*Srendipity*

1


 彼と出会ったのは運命。
 そう思うまで、そんなに時間はかからなかった。
 本当にあれは、神様が引き寄せてくれたのだと、今となっては思っている。

 間に合わない。
 このバスを逃がしてしまえば、帰るのが大幅に遅れてしまう。
 だいたい、バスが一日二本しかない田舎でのコンサートの後で、直ぐに次のヴァイオリンコンサートが入っているスケジュールは厳しい。
 明日の昼には横浜にいて、コンサートのリハーサルをしなければならないというのに。
 朝のバスまで待ってしまうと、始発が遅いせいで間に合わない。
 香穂子は荷物を抱えて、バス停に向かって走って行ったが、既にバスは行ってしまった後だった。
「…あーあ…」
 時刻表を見て、がっくりとうなだれてしまう。
 近くにお婆さんがいたので、香穂子は近付いて訪ねることにした。
「…あ、あのっ! バスは行ってしまったのですか?」
「今し方、行きましたよ。これが駅に向かう終バスですよ」
「…やっぱり…」
 香穂子は大きな溜め息を吐くと、その場で座り込んでしまった。
 コンサートと自体はとても素敵で、廃校した合掌造りの講堂が会場であったこともあり、とても気持ち良く演奏することが出来た。
 だが最後に、このようなオチがあるなんて、思いもよらなかった。
 香穂子はまだまだ駆け出しのヴァイオリニストであるから、きちんとしたマネージメントともなく、総て自分でこなさなければならない。
 それが切ない。
 こういう交通機関の手配ミスが、よく起こってしまうのだ。
 香穂子は途方にくれると、また大きな溜め息を吐いた。
「どうしたのかね?」
 うなだれていると、低い声が上から降りてきた。
 よく響く美声ではあるが何処か無機質な雰囲気のある声に、香穂子は聞き覚えがあると思いながら、顔を上げた。
「…吉羅さん…」
 吉羅暁彦。
 今回、香穂子をこちらの村のコンサートに招いてくれた、音楽財団の理事長。
 演奏前のギリギリのところで挨拶をしただけの顔見知り程度の相手ではあるが、香穂子にとっては大切なクライアントでもある。
「…困っているようだが、バスが行ってしまったのかね?」
「はい。明日のお昼には横浜に戻っておかなければならないんです。コンサートのリハーサルが入っていて、私のような新人は、それこそ穴を開けてしまえば、もう使って貰えないですから、どうしても行かなければならないんです…」
 香穂子は悲壮感が全身に覆うのを感じながら、溜め息を吐いた。
「…だったら、私が車で送ろう。私もこれから東京に帰るからね、送っていく」
「良いんですか!?」
 これぞ、“棄てる神あれば拾う神ある”だ。
 香穂子は嬉しくて心臓が跳ね上がるような気分になった。
 これで横浜に無事に帰ることが出来る。
「送って行こう。方向はほぼ同じだからね」
「有り難うございます! 本当に嬉しいです! 有り難うございます!」
 香穂子が何度も深々と頭を下げると、吉羅は少しばかり困ったような笑みを浮かべた。
「ここにいたまえ。車をここまで持って来よう。私も既に荷物を纏めて出るだけだったから、直ぐに車は出せる」
「有り難うございます」
 香穂子はもう一度深々と頭を下げると、吉羅が車を取りに行く姿を見送った。
 本当に良かった。
 これでキャリアを棒に振ることもない。
 キャリアといっても、そんなに大したことではないのだが。
 だが、香穂子にとっては大切なものではあった。いくら小さくても、仕事を重ねて、確実にキャリアアップをはかりたかったから。
 暫くして、吉羅の車がやってきた。
 目立つ外車はフェラーリ。
 正直、似合い過ぎているような気がする。
 吉羅は車を停めると、トランクに荷物を詰めるのを手伝ってくれた。
「直ぐに出発しよう。大型台風が来ているからね」
 吉羅は淡々と言うと、直ぐに車に乗り込んだ。
 空を見上げると、かなり厚い雲が垂れ籠めて、今にも泣き出しそうな空色だ。
 そんなことを天気予報で言っていたかもしれないと、香穂子はのんびりと思っていた。

 車に乗り込んで、いよいよ出発をする。
 これで一安心だ。
 明日のリハーサルには無事に参加することが出来そうだ。
 香穂子はホッとしながら、にこにこと笑ってしまう。
 ちらりと横でハンドルを握る吉羅を見つめる。
 冷た過ぎると思うほどに整っている横顔。
 端正を通り越して、本当に綺麗だと思ってしまう。
 だからこそ、何処か人間味がない鋼鉄のような雰囲気があるのだろう。
 話す雰囲気ではなくて、香穂子はひたすら黙っていた。
 何だか落ち着けない緊張感がある。
 致し方がないとは思うが、じっとすると堅苦しい気分になった。
 不意に酷い雨が降り始め、吉羅が軽く舌打ちをしたのが聞こえてきた。
「…とうとう来たか…。持ってくれるかもしれないというのは、私の希望的観測だったようだね」
 ワイパーにスイッチが入れられ、激しい雨粒を何とか払いのけてくれるが、全く追いつかなかった。
 前方が上手く見られず、視界が取れない。
「…どうしようもないね…。これでは…」
 吉羅は溜め息を吐きながら、慎重にハンドルを握っている。
「行けるところまで行くが…、余り期待しないように…。この車は、雨が少ない地域で作られたものだから、雨にはかなり弱いんだよ」
「…雨に弱い…」
 完璧なまでのフォルムを持ち合わせていながら、雨に弱いだなんて。
 こんなことがあって良いものなのだろうかと、香穂子は思ってしまう。
 吉羅は、クラシックが流れていたカーステレオを、気象情報と交通情報のラジオに切り替える。
「大型で非常に強い台風10号の影響で、高速は封鎖、電車も運休が相次いでいます」
 ラジオから聞こえる、人ごとのようなアナウンサーの声に、香穂子は重い気分になり、溜め息が出た。
 このままでは明日のリハーサルは無理かもしれない。
 それが何よりも辛い。
「…リハーサルは何時からだ…?」
「明日の十一時からです」
「十一時か…。何とか間に合わせるか」
 吉羅は溜め息混じりに言うと、ゆっくりとハンドルを切る。
「この近くにペンションがあるから、そこで避難させて貰おう。リハーサルに間に合うようにはするから」
「有り難うございます…」
 もうこうなった以上は仕方がない。
 吉羅に縋るしか方法はないのだから。
 香穂子は、運に任せようとしか思えなかった。

 ペンションに着き、ふたりは激しい雨の中、中に入る。
「まあ! 吉羅さん」
 初老の女性は吉羅を知っているようで、驚いたように駆け寄ってきた。
「これだと東京には帰れませんから、泊めて頂くことは出来ませんか?」
「ええ。一部屋なら空いていますよ」
 女性の言葉に、香穂子と吉羅は顔を見合わせる。
「ダブルルームですけれどね」
「…ダブル…」
 香穂子は思わずためらってしまう。
 ダブルルームだったら、何処で眠るのだろうか。
 吉羅は運転手だから、眠って貰いたい。
 ソファがあればそこを使えば良い。
「…日野君、君はどうするかね?」
「…私は…それで構いません…」
「私も構わない」
 吉羅は頷くと、直ぐに女性に向き直った。
「…すみませんが、その部屋でお願い致します」
「解りました」
 女性は奥に引っ込むと、手早く準備をしてくれる。
 香穂子は鼓動を高めながら、クールな顔をしている吉羅を見上げた。
 知らない魅力的な男性と一夜を過ごす。
 様々な意味で眠れない夜になりそうだった。


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