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あのひとに助けを求めるしかない。 これ以上は待つことは出来ないから。 自分でどうにか出来ると思っていたのに、それは幻想に過ぎないということを、香穂子は思い知らされた。 別れてから二年。 別れたというよりは、吉羅が消えてしまったというほうが正しい。 吉羅暁彦。 香穂子がかつて愛した男であると同時に、世界経済の表舞台で活躍する経済人。 元は香穂子とは住む世界が違う、かなりのセレブリティだ。 出会ってから数日で深く愛し合う仲になり、やがて吉羅は香穂子を見捨てるようにして消えてしまった。 あんなにも切ない事件は他になかったのを、今でも覚えている。 だが、背に腹は変えられないのだ。 このままでは引き離されてしまう。 吉羅に黙って産んだ息子と。 香穂子は意を決すると、吉羅がCEOを務める会社へと向かった。 躰がふらついてしまう。 しょうがない。病気になってしまったのだから。 病気になってしまったことで、仕事も失い、その上に子どもまでも失ってしまいそうなのだ。 そんな切ないことは嫌だ。 この二年は子どもだけが支えで生きてきたのだから。 香穂子は、緊張で石になってしまうのではないかと思いながら、吉羅の会社へと向かった。 ビルの中に入ると、かなり怯んでしまう。 立派過ぎる大企業だ。 こんなところに来たのは、場違いではないかと思ってしまう。 誰もがエリート風のスタイルで颯爽としている。 香穂子のように、サマーワンピースにサンダルというカジュアルスタイルな女性は何処にもいない。 何処を見てもマチュアな女性と男性ばかりだ。 勇気を振り絞って、香穂子は受付に向かった。 受付嬢はふたりいて、どちらも大変美しい。流石は大企業といったところだ。しかも出来そうな女性ばかりだ。 「あ、あの…、日野香穂子と申しますが…吉羅暁彦さんをお願いしたいのです」 受付嬢は香穂子を値踏みするように見つめると、訝しげな視線を向けてきた。 「吉羅とお約束はされていますでしょうか?」 冷たい声に震え上がりそうになる。 値踏みをされて、明らかに“不合格”だったのだろう。 当然だ。相手は大企業のCEOで、経営再建のエキスパート吉羅暁彦なのだから。 受付嬢は確認もせずに深呼吸をすると、香穂子を冷徹な瞳で眺めた。 「申し訳ございませんが、CEOはアポイントのないお客様とはお逢い出来ません。お約束の上、またお越し下さい」 慇懃無礼な受付嬢の態度に、香穂子は恥を忍んで食い下がる。 「…あの、そこを何とか! 一生を左右するような重大な用件なんです!」 一生を左右する。 それは本当に過言ではない。 少なくとも吉羅の子どもの一生は左右する。 勿論、吉羅は存在自体を知らないわけだが。 「…そう申されましても、規則ですから」 流石は大企業の受付。門番の役割をきちんと果たしている。 万事休すだ。 手紙もダメ、電話もダメ…。 そして直接交渉もダメなのだ。 やるべきことは総てやった。 息子を手放さなければならないのだろうか。 「…せめて…、秘書の方にだけでも訊いて頂いて構いません…か…?」 香穂子が深々と頭を下げると、受付嬢はしょうがないとばかりに溜め息を吐く。 「仕方がありませんね。秘書の方に訊きますが、それが終わったらお引き取り願いますか…?」 「…解りました…」 受付嬢は最大の譲歩をしてくれているのだ。それに乗るしかないだろう。 受付嬢は内線をし、香穂子の名前を出して、確認を取ってくれる。 香穂子はそこに一縷の望みを抱きながらも、何処か恐ろしい気分になる。 冷徹に「覚えていない」と言われたら、どうすれば良いのだろうか。 それこそもう二度と立ち直れそうにない。 緊張と疲労でくらくらする。 香穂子は最後の力を振り絞るかのように立ち続けた。 「恐れ入りますが、秘書の方もお通しは出来ないとのことです」 あっさりとしたキッパリとした最期通告。 香穂子は溜め息をもう一度吐くと、肩を落とした。 「…解りました…。お手間をお掛けしました」 香穂子は深々と頭を下げると、よろよろと入り口に向かう。 本当に立派なビルだ。 直ぐに地下鉄の入り口もあり便利だ。 所詮、住む世界が違うひとなのだ。 吉羅暁彦は。 香穂子がとぼとぼと下を向いて歩いていると、逞しい躰をした誰かとぶつかった。 「…ご、ごめんなさい!」 香穂子が顔を上げると、見知った瞳とぶつかった。 「…日野…! 日野じゃないか! どうしたんだ、こんなところで!」 ぶつかった相手は、かつての恩師金澤紘人。 吉羅の先輩で大変仲が良いことから、香穂子は接触を避けてきたのだ。 「…先生…、お久し振りです」 「ここで逢うとは、吉羅に逢ってきたのか?」 「…いいえ。大企業のCEOさんには面会を断られました」 香穂子は小さくなりながら、なるべく明るい風に言う。 「…日野、俺は今から吉羅に逢う予定だが、お前も一緒に来ないか? あいつも逢いたがるだろう」 「…逢いたがらないと思います…。私は過去の亡霊ですから…、吉羅さんにとっては…」 香穂子は目を伏せると、なるべく金澤を見ないようにした。 「いいから来い! お前がここまで来たのは、余程、やんごとなき用があるんだろう? だから来い」 金澤は香穂子の細い腕を掴むと、受付へと向かった。 「…金澤だ。夕方から吉羅と約束をしている」 「はい伺っております。奥のエレベーターから最上階にお上がり下さい」 「有り難う」 受付嬢はちらりと香穂子を見つめると、目線で軽蔑する。 きちんとした身なりとは言えないからしょうがない。 「…日野、行くぞ」 「はい」 金澤に連れられて、香穂子はよろよろとエレベーターに乗り込む。 ここまで来たら、もう振り返ることなんて出来ない。 エレベーターの壁に寄り掛かりながら、香穂子は溜め息を吐きながら階を示すランプが点滅するのを見つめていた。 「日野、着いたぞ」 「はい」 いよいよだ。 吉羅と対決をする日がやってきたのだ。 香穂子は背筋を伸ばすと、エレベーターから降りた。 直ぐにCEO室があり、セキュリティが完璧に施されている。 金澤は先ずは秘書直通の内線をし、秘書室の中に入れて貰った。 出迎えてくれた秘書は中年の落ち着いた女性で、何処か厳しい魔女のような雰囲気を醸し出している。 「…ようこそ金澤さん。その方は…?」 「俺の連れだ。心配しなくても良い」 「…解りました…」 秘書は溜め息を吐くと、吉羅の部屋に続くセキュリティを解除してくれた。 「さて行くとするか。お前さんもしっかりな」 「はい」 香穂子の思い詰めた表情で、何かあるということを金澤は感じているのだろう。 金澤とふたりで、吉羅のいる部屋へと踏み入れた。 「吉羅」 金澤が声を掛けると同時に、吉羅が顔を上げ、香穂子は息を呑む。 吉羅は想い出のなかよりも更に威厳を増して男になっていた。 鼓動がおかしなリズムを刻み、忘れていた甘い感情がわき上がってくる。 吉羅もまた直ぐに香穂子に気付いたのか、神経質に目をスッと細めた。 「これは、これは、珍しいひとをお連れなようですね」 吉羅の声はかなり刺があり冷たい。 だが怯めない。 香穂子は勇気をかき集めながら、吉羅を見た。 「…あの…、吉羅さん…。…私…、あなたにお願いがあって…」 そこまで言ったところで、視界がグラリとする。 意識が不意に暗転し、香穂子はその場で崩れ落ちた。 |