*追憶*


 胸の上を不快な機械が動いているのを感じる。
 誰かの気配。
 そして冷たさ。
 早くここから抜け出したいと思いながら、香穂子はゆっくりと目を開けた。
「…あ…」
 視界に飛び込んで来たのは、白衣を着た医師の姿。胸に押し当てられたのは聴診器。
 香穂子は慌てて飛び起きた。
「…あ、あのっ…。わ、私に治療なんて必要ないんですっ!」
 本当に必要ない。
 まだ怠さと熱が続いてはいるが、診て貰った医師からは治ったという御墨付きを貰ったのだから。
 香穂子が治療を拒否するように背中を向けると、医師は苦笑いを浮かべる。
「困りましたね、吉羅さん」
 その名前を聞いて、香穂子はゾッとする。
「…香穂子、治療はきちんと受けるんだ。先生の判断だと、君の疾患は快方には向かってはいるが、まだ 充分に治りきってはいない。君は休養が必要なんだ。大人しく治療を受けなさい」
 吉羅は忌々しい者を見つめるように呟くと、香穂子をじっと見つめる。
「…大丈夫です。本当に。ちゃんとお医者さんに診て貰っていますから」
 嘘ではない。これは本当だ。確かにきちんと医師には診て貰った。ただし、医師の質という点においては問題はあるかもしれないが。
「先生は大丈夫だとおっしゃったので、大丈夫です」
 香穂子がかたくなにキッパリと言うと、吉羅は冷徹に目をスッと細めた。
「そんなに顔色が悪くて…、栄養不良のように痩せていたら、素人が見ても悪いとしか思えないが…。違うかね…?」
「…そ、それは…」
 吉羅の目はやはり誤魔化せない。
 この冷徹な瞳は、様々なことを見ているのだから。
「…とにかく抗生物質と消炎剤を出しておきますから、それを飲んで、栄養のあるものを食べて、しっかりと休んで下さい」
 医師は諦めたように溜め息を吐くと、共に来ていた看護師に処方箋を書いて渡す。
「…ゆっくりと休んで下さい。そうすれば良くなりますから」
 医師は穏やかに微笑むと、その場を辞する。
「それでは私はこれで。看護師が薬をお持ちしますから、それをお受け取りになって下さい」
「…有り難うございます」
 香穂子はぶっきらぼうに礼を言うと、寝かされていたソファにぎこちなく腰を下ろした。
「先生、有り難うございました」
 吉羅はクールに言うと、医師を見送った。
 ゆっくりと吉羅は振り返り、香穂子に近付いてくる。
 整った顔には冷たさが滲み、香穂子はこころが冷える気分になる。
 吉羅の冷徹な威嚇に、いくら困り果てたからといって、ここに来るべきではなかったと後悔していた。
「…君が今更私に逢いに来たのは、余程、困ったことがあったのだろうが…、それは何なのかね?」
 少しは再会の余韻が感じられると思っていたのに、吉羅は驚くほど事務的だった。
 この人に頼んでも良い返事は得られないかもしれない。
 香穂子は思い詰めるように唇を噛むと、俯いた。
 それにこの人に頼めば、息子の存在を知られてしまう。
 取り上げられるのも、否定されるのも、今の香穂子にはどちらも辛い。
 だったら何も頼まないほうが懸命だ。
「…吉羅さん、やはりここに来たのは間違いでした。申し訳ありません。ご迷惑を沢山お掛けしました…」
 香穂子が小さくなって俯くと、吉羅は更に冷たいまなざしになる。
「…私に出来ることであれば力になろう」
 吉羅の声はとても冷たい。こんな想いがないひとに縋ってもしょうがないのだろう。
 まだ愛してくれているかもしれないというのは、香穂子が抱く幻想に過ぎなかったのだろう。
 そんなものに縋った自分がバカなのだ。
「本当にごめんなさい。…私、帰ります。もう吉羅さんにお目にかかることはないかと思いますが、最後にこのようなご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありません」
 香穂子は毅然と立ち上がって、歩こうとした。
「…あ…」
 また酷い目眩がする。
 足元がよろめいたところで、吉羅に腕を掴まれた。
「…歩ける状態ではないじゃないか!? 無理をするんじゃない」
 吉羅は香穂子を厳しい声で叱る。
「…大丈夫です…。私…」
「大丈夫じゃないだろう…。全く…座りなさい…」
 吉羅に肩を支えられて、香穂子は再びソファに腰を掛けることとなった。
 吉羅は直ぐに内線を手に取る。
「金澤さんには心配ないと伝えて、帰って頂いてくれ。後、これからの予定はキャンセルする。それと温かいミルクと甘いケーキを持ってきてくれ。ミルクレープで構わない」
 吉羅の話す内容をぼんやりと聞きながら、香穂子は小さくなった。
 電話を終えると、香穂子を見つめてくる。
「…吉羅さん、あの…、大丈夫ですから。私、帰りますから、予定はキャンセルされないで下さい」
 香穂子はもう一度踏ん張って立ち上がろうとしたが、上手く出来なかった。
 直ぐに吉羅に腕を掴まれて、ソファに座らされた。
「…全く、頑固なことも変わってはいないね…。以前は、もっと素直だったかな…?」
 吉羅は目をスッと細めると、香穂子の目の前に立ちはだかる。
「落ち着いてから話を聞こう。先ずは少し腹拵えでもしなさい」
 程なくして秘書が、温かなミルクとミルクレープを持ってきてくれた。
「ご苦労だった」
 吉羅は低い声で労を労った後、香穂子の向かい側に腰を下ろした。
「食べなさい」
「…有り難うございます」
 病気をしてから余り食欲はない。
 だが甘いものであるならば、それなりに食べられそうだ。
「…いただきます」
 香穂子はミルクを口にする。ほんのりと蜂蜜の味がしてしかも人肌よりも少し温かなちょうど良い温度だ。
 ミルクを飲み、ミルクレープを少し口にすると、落ち着いてくる。
「…落ち着いたかね…?」
「…はい…」
 香穂子はホッとして息を吐くと、吉羅を見た。
 今は背に腹は変えられない。
 母子で暮らすためには、少しだけ吉羅の助けがいる。
「…吉羅さん…。お願いしたいことですが…、あなたに電話一本して頂きたいところがあるんです。それだけで構いません」
「電話…?」
 吉羅は訳が解らないとばかりに眉根を神経質に寄せた。
「…何処に電話をすれば良いんだ? そして、その理由を聞かせてくれ」
 香穂子は頷くと、深呼吸をする。
 年齢や吉羅の子どもであることを言わなければ、バレることはないはずだ。
「…児童相談所に電話をして頂きたいんです。私が病気になってしまって身動きが取れなくなったので、赤ちゃんを相談所の施設で強制的に保護をされてしまったんです。私からの電話だと、赤ちゃんを返して貰えなくて…。だから…、社会的地位のあるあなたに頼めば、簡単に返して貰えるかもしれないと…考えたんです…」
「…赤ちゃんね…」
 吉羅は何処か軽蔑するようなまなざしを向けて来る。自分と別れて、他の男と付き合ったのだろうかとでも思っているのだろう。
 実際は吉羅の子どもなのだが、そう思わせておけば良い。
「…ご主人はどうした?」
 吉羅が左手薬指を見ているのは解っている。
「亡くなったんです。生まれて直ぐに。それで働きながら何とか子育てをしていたんですが、病気になってしまって…。ウィルスの病気のようなんですが、なかなか感染することはないんですが、疲れていたのか感染してしまって…」
 香穂子が俯くと、吉羅は溜め息を吐いた。
「それで君から赤ん坊が引き離されたんだな」
「そうです…」
「名前は?」
 名前と言われて背筋が凍り付く。
 名前を言えなかった。


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