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吉羅がお膳立てをしてくれる。 香穂子にとってはそれは有り難いが、何だか過大評価をされているような気がして忍びなかった。 ヴァイオリンは大好きだし、今までプロになるためにかなりの努力もしてきた。 だからこそ、吉羅の申し出は嬉しい。 しかし、それに甘えてはならないと香穂子は思っていた。 もっとヴァイオリンのスキルを上げなければならない。 そうしなければ、吉羅にここまでお膳立てをして貰った意味がない。 ヴァイオリンを見込んでしてくれたことなのだから。 ここは頑張らなければならない。 これは誰の為でもなく、自分自身の為なのだ。 香穂子はしっかりと自分に言い聞かせて、レッスンへと向かった。 ヴァイオリン漬けの時間が始まる。 なんと幸せなことだろうか。 香穂子は、吉羅が手配をしてくれたオーストリア人講師の元に向かった。 「日野です」 「お入りになって下さい」 「失礼します」 香穂子がレッスン室に入ると、講師は微笑みながら迎えてくれた。 これはかなり嬉しい。 香穂子の講師は洗練された日本語が堪能で、しかも有名ヴァイオリン講師だ。 吉羅が最高の講師を選んでくれたことは、本当に嬉しかった。 「日野さん、今日からしっかりとヴァイオリンのレッスンをしますから、頑張って下さいね」 「はい。有り難うございます」 香穂子が頭を下げると、講師はにっこりと微笑んでくれた。 吉羅と出会わなければ受けるこっが出来なかったレッスンだ。 これには本当に心から感謝をしていた。 香穂子にとっては夢のようなレッスンだ。 貴重なレッスンだから、どんなことでも逃したくないと、香穂子は思っていた。 最初からかなりハードにヴァイオリンを弾く。 「もっと指のポジションに気遣って! 変える時には素早く」 「はい」 やはり噂通りのかなりスパルタな講師だったが、それ以上に素晴らしい教え方だった。 この講師に着いてゆけば、ヴァイオリンが劇的に上達するのではないかと、香穂子は思わずにはいられなかった。 息を吐く間もないと感じるぐらいのみっちりとした授業を受けて、香穂子はくたくたになっていた。 だが、清々しい。 本当に充実したレッスンだった。 「では日野さん、今日はここまでね。よく頑張ったわね、また次回」 「はい。有り難うございました」 女性講師は満足そうに頷く。 香穂子はホッとした気分になった。 レッスンが終わり、香穂子は充実した気持ちで家路に向かう。 吉羅が用意してくれた講師のお陰で、何とかなりそうな予感がしてきた。 香穂子はホッとしながら、これなら間に合うかもしれないと思った。 だが、更なる努力が必要なことも解っている。 ヴァイオリンが上達するためになら、努力であっても楽しいと感じられた。 吉羅の作るアットホームなビルのホールで、ヴァイオリンを演奏する。 ヴァイオリニストとしては、かなり恵まれた環境だ。 だからこそ香穂子はそれに甘えずに頑張ることにした。 吉羅は足長おじさんだ。 そう思えるぐらいのお膳立てだと香穂子は思った。 香穂子は連日レッスンに通い、自分でもしっかりと復習をする。 ここまで頑張れるのは、吉羅のお陰だ。 レッスンの後は、吉羅に必ず報告のメールを送ってはいたが、いっこうに返事はなかった。 しかたがない。 吉羅はかなり忙しいひとなのだ。 香穂子のようなヴァイオリニストを一々構っている場合ではないのだろう。 こうして素晴らしいヴァイオリン講師のレッスンを受けさせてくれているだけでも、感謝をしなければならないのだから。 切ないが怒らないことに決めた。 香穂子は、今は吉羅ではなくヴァイオリンに集中すべきだと、気持ちと頭を切り換えていた。 ヴァイオリンのレッスンが終わった後、香穂子は街をぶらぶらと歩いていた。 ウィンドウショッピングというのも、また楽しいものだ。 香穂子はそう思いながら、瀟洒な街を歩いていた。 「…あ…」 吉羅が、美しい女性と微笑みながら歩いているのが見えた。 いつも違う女性だ。 それが香穂子には不実に思える。 香穂子にとっては吉羅の付き合い方は全く理解出来そうになかった。 女性に忙しいから、返事をしなかったのだろうか。 それもあるのだろう。 香穂子は、吉羅から見れば女性のカテゴリーには入らないだろう。 それがほんのりと辛かった。 吉羅に、ヴァイオリニストになるための援助以外は求めてはならないと、香穂子は思う。 それはかなり贅沢なことだ。 だからこそこれ以上吉羅には求めてはいけないのだ。 香穂子は胸が苦しいぐらいに痛むのを感じたが、それは贅沢な痛みだと思うようにした。 ただ今日のレッスンの報告と、お礼だけを送る。 本当に足長おじさんとジュディの関係のようだと、香穂子は思わずにはいられなかった。 レッスンの後、上手いタイミングで携帯電話が鳴り響いた。 「はい、日野です」 「日野君、私だ、吉羅だ」 「吉羅さん!」 まさか吉羅暁彦から電話が掛かって来るとは思ってもみなかった。 総てヴァイオリン講師に任せっきりだと思っていたのだ。 「直ぐ近くにいるのだが、今から時間はあるかね? 君の口から報告を聞きたい」 報告ならメールで毎回きちんとしていたが、吉羅にはそれが伝わらなかったようだ。 吉羅はパトロンだ。香穂子にとっては報告するしかないのだ。 「分りました。どちらに行けばよろしいでしょうか?」 「君の前方に車が停まっているだろう? そこにいる」 香穂子は前方を見る。 そこには確かにフェラーリが停まっている。吉羅らしいと香穂子は思った。 フェラーリの前まで来ると、助手席のドアが開けられる。 「乗りたまえ」 「はい」 吉羅は電話越しに言うと、運転席から出て来た。 「どうぞ、お嬢さん」 女性の扱いには馴れているのだろう。エスコートがとてもスマートだ。 香穂子はぎこちなく車に乗り込むと、香穂子に微笑みかけた。 香穂子が車に乗り込んでシートベルトをすると、車はゆっくりと動き出す。 「メールでの報告を有り難う。君に直接、レッスンの充実振りを訊いておきたかったからね」 「レッスンは順調にいっていますよ。有り難うございます。吉羅さんのお陰で、充実したレッスンを受けさせて貰っています。有り難うございます」 「それは良かった」 「はい」 レッスンの質の高さは吉羅に礼を言わなければならなかった。 それぐらいの充実ぶりだ。 「君の上達具合も講師から聞いている。順調だと聞いているよ」 「はい、有り難うございます」 香穂子が礼を言うと、吉羅は僅かではあるが薄く笑った。 「メールだと詳しいことが分からないからね」 「確かにそうですね」 「詳しい話はレストランで落ち着いたところで聴こうか」 「有り難うございます」 「良い生演奏を聴かせてくれるレストランなんだ。君にとっても勉強になるだろう」 「有り難うございます」 本当にかなり気遣ってくれている。 吉羅は本当に香穂子をヴァイオリニストとして期待をしてくれているのだろう。 それは本当に有り難いと思った。 女性として見られないのは、ほんのりと切ないけれど、それでも一人前のヴァイオリニストとして見て貰えるのは嬉しい。 「しっかり勉強させて頂きます」 「ああ」 香穂子は、吉羅の期待に応えるために頑張らなければと思った。
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