上のものを出したいと、香穂子は強く願った。

 

 香穂子も手伝い夕食の準備を終えたところで、玄関先の呼鈴が鳴り響いた。

 香穂子は落ち着いて、吉羅を迎えにゆく。

 今までのように走って玄関先まで迎えに行くことはない。

「……こんばんは、いらっしゃいませ、吉羅理事長」

 香穂子は礼儀正しく挨拶をすると、吉羅の表情が厳しくなった。

「こんばんは、日野くん」

 吉羅は少し違和感のあるような口調で言うと、ダイニングルームへと向かう。

 いつもスマートで完璧なひと。

 香穂子にはそんなイメージしかない。

 吉羅の深い部分に触れたことがなかったからだろう。

 ダイニングテーブルに着くと、何だか堅苦しい雰囲気になる。

 いつも以上に緊張している。

 吉羅から離れることを宣言するからかもしれない。

 離れるといっても、完全に離れるわけではないのだが。

「暁彦、香穂子ちゃんは本当に良い子ね。うちの子にしてしまいたいぐらいよ」

 吉羅の母親はおおらかに話をしている。

 本当に気が合い、大好きなひとだ。

 香穂子は吉羅の母がこのような人物で良かったと、思っていた。

「……だったら、うちの子にしてしまえば良いですよ」

 吉羅はあくまでクールに呟く。

「無理よ、そんなこと。香穂子ちゃんには、ご両親がいるのよ」

 吉羅夫人はあっけらかんと返事をするが、吉羅は白けたように冷たかった。

「……日野くんと私が結婚すれば済むことですよ」

 何でもないことのようにさらりと言う吉羅に、香穂子は言葉をつなげられない。

 こんな爆弾発言をさらりとするなんて、どうかしている。

 香穂子はただ唖然と目を丸くするしかなかった。

「それは良いわよ!暁彦が目をかけているということは、憎からず思っているということだもの。香穂子ちゃん、うちの息子は掘り出し物だと思うわよ!とってもお買い得だから!」

 吉羅の母は、すっかりその気になってしまっているようだ。

「私も賛成だ、暁彦。香穂子ちゃんは本当に良い子だからな」

 吉羅の父親まで後押しをする。

 香穂子は、どうして良いかが解らない。

 この家を出ることにしたのに、どうしたら上手く伝えられるのだろうか。

 香穂子は深呼吸をすると、真っ直ぐ、吉羅家の人々を見つめる。

「あの!私、こちらを出ようと思っています」

 香穂子の言葉に、空気が凍りついた。



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