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吉羅に連れていかれ、香穂子は特等席と呼ばれる席に座った。 「このような席は初めてなのでドキドキします」 「これからは、チケットが手配出来たら君を招待することにしよう。ヴァイオリンの勉強になるだろう?」 ヴァイオリンを勉強する香穂子にとってはこんなにも有り難いことはない。 「有り難うございます。勉強になります」 コンサートが始まる。 香穂子はソリストの指先をじっと見つめながら、耳では音を追う。 プロの技術をこんなにも間近で見られるなんて、とても素晴らしいと思った。 吉羅は横にいて、香穂子が一生懸命にヴァイオリンを聴いて、指先の動きを見ているのを、好ましく思っていた。 まるで吉羅が横にいることを忘れているように見える。 苦笑いをしながら、吉羅は香穂子を見つめた。 こんな女性は初めてだと吉羅は思う。 それゆえに興味深い。 吉羅は、この席は、香穂子にこそ 相応しいのだと思う。 本当に音楽を愛している者が相応しい。 そういう意味で、香穂子をここに座らせて正解だと、吉羅は思った。 コンサートを見て聴いている間、香穂子はなんて幸せなのだろうかと思った。 ヴァイオリンを勉強するのにとても参考になる。 吉羅に感謝をしなければならない。 こんなにも素晴らしい時間を過ごさせてくれたのだから。 素敵なコンサートは、夢見るように素晴らしかった。 いつかこのようなコンサートを開けたらと思わずにはいられない。 コンサートが終わった後も、香穂子は余韻にぼんやりとしている。 「日野君、帰るよ」 「は、はいっ!」 香穂子は慌てて立ち上がると吉羅に着いて行く。 「吉羅さん、今日は本当に有り難うございました。とても勉強になりました」 「君の勉強になったのは何よりだ」 「有り難うございます。何かお返しが出来たら良いのですが…」 恋人の途中退場が原因とは言え、こんな良い席に招待して貰えるなんて、感謝をする以外にはなかった。 「出世払いで構わないが…そうだ、日野君、軽い夕食に付き合ってくれないかね?」 「良いんですか? そんなことで」 「ああ。構わない。既に予約を取ってしまっているからね」 吉羅はクールな表情のまま呟いた。 「…そうなんですか」 つまり帰ってしまった彼女の穴埋めだ。 それでも美味しい食事が取れるので構わないかと、香穂子は思った。 吉羅は駐車場に向かって足早に歩いてゆき、香穂子はその後ろをただ着いていった。 吉羅の車はイメージ通りの外車だ。 しかもフェラーリ。らし過ぎると香穂子は思った。 吉羅はさり気なく助手席のドアを開けて、エスコートをしてくれた。 「どうぞ、日野君」 「有り難うございます」 このあたりのエスコートぶりは流石と思うしかない。 香穂子はシートベルトをしようとしたが、上手く出来なかった。 指先がどうしても震えてしまうのだ。 「どうかしたのかね?」 吉羅がスッと目を細めて不快そうな目付きをする。 やはり相変わらず威圧的だ。 「シートベルトが上手くいかなくて…」 「かしたまえ」 香穂子がシートベルトから手を離すと、吉羅が素早く手に取る。 吉羅が近くて鼓動がおかしくなる。 ドキドキし過ぎて、どうして良いのかが分からなかった。 ほんのりとムスクの香りがする。 吉羅のコロンの香りは、香穂子をくらくらさせる。 本当に良い香りがする。 香穂子は胸の奥がドキドキとしてしまいしょうがなかった。 吉羅は車をフレンチレストランまで走らせてくれる。 本格的なフレンチなんて初めての経験だ。 一応、香穂子なりのフォーマルでワンピースを着てはいるが、本格的なフレンチレストランには不釣り合いな気がした。 「着いたよ、お嬢さん。降りたまえ」 「はい」 緊張してしまいつい、ドキドキせずにはいられない。 車から降り立った後、吉羅は香穂子をエスコートしてくれた。 フレンチレストランはクラシカルな雰囲気で、香穂子は余計にドキドキしてしまう。 こんなにも豪華なのにところは初めてだ。 「ここはなかなか美味しいフレンチだから楽しむと良いよ」 「はい」 香穂子は緊張し過ぎてしまい、カチコチになってしまう。 それを見兼ねたのか、吉羅は香穂子の腰を軽く抱いて来る。 甘い刺激にドキドキする余りに、香穂子は更に躰を硬くしてしまった。 吉羅が呆れ返るように冷徹なまなざしを向けて来るものだから、香穂子は余計に身体を硬くした。 「緊張しなくても大丈夫だ」 「はい…」 そうは言われてもやはり緊張してしまう。 しかも相手は吉羅暁彦なのだ。 緊張しないはずはない。 香穂子は何を注文して良いのかも分からずに、ただ吉羅にお任せをする。 吉羅はそつなく注文してくれた。 「こういうのは初めてかね?」 「…はい。初めてです」 「馴れておいたほうが良い。ヴァイオリニストとして国際的に広く活躍したいのならば、マナーは必須だからね」 「はい」 確かに国際的なヴァイオリニストになるには、マナーは必要だ。 香穂子はマナーなどよく分からなくて、学ぶチャンスだとは思った。 「日野君、テーブルマナーが分からなければ、先ずは私の真似をすると良い。後、カトラリーは料理の順で端から内側に向けて並んでいるから、それに気をつければ選択を間違えることはないから」 「はい」 吉羅に言われて、香穂子は緊張する。 これはレッスンだ。 香穂子をヴァイオリニストにするための。 そう思わずにはいられなかった。 料理が次々に運ばれてくる。 香穂子は豪華でお洒落な料理に些か緊張しながら、吉羅よりも一歩遅く食べる。 マナーがよく分からなかったから、それがベストな方法だと思えた。 流石に吉羅のマナーは洗練されている。 とても綺麗だ。 香穂子はついうっかり見惚れてしまうのを何とか止まって、吉羅の真似をするように頑張った。 しかし、なかなか上手くいかない。 まだ馴れていないからしかたがないのではあるが。 「日野君、これからは食事付で君をコンサートに誘わなければならないね。ヴァイオリニストとして必要なことをトータルで学んでもらわなければならないね」 吉羅は、本当に香穂子を立派なプロのヴァイオリニストにしたいと思ってくれているのだろう。 それはとても有り難いと、香穂子は思った。 「吉羅さん、有り難うございます…。私、立派なヴァイオリニストになれるように頑張りますね」 「頼もしい言葉だね。これが私の連絡先だ。君の連絡先も教えてくれないかね?」 「はいっ」 吉羅の連絡先を受け取った後、香穂子は自分の携帯電話の番号とメールアドレスを記入したメモを渡す。 「どうぞ」 「有り難う」 吉羅は香穂子のメモを見るなり、直ぐに携帯電話に登録をした。 「では食事を続けようか」 「はい」 吉羅から様々な角度で、食事マナーのレッスンを受ける。 沢山のことを学ばなければならないせいか、香穂子は味わう余裕などなかった。 だが、最後に出されたスウィーツの甘さだけは、感じることが出来た。 食事の後、吉羅は何も言わずに支払いを済ませてくれ、そして車で送ってくれる。 「吉羅さん、今日は本当にどうも有り難うございました。とても勉強になりました。様々なチャンスを下さって有り難うございます」 「君が素晴らしいヴァイオリニストになってくれたら、私はそれで構わないよ」 吉羅からストレートに伝えられる言葉に、香穂子は甘い幸せが心の奥底から湧き上がった。
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