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あれから吉羅からは連絡は無い。 元々、かなり忙しいひとであることもある。 香穂子のことを片隅にぐらいしか考えられないからだろう。 それはしょうがないことだ。 期待を持っていつまでも待っていても、ぬか喜びになるだけだ。 香穂子は、吉羅からの連絡を待って一喜一憂しないように務めることにした。 香穂子は自分がやるべきことをやらなければならないと思い、ヴァイオリンの練習に更に力を入れていた。 吉羅から連絡はもうないだろうと思った時に、携帯電話に連絡が入った。 「…日野君、吉羅だ」 「吉羅さん」 もう連絡はないだろうと思っていたから、香穂子は驚いてしまった。 「君に逢いたい。用件はヴァイオリンについてだ。うちの社に来てくれないかな?」 「あ、はい。あのいつでしょうか? 後、会社はどちらにありますか?」 「社はみなとみらい地区にある。後、日程は明後日、時間は午後六時。受付でCEOと約束をしていると伝えてくれたら大丈夫だ」 「はい」 CEOと約束。 吉羅がひょっとして想像以上のセレブリティなのではないかと、香穂子は思ってしまう。 どれぐらいのセレブリティなのかは想像することが出来ないけれども。 「日野君、では待っているから」 「はい、分りました」 吉羅は用件だけを言うと、本当にさっさと電話を切ってしまった。 らしいといえばらしいのだが。 しかも一方的に自分の都合でスケジュールを言ってくる。 忙しいのは分かるが、香穂子は寂しい気分になった。 吉羅に逢う当日、みなとみらい地区の何処に会社があるのかを示したメールが送られてきた。 流石にこれで香穂子も迷うことはない。 吉羅の会社に行くということで、香穂子はきちんとしなければと、グレーのビジネスライクなワンピースを着た。 華やかなデザインは相応しくはないと思ったのだ。 まるで就職活動だと、香穂子は思わずにはいられなかった。 ヴァイオリンのことで行くのだから、本当にそれに近いのかもしれない。 大学の授業が終わり、香穂子は真直ぐみなとみらいに向かった。 吉羅と遭うのに遅刻は出来ないから、早目に行こうと思ったのだ。 吉羅は時間には厳しいタイプだろうと推測が出来た。 時間があるので、香穂子はカフェでのんびりとお茶をした。 ヴァイオリンの話。 香穂子は、悪い話ではないことは、何となく想像はついた。 香穂子がヴァイオリニストとしてより成長が出来るようにと、手を差し延べてくれるのだろう。 それはヴァイオリニストの卵としては、とても有り難いことだった。 恋愛は抜きだろう。 吉羅暁彦が香穂子を恋愛対象として全く見ていないことは、先日のコンサートでの態度を見ても明白なことなのだ。 だからこそよりヴァイオリニストとしては厳しく見られるだろう。 香穂子は身が引き締まる気分だった。 時間になったので、香穂子は地図を目当てに、吉羅の会社へと向かう。 どれぐらいの規模なのだろうか。 みなとみらいには沢山のビジネスビルがあるから、そこの一角がオフィスなのだろう。 その割には階数のインフォメーションは一切なかった。 「ここかな…」 香穂子は、みなとみらい地区でも、一際、瀟洒なビルを見つけ、その中に入ってゆく。 住所もあっているし、恐らくは間違いないだろう。 ビルに入ると高い吹き抜けが印象的で、多くのビジネスマンで活気が溢れていた。 吹き抜けの部分にはお洒落なカフェがあり、多くのビジネスマンが接客や打ち合わせをしているのが見えた。 香穂子はとりあえずはインフォメーションに声を掛けることにした。 恐らくは吉羅の名前を言えば通してくれるのだろう。 美しい女性たちがインフォメーションで出迎えてくれた。 「日野香穂子です。六時に吉羅暁彦さんとお約束を頂いています」 香穂子が申し出ると、女性は直ぐに頷いてくれた。 「かしこまりました。お話は伺っております。ご案内致します」 「あ、有り難うございます」 まさか吉羅のところまで案内をして貰えるなんて思ってもみなくて、香穂子は驚いてしまった。 恐縮するなか、香穂子は女性に着いてゆく。 流石に大きくて立派なビルの受付だけあり、とてもしっかりと教育がされてある。 こんなビルにオフィスを構えるなんて、やはり吉羅は物凄いビジネスマンなのだろう。 香穂子は感心することしきりだった。 何度かセキュリティを通過して、かなり厳重であることを、香穂子は驚いていた。 ここまでしているところは、珍しいのではないかと思う。 フロアの奥にたどり着いた後で、ドアの向こうから厳しそうな中年の女性が出て来た。 「日野様をお連れ致しました」 「有り難う。日野様、こちらからはわたくしがご案内致します」 「あ、有り難うございます」 香穂子はえらいところに紛れ込んでしまったと思いながら、女性に着いてゆく。 奥に進むともうひとつのドアが見えて来た。 「CEO、日野様をお連れ致しました」 「有り難う。入りたまえ」 ドアの向かうから吉羅の声が聞こえてくる。 セキュリティもここまで来るとやり過ぎではないだろうかと思いながら、香穂子は吉羅の部屋に入った。 すると美しい外国の女性が立ち上がる。 華やかなワンピース姿の女性は、明らかに吉羅よりは年上だった。 吉羅はいつものようにクールな表情のままで、香穂子を捕らえる。 「日野君、こちらに来たまえ」 「はい」 吉羅の部屋は本当に立派で、ひょっとしてこのビルのオーナーなのではないかと思う。 ここは会社の中でも立地は最高だったからだ。 「君にヴァイオリン講師を紹介したくてね。大学の他にもレッスンは必要だろうからね。特に君の場合は」 吉羅はあくまでヴァイオリニストとして、香穂子を支援したいと思ってくれているようだった。 それはとても有り難い。 吉羅は真直ぐ香穂子を見ると、ソファに座るようにと促した。 「日野君、座りたまえ」 「はい」 緊張しながら、香穂子は背筋を伸ばして腰掛ける。 するとケーキと紅茶がタイミング良く出された。 「うちのビルにクラシックを中心にした小さなホールを作ることになった。小さいが温かなホールにしようと思っている。そこで君には、ホールの常任ヴァイオリニストのひとりになって欲しいと思っている」 「え…」 いきなり想像もしない申し出に、香穂子は驚いてしまい、上手く言葉が出なかった。 まさか、そんなことが起こるなんて想像すらしなかった。 「そんな凄い役割を私がして良いんでしょうか…? 私にはキャリアもありませんし…、吉羅さんが望むレベルのヴァイオリニストではないと思うのですが…」 確かに嬉しい。 だが、自分のヴァイオリニストとしてのレベルは解っているつもりではいる。 今のレベルでは、ホールにコンスタントに出ることはかなり難しい。 「君のヴァイオリンのレベルは解っている。私は、ホールの常任ヴァイオリニストを探すために、自ら様々なコンサートやパーティに出向いた。その上で君が適任だと判断した」 吉羅は淡々と言うと、香穂子を真直ぐ見た。 有無言わせない目力に、香穂子は逃げられないことを悟る。 それにこれは大きなチャンスではある。 「そのために君には、ヴァイオリン講師をつけることにした」 吉羅は香穂子が断る理由を探さないようにするかのように、講師を準備している。 追い詰められる。 香穂子は頷くしかないと思った。 |