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出会った時から、あのひとは冷たかった。 厳しいと言っても良い。 ハイソサエティな世界に生きてきたひとで、出会うことのないはずだったのが、出会ってしまった。 あれ以上に衝撃的で幸せな出会いはなかった。 香穂子は、ホテルのパーティ会場まで急いでいた。 経済界のパーティに呼ばれており、そこでヴァイオリンを演奏するためだ。 大学の授業が長引いてしまい、入りの時間がギリギリになってしまったのだ。 大きなパーティであるし、香穂子にとっては数少ない演奏の機会だった。 そんな機会を与えて貰ったからこそ、一生懸命ヴァイオリンを演奏しようと思う。 香穂子は、最高の演奏をしようと思っていた。 だからこそ、こんなところで遅刻をしてはいられないのだ。 香穂子は息を切らせながら、全速力で走る。 ドレスコードがあるほどのパーティだから、きちんと着替えなければならないし、何よりも、化粧もしなければならない。 化粧といっても、香穂子はきらびやかに出来たり、バリエーションを豊かにするほどの道具は持っていないから、いつもの化粧になってしまうが。 いつもの化粧といっても、かなりの薄化粧なのだ。 余り派手にはしたくなかった。 香穂子は走ってホテルに入る。 こんなにも走るのははしたないのは解っている。 ましてや外資系の超のつく高級ホテルなのだ。 にもかかわらず、香穂子はマナー違反も承知で走り続けた。 ギリギリだ。 早く楽屋に入って、演奏の準備をしなければならない。 ロビーを駆け抜けようとしたところだった。 「きゃっ!」 香穂子は、逞しい豊かな身長を持つ男性と、勢い余ってうっかりぶつかってしまう。 「…おっと…」 香穂子が転ぼうとした寸前で、男性の逞しい腕に受け止められた。 「…大丈夫かね」 落ち着いた低い声が下りて来て、香穂子は思わず顔を上げる。 「…ごめんなさい」 顔を上げて謝った瞬間、香穂子はハッと息を呑んだ。 男はクールなパーフェクトだった。 冷たいぐらいに整った顔には、香穂子を呆れるようなうんざりとした表情が見受けられる。 しかたがない。 香穂子がぶつかってしまったことが悪いのだから。 「…本当に申し訳ありませんでした」 香穂子を支えてくれている男の腕は、うっとりとするほどに力強くて、その胸は頼りたいと思うぐらいにしっかりとしていた。 「…ホテルのロビーで走るのは余り感心はしない…」 男はあくまでクールだ。 冷徹と言っても良い。 容姿を助長するかのようなうつくしさで、冷たさだ。 「…君はヴァイオリンをするのかね?」 男は静かに香穂子に言った。 「はい。今夜こちらでヴァイオリンを演奏させて頂くことになっています」 「ほお…」 男は興味があるとばかりに頷くと、香穂子のヴァイオリンを見つめた。 「…頑張りたまえ。それと、もうホテルのロビーで走るのは止めたまえ」 男はクールにかつピシャリと言い放った。 「はい…。有り難うございました…」 男は香穂子を見ると、静かに頷いている。 「では、また」 男はスマートかつクールに言うと、そのまま行ってしまった。 香穂子は広くて美しく鍛えられた男の背中だと思った。 香穂子は、洗練された男の背中を見つめながら、胸がきゅんと鳴るのを感じる。 こんなにも誰かをロマンティックに思ったことは、他になかった。 香穂子は華やいだ余韻の中で、化粧をして、衣装に着替えた。 あんなに素敵な大人の男性に出会えたから、今日は恋の曲を上手く奏でられるのかもしれない。 美しいヴァイオリンの調べを奏でられるかもしれない。 香穂子はとても幸せなときめきを抱き締めながら、パーティ会場へと向かった。 パーティ会場では、クライアント側と簡単に打ち合わせをした。 ヴァイオリンはあくまでBGMだから、控え目に演奏をしなければならない。 香穂子はそれを踏まえながら、パーティ会場のステージの隅で、スタンバイをする。 スピーチの後の乾杯と同時にヴァイオリン演奏を始めるのだ。 商談に邪魔にならない程度に演奏して欲しいというのが、クライアントの望みだ。 またこのような席に呼んで貰う為にも、香穂子は望み通りの演奏をしようと思った。 パーティ前に、軽いチューニングをする。 歓談しながらパーティの開始を待つ招待客の為に、華やいだ演奏をいくつか聞かせるのだ。 あくまでリハーサルではあるが。 香穂子はスタンバイをしてチューニングを始めた。 数曲奏でた後、先ほどの男がパーティ会場にやってくるのを見つけた。 やはり遠くから見ても、その洗練と存在感は群を抜いている。 ひとり美しく輝いているように香穂子には見えた。 本当に美しくて、しかも大人の男性の魅力が溢れていて、香穂子はついぼんやりと見つめてしまった。 なんて素晴らしいのだろうか。つい魅了されずにはいられない。 だが、きっと香穂子のことは忘れているだろう。 ほんの僅かの邂逅だったのだから。 男は、パーティ会場の中で、最も美しく洗練された美女を連れていた。頭もとても良さそうだ。 女性と男がお似合い過ぎて、香穂子はしょんぼりとしてしまった。 当たり前だ。 住む世界が違うひとなのだ。 そう思うと、香穂子は何処か苦しい重みが心に落ちて来るのを感じた。 同時に、さばさばした気持ちにもなった。 ほんの少し、夢を見させてくれたような気がして、逆に感謝をしなければならないと思った。 香穂子はヴァイオリンのチューニングを続ける。 男を気にすることなく。 パーティの直前まで、それは続いた。 いよいよ本番だ。 長いスピーチが終わり、乾杯の音頭が取られる。 香穂子はそのタイミングで、モーツァルトのヴァイオリン狂想曲を奏でた。 最初は大きく、徐々に音を小さめにして、BGMとしての役割を果たせるようにと、甘めの恋の曲を奏で始めた。 ちらりと顔を上げると、すぐにあの男を見つけた。 冷たくも魅力的な雰囲気は、直ぐに見つけられる。 多くの財界人と話をしているのを見ると、相当の経済人ではないかと思った。 あの若さで大したものだ。 香穂子は男の凄さに感心しながら、次の曲の準備をする。 相変わらず綺麗な女性がそばにいる。 きちんとエスコートが出来ているところからも、相当、女性の扱いは手慣れていると思った。 文字通り香穂子が住む世界とは違う世界に住んでいるひとだと、思わずにはいられなかった。 だが、何処か冷たい。 誰も寄せ付けないような冷たさが男にはある。 ここまで冷たいひとというのは本当に珍しいと、香穂子は思った。 何か人の感情を受け入れないような、そんな雰囲気がある。 香穂子は自分が拒絶されている気分にすらなった。 とことんまで冷徹。 それゆえに男は今の地位を築いたのではないかと、香穂子は思った。 香穂子は、ほんの一瞬ではあるが、男にのぼせ上がった。 それは本当にその表現がぴったりだと思った。 氷のように冷たい男。 香穂子にとっては、それが一番乗り印象だった。 男はだからこそ経済界のトップへと上り詰めたのだろうと思う。 本当に香穂子には推し量れないひとだった。 香穂子はヴァイオリンに熱中することにする。 何曲も耳触りが良くさり気ないように演奏する。 次は何の曲を演奏しようかと見ていた時だった。 「余りヴァイオリンに夢中になると疲れるでしょう」 低い魅力的な声で話しかけられて顔を上げる。 あの男だった。 |