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「それはどういうことなの、香穂子ちゃん。出来たらずっと私たちのそばにいて欲しいと思っているのよ」 吉羅の母は、本当に切なそうな顔をする。 こんな顔を見せられると、香穂子は心苦しくなった。 だが、このまま甘えてもいられないことぐらいは、香穂子には解っている。 「このまま甘えてもいられないことぐらいは、私には解っています。理事長、私、お申し出はとても嬉しく思います。ありがとうございます。ですが、私は、私と結婚することで、理事長が、自由を失うのは心苦しいのです。本当に……」 香穂子は素直な気持ちを、正直に口にした。 本当は吉羅への恋心は総て隠していたのではあるが。 吉羅が、綺麗な女性と夜を過ごすことをまともにやり過ごせないことぐらいは、香穂子には分かっていた。 ならば、愛のない結婚なんてしなくても良い。 香穂子は強く感じていた。 「香穂子ちゃん、ひとりだちならばいつでも出来るわ。本当に……」 大好きな吉羅の母親に、こんな顔をさせたくはない。 だが、ひとりで立たなければ、これから大変なことになると、香穂子は感じていた。 このままでは、吉羅に依存し過ぎて、吉羅がいなければ生きてはいけなくなるのではないかと、香穂子は思わずにはいられなかった。 「……日野くん、返事は急がなくても構わないから。それに、結婚すれば、この家で彼女は暮らすわけではありませんから」 吉羅はかなり冷静に呟くと、食事を続けた。 本当に何事もなかったかのように振る舞う吉羅に、なんて冷静で事務的なのだろうかと思った。 きっと儀礼上、致し方がないとぐらいに思っていたのだろうと、香穂子は思った。 大好きなひとにこんな事務的なプロポーズをされるなんて、思ってもみなかったのだ。 しょうがない。 吉羅自身には愛がないのだから。 香穂子は胸がほんのりと苦しくなるのを感じる。 香穂子は息苦しくてしょうがなかった。 「……理事長も儀礼的にプロポーズされることはありませんよ。私は、ヴァイオリニストとしてベストを尽くすために、これからしっかりと頑張ることだけですから」 香穂子は笑顔で穏やかに呟くと、食事をすることにした。 「デートも何もしたことのない私に、プロポーズをすることはないですよ。プロポーズは、とっておきの方にとっておいてあげて下さいね」 香穂子は微笑むと、食欲なく食事をする。 食べる気がしない。 だが、食べなければ、優しいひとたちが心配してしまうから、香穂子は頑張った。 とっておきの美味しいケーキも、いつものように美味しいとは感じなかったが、それは仕方がないと思った。 優しく愛すべきひとたちを、香穂子はじっと見つめる。 このひとたちのおかげで、ここにいられる。 今がある。 たが、甘えるわけにはいかない。 もう決めたのだ。 香穂子は、背筋を伸ばして胸を張って生きていかなければならないと深く感じていた。 食事の途中で、吉羅の母がしょうがないとばかりに諦めるような溜め息を吐いた。 「……しょうがないわね。香穂子ちゃんがひとりで頑張りたいという、尊くて強い意志を見せてくれたんですからね。私たちはそれを応援してあげなければならないわね」 「ありがとうございます」 香穂子は深々と頭を下げて、認めてくれたことを深く感謝した。 本当に頑張らなければならないと思う。 香穂子は前を向いて、しっかりと頑張っていかなければならないと深く感じていた。 夕食が終わり、ひとりになりたくて、香穂子は溜め息を吐いた。 一人立ちをしようと前々から考えていたから、伝えられたことについては満足している。 ただ、心から愛している吉羅から、あのようなプロポーズを受けるとは、香穂子は考えにも及ばなかった。 そもそもプロポーズされて良いのだろうかとすら思う。 吉羅のことだから、愛しているからという理由ではなさそうだと、香穂子は思った。 儀礼的で事務的だったからだ。 本当に大好きなひとだから、そんなプロポーズを承けるわけにはいかないのだ。 吉羅はそれを解っているのだろうか。 きっとそんな複雑なことを香穂子が考えていることを、吉羅自身は意識をしてはいないだろう。 デートもしたこともなくて、キスもしたことのない男女が、結婚するなんて。 そんなことは狂気の沙汰としか言えないと、香穂子には思わずにはいられなかった。 不意に部屋のドアがノックされる。 「日野くん、今、良いかね?」 相変わらず生徒に対する堅苦しさしかない。 吉羅らしいと香穂子は思わずにはいられない。 「どうぞ」 香穂子がドアを開けると、吉羅はスマートに紳士らしく入ってきた。 「日野くん、話をしたいのだが、構わないかね?」 「はい、どうぞ」 相変わらず吉羅は儀礼的だ。 これが崩れない限り、香穂子は吉羅の心には近づけないと思った。 香穂子にとってはかなり高い壁だ。 「日野くん、私が先ほど君にプロポーズをした際に、儀礼的だとか、デートをしてもいない男女がいきなり結婚することはおかしいと、言っていたね」 「はい。そう思っていますよ。おかしいですよ。やっぱり。私は、素敵な恋の日々を送って、本当に愛し合って結婚したいんです」 夢見る夢子と思われても構わない。しょうがないことだ。 香穂子も女の子だから、結婚には夢を見ている。 「そのような考え方もあるようだね」 吉羅は相容れないと思ったのか、さらりと呟く。 きっと、理解できないとでも、思ったのだろう。 「吉羅さんとは考え方が違うようですね。残念ながら」 本当に残念だとは、思っている。吉羅と考え方が違うなんて、恋する香穂子には切なすぎる事実だから。 「だったら、これからすれば良い。君が言うデートというものをね。これまでも一緒に食事には行っていたが、その他にお望みはないのかね? 確か、ドライブにも、一緒に行っているが」 吉羅はさらりとした嫌み口調で呟く。 「……あ」 確かに吉羅が言う通りに様々なデートもどきをしている。 だが、あくまで擬きだ。 本物ではない。 本当のロマンティックなデートというものは、甘い感情が伴っているものだ。 吉羅とは、ただの“お出かけ”に過ぎない。 香穂子の感情は伴っていても、吉羅の感情は伴ってはいないからだ。 香穂子は深呼吸をする。 「あれはデートではありませんよ。ただ、一緒に出掛けただけです」 香穂子のストレートな言葉に、吉羅は皮肉げに眉をあげた。 「だったらどのようなものがデートなのかね?」 吉羅が腕を組ながら、香穂子を厳しく見つめている。 香穂子は上手く説明するために、言葉をかき集めた。 |