*追憶*

3


 名前を言えば、息子が吉羅の子どもであることが解ってしまう。
 それだけは避けたい。
「名前は? 名前が分からなければ、君の子どもを助けてあげることは出来ないよ」
 当然のことを言っているだけなのだ、吉羅は。
 だが香穂子はなかなか言えなかった。
「…あ、あの…。日野、日野暁愛(あきよし)と言います…」
「日野…暁愛…ね…」
 吉羅は意味深なまなざしを向けると頷いた。
「解った。電話を掛けよう。ただし、条件がある」
 吉羅はキッパリと言うと、香穂子を見つめる。
「…その躰を先ずは治すんだ…。余り良い状態ではなさそうだからね。ただし、私が君の病状を把握出来るようにしてくれたまえ。私の会社が持っているペントハウスがある。来客用の場所だが、躰が良くなるまでは、そこに滞在するんだ。そうでないと、また元の木阿弥になるだろう。今はとにかく、徹底的に躰を治すんだ。良いね」
 吉羅は香穂子を諭すように言うと、頬をそっと撫でてくる。
 その柔らかな感触に、香穂子は心臓が飛び上がるかと思うほどにドキリとした。
 こんなにも切なくて甘い官能的な感覚は久しぶりだ。
「…あ、あの…。何だか吉羅さんに庇護されているようで、それは嫌です…。狭いですが…、家ならちゃんとありますし…、そこまでして頂くのは忍びないです…」
 香穂子はやんわりと断るが、吉羅がそれを許してはくれそうにない。
 吉羅は冷徹な瞳を香穂子に向けると、ピシャリと睨み付けた。
「…今は、君の感情など関係ないはずだが違うかね? 君は、赤ん坊を手に入れたい。それには育てるための健康な躰が必要だ。解っているのかね? 君は…」
 吉羅に厳しく至極真面なことを言われ、香穂子は反論する言葉がない。
 吉羅の会社が所有するペントハウスなのが気になる。
「…私はそこには住んでいるから心配はない」
 まるで香穂子を安心させるかのように吉羅は言う。
「有り難うございます…」
 香穂子は正直言ってホッとした。
 吉羅と同じ家でなければ、何とかなると思ったから。
 息子には逢わせないようにすれば良いのだから。
 ほんの少しだけだ、
 元気になって仕事が出来るようになったら、直ぐに吉羅のところから立ち去れば良いのだから。
 香穂子はそう思う、決意することにする。
 今の状態では、それがベストだと思えたから。
「…解りました。治れば直ぐに出ます。申し訳ございませんが、少しの間、お世話になります…」
 吉羅の表情が少しだけ柔らかくなるような気がした。
「ペントハウスを準備するのに三日の時間を貰いたい。君はその間、ホテルに滞在してくれたまえ」
 吉羅の言葉に、香穂子は首を横に振る。
 わざわざホテルまで用意をして貰うわけにはいかないからだ。
「…自宅がありますから、それまでは…」
「ダメだ。自宅だと君の体調を診ることが出来ないからね」
「…吉羅さん…」
「君が病気を治すのが先決だ。良いね」
 吉羅はこれ以上は譲らないとばかりにキッパリと言い切っている。
 香穂子は受け入れることを決めると、小さく頷いた。
「…解りました」
 吉羅は頷くと、秘書のいる部屋へと入っていく。
 一人になって、香穂子は溜め息を吐いた。
 吉羅に逢ったことで、息子とまた一緒に暮らすための突破口が開かれた。
 それには感謝している。
 香穂子は気を取り直して、残りのミルクレープを口に運ぶ。
 まるで過去に置いて来た吉羅との恋のように甘い味がした。
 ミルクレープを食べ終わる頃、吉羅が戻ってきた。
「ミルクを飲み終わったら支度をしたまえ。当座の荷物を取りに行って貰う」
「お手間を取らせたくはありませんから…、場所を教えて頂ければ、当座の荷物を纏めてからそちらに伺います」
「いいや。車を出すからそのまま連れていく」
 吉羅は冷たく言うだけだ。
 何がなんでもそれは認めないとばかりの態度に、香穂子はこころの中で溜め息を吐く。
 ここで従わなければ、吉羅のことだ。強引に言ってくるだろう。
「…解りました…」
 写真を見られなければ良い。そうすれば、吉羅の子どもであることもバレやしないはずだ。
 少なくとも。
 香穂子がミルクを飲み終える様子を、吉羅は監視するように見つめていた。
 飲み終わるタイミングで、吉羅の携帯電話が鳴り響く。
 吉羅は舌打ちをすると、直ぐに電話に出た。
「はい、吉羅だ…。あ…君か…すまないね…。今日の予定は中止してくれたまえ…。ああ、先ほど秘書から連絡をしたはすだが…。また、埋め合わせをしよう。今日は外せない用が出来てね…。申し訳ないが…」
 吉羅の電話の内容が、聞きたくなくても聞こえてくる。恐らくは恋人なのだろう。
 そう思うと、胸が激しくいたんだ。
 吉羅に愛するひとがいてもおかしくはない。
 もう二年近く経つのだから。
 吉羅にも、吉羅の恋人にも悪い気がする。
 こんなことを頼んでどうかしていたのかもしれない。
 香穂子は静かに立ち上がると、ドアへと向かう。
 そうだ。子どもの父親かもしれないが、このようなことを頼む通りはないのかもしれない。
 香穂子はそっと吉羅に解らないように部屋を出る。
 秘書の部屋を通り抜けなければならないが、タイミング良く電話していた。
 有り難い。
 エレベーターホール前まですんなりと来ると、香穂子はエレベーターのボタンを押した。
「…相変わらず…君は逃げるのが上手いときているね…」
「…吉羅さん…」
 振り返ろうとして、いきなり腕を掴まれる。
「君の家まで案内をしたまえ。全く…相変わらず手間がかかるね…」
 吉羅は何処か苛立つように言うと、香穂子を睨み付けた。
「…ごめんなさい…吉羅さんのスケジュールを台無しにしてしまいました。今日のお願いはなかったことにして下さい」
 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅は不快そうに目を細めた。
「…既に手配を始めている。キャンセルはきかないからそのつもりで」
 吉羅はキッパリと言うと、香穂子と一緒にエレベーターに乗り込んだ。
 こんなにも緊張をする空間は他にないのではないかと、香穂子は思ってしまう。
 吉羅に逃げないようにと腕を掴まれたまま、呼吸が出来ないようになっていた。

 ようやく見つけたのだ。
 未亡人になっていようと関係はない。
 本人は気付いてはいないだろうが、吉羅の人生のなかで最も愛した女だった。
 だから逃がすことはしたくはなかった。
 以前よりも柔らかな女らしさを秘めているのに、華奢になっている。
 親子ふたりの生活と、病気が余程堪えたのだろう。
 こうしてしっかりと掴んでいても、また泡沫のように消えてしまうのではないかと思ってしまう。
「…吉羅さん…、あの…逃げませんから…」
 香穂子は戸惑うように言っているのが、何処か切なくなる。
「逃げないと言われても、逃げるのが君の常套手段ではないのかね?」
 つい冷たい厭味を言ってしまう。それほど、吉羅は香穂子に去られたことがショックだったのだ。
「…吉羅さん…、本当に何処にも逃げません」
 逮捕されたような悲痛な顔をする香穂子が、何処か気に入らなかった。
 駐車場まて行き、香穂子を車まで連れていく。
 以前はよく乗せていたフェラーリだ。
 香穂子は助手席に乗ろうとはしなかったが、強引にそこに乗せた。
「日野君…、今は何処に住んでいるのかね?」
「京急の…六郷です」
「六郷だね」
 吉羅はハンドルを取ると、香穂子の家に向けて車を出した。


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