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まさかあの男がこんなにも近い場所にいるなんて、香穂子は思ってもみなかった。 間近でじっくりと見れば見る程、男はかなり整っている。 その端正さに、香穂子はしばし、見惚れた。 「君のヴァイオリンに興味がある。人を引きつけるような演奏をするね」 男は淡々と呟いてはいたが、香穂子のヴァイオリンをきちんと評価してくれている。 香穂子はそれが嬉しかった。 「有り難うございます。ヴァイオリンを褒めて頂いて、とても嬉しいです」 香穂子が笑顔で言うと、男はスッと瞳を神経質そうに細めた。 「ただ、まだまだ改善の余地はあると思うがね。解釈は素晴らしいとは思うが、弾く技術はまだまだだ」 男はキッパリと言うと、香穂子を冷淡に見つめた。 得意なところも不得意なところも、男は総て言い当てる。 相当、耳が鋭いのだろう。 「…君の名前を聞かせて貰いたい」 「…日野香穂子です」 「日野香穂子…。覚えておこう」 男はクールに言うと、香穂子に手を真直ぐ差し出してきた。 「私は吉羅暁彦だ。よろしく」 吉羅暁彦。 その名前は、直ぐに香穂子の脳にインプットされる。 「よろしくお願いします」 男の手がしっかりと香穂子の手を包み込むように握手がされる。 綺麗なのに、なんて力強いのだろうかと、香穂子は思った。 「また逢えることもあるだろうからね。その時は覚えておいてくれたまえ」 「はい」 男は冷たい微笑を香穂子に向ける。 手が離され、香穂子は胸の奥が少しだけチクリとした。 「では、日野君、また」 吉羅はスマートに香穂子から離れて、連れの女性のそばに向かう。 ヴァイオリンに興味持ってくれたことはとても嬉しかった。 次、逢うことがなかったとしても、ひとりでもヴァイオリンを気に入ってくれているひとがいるのは、嬉しかった。 香穂子は演奏が終わると、ひとりで後片付けをする。 先ほどの男以外にも、ヴァイオリンを褒めてくれたひとがいたことは嬉しかった。 次に聴いて貰えることがあったら、更に素晴らしい演奏を聴かせたい。 香穂子は強く思った。 香穂子にとって、吉羅暁彦がどんなにセレブリティであったとしても、全く関係のないことだった。 住む世界が違うのだから当然だ。 香穂子は、インターネットで吉羅暁彦を検索し、経済界を牛耳りつつある男だということを知った。 そしてかなりの女たらしであるということも。 本当に何もかも、香穂子のスケールでは測れないのだ。 香穂子は、住む世界が違う吉羅暁彦のことは封印して、忘れ去ろうとしていた。 香穂子が吉羅暁彦の存在を忘れ去ろうとしていた時だった。 偶然にも、クラシックコンサートの会場で出会ってしまった。 出会ったというよりは、見掛けたというのがピッタリくる。 勿論、吉羅は相変わらず美しい女性をエスコートしていた。 席も一番良い場所だ。 これに対して香穂子は、後ろの席に座っていた。 いくら正式な席で演奏が出来るようになったとはいえ、香穂子はしがない学生なのだ。後ろの席が精一杯といっても良かった。 向こうは気付かないだろう。 当然だ。 小さな邂逅だったのだから。 香穂子としては。 香穂子は吉羅の背中を見つめながら、自分の席へと向かった。 吉羅は一番前の中央だ。 あれならばヴァイオリニストの指の動きは一目瞭然だろう。 香穂子は後方過ぎて分からない。 ただヴァイオリンの生の音色を聴くことも勉強になるから、香穂子はそちらに意識を集中させようと思っていた。 ヴァイオリンをフィーチャーするコンサートは、やはり素晴らしい。 香穂子はいつかあの場所に立ちたいと思った。 そうすれば、吉羅暁彦を近くで見られるだろうか。 そんなことをつい考えてしまっていた。 駄目だ。 吉羅暁彦のことで頭がいっぱいになる。 なんて存在感なのだろうか。 つい、遥か向こうにいる吉羅に意識と視線を向けてしまう。 これではいけないと思い、香穂子はヴァイオリンに集中しようとした。 吉羅を視界から消してしまえば良い。 香穂子は目を閉じてヴァイオリンに集中した。 休憩時間になり、香穂子は飲み物を買いにロビーに出た。 すると吉羅の背中を見つけてしまった。 見つからないように香穂子は躰を小さくする。 こちらが覚えていても、吉羅は覚えていないかもしれないが。 香穂子はフルーツジュースを買い求め、ロビーの端でこっそり飲む。 そんなことをしなくても、吉羅は覚えてはいないだろう。 その証拠に、吉羅は香穂子を見つけてはくれないではないか。 香穂子はドキドキして損したと思いながら、呑気にジュースを飲んでいた。 そろそろ席に戻ろうとした時だった。 「日野君、今、戻るのかね?」 よく響く無機質な声をきこえ、香穂子は恐る恐る振り返る。 そこには艶やかな声の持ち主、吉羅暁彦がいた。 「…吉羅さん…」 「覚えてくれていて光栄だよ。日野君」 吉羅にまっすぐ見つめて来る。 「君は勉強に来たのかね?」 「はい。生の音を聴くのは勉強になりますから」 「指の動きとかは勉強しないのかね?」 「それは前に行かなければ見えませんから。なかなか前の席でコンサートを見ることは出来ないですよ。聴くだけでも勉強になりますから、今日はしっかりと聴くことにします、席は後ろなので」 吉羅は冷徹なまなざしで香穂子を捕らえるように見つめてくる。 香穂子は、吉羅に捕らわれたくはなくて、わざと視線を合わせないようにした。 すると吉羅は香穂子を更に厳しいまなざしで見つめてくる。 「そろそろ戻ります。開演に間に合わないかもしれませんから」 香穂子が戻ろうとした時だった。 「日野君、待ちたまえ」 吉羅は思い切り強く、香穂子の手を握り締めてくる。 これにはつい驚いてしまう。 「…吉羅さん…!?」 ドキドキし過ぎて、息が苦しくなる。 どうしてこのように捕まえてきたのだろうか。 香穂子は喉がからからになるぐらいにドキドキしながら吉羅を見た。 「私の横のシートが空いている。一緒に来ると良い」 「あ、あのっ!?」 吉羅は香穂子の手を思い切り握り締めたままで、ホールの中へと入る。 いきなりのことで香穂子は戸惑うばかりだ。 「吉羅さんっ! 吉羅さんにはお連れ様がいらっしゃるんじゃないですか!?」 確かに先ほどまではエスコートをしている女性がいたはずなのに。 「連れは帰った。第一部だけを聴いて退屈だったようでね」 「…そうですか」 香穂子は何故だか気の毒に思える。 音楽という素晴らしい芸術を理解することが出来ない女性を。 「君の席よりもじっくりとヴァイオリンの勉強が出来る筈だ。来たまえ」 「はい」 吉羅に連れられるまま、香穂子は着いてゆく。 あんなにも良い席で音楽を聴くことなんて無いかもしれないから。 香穂子は楽しむことにした。 こんなにも素敵なチャンスはない。 「有り難うございます。勉強させて頂きます」 香穂子は滅多にないチャンスをくれた吉羅に丁寧に礼を言った。 「しっかりと勉強すると良い。君にはヴァイオリニストとして更なる高みを目指して貰いたいからね」 「有り難うございます」 女たらしで、最高にスマートで、そして冷たいひと。 だがヴァイオリンのことをきちんと考えてくれる、香穂子にとっては有り難い男性。 香穂子は、吉羅に感謝をしながら微笑んだ。 それが恋心に変わるのはそう長くはかからなかった。 |