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名前を言えば、息子が吉羅の子どもであることが解ってしまう。 それだけは避けたい。 「名前は? 名前が分からなければ、君の子どもを助けてあげることは出来ないよ」 当然のことを言っているだけなのだ、吉羅は。 だが香穂子はなかなか言えなかった。 「…あ、あの…。日野、日野暁愛(あきよし)と言います…」 「日野…暁愛…ね…」 吉羅は意味深なまなざしを向けると頷いた。 「解った。電話を掛けよう。ただし、条件がある」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子を見つめる。 「…その躰を先ずは治すんだ…。余り良い状態ではなさそうだからね。ただし、私が君の病状を把握出来るようにしてくれたまえ。私の会社が持っているペントハウスがある。来客用の場所だが、躰が良くなるまでは、そこに滞在するんだ。そうでないと、また元の木阿弥になるだろう。今はとにかく、徹底的に躰を治すんだ。良いね」 吉羅は香穂子を諭すように言うと、頬をそっと撫でてくる。 その柔らかな感触に、香穂子は心臓が飛び上がるかと思うほどにドキリとした。 こんなにも切なくて甘い官能的な感覚は久しぶりだ。 「…あ、あの…。何だか吉羅さんに庇護されているようで、それは嫌です…。狭いですが…、家ならちゃんとありますし…、そこまでして頂くのは忍びないです…」 香穂子はやんわりと断るが、吉羅がそれを許してはくれそうにない。 吉羅は冷徹な瞳を香穂子に向けると、ピシャリと睨み付けた。 「…今は、君の感情など関係ないはずだが違うかね? 君は、赤ん坊を手に入れたい。それには育てるための健康な躰が必要だ。解っているのかね? 君は…」 吉羅に厳しく至極真面なことを言われ、香穂子は反論する言葉がない。 吉羅の会社が所有するペントハウスなのが気になる。 「…私はそこには住んでいるから心配はない」 まるで香穂子を安心させるかのように吉羅は言う。 「有り難うございます…」 香穂子は正直言ってホッとした。 吉羅と同じ家でなければ、何とかなると思ったから。 息子には逢わせないようにすれば良いのだから。 ほんの少しだけだ、 元気になって仕事が出来るようになったら、直ぐに吉羅のところから立ち去れば良いのだから。 香穂子はそう思う、決意することにする。 今の状態では、それがベストだと思えたから。 「…解りました。治れば直ぐに出ます。申し訳ございませんが、少しの間、お世話になります…」 吉羅の表情が少しだけ柔らかくなるような気がした。 「ペントハウスを準備するのに三日の時間を貰いたい。君はその間、ホテルに滞在してくれたまえ」 吉羅の言葉に、香穂子は首を横に振る。 わざわざホテルまで用意をして貰うわけにはいかないからだ。 「…自宅がありますから、それまでは…」 「ダメだ。自宅だと君の体調を診ることが出来ないからね」 「…吉羅さん…」 「君が病気を治すのが先決だ。良いね」 吉羅はこれ以上は譲らないとばかりにキッパリと言い切っている。 香穂子は受け入れることを決めると、小さく頷いた。 「…解りました」 吉羅は頷くと、秘書のいる部屋へと入っていく。 一人になって、香穂子は溜め息を吐いた。 吉羅に逢ったことで、息子とまた一緒に暮らすための突破口が開かれた。 それには感謝している。 香穂子は気を取り直して、残りのミルクレープを口に運ぶ。 まるで過去に置いて来た吉羅との恋のように甘い味がした。 ミルクレープを食べ終わる頃、吉羅が戻ってきた。 「ミルクを飲み終わったら支度をしたまえ。当座の荷物を取りに行って貰う」 「お手間を取らせたくはありませんから…、場所を教えて頂ければ、当座の荷物を纏めてからそちらに伺います」 「いいや。車を出すからそのまま連れていく」 吉羅は冷たく言うだけだ。 何がなんでもそれは認めないとばかりの態度に、香穂子はこころの中で溜め息を吐く。 ここで従わなければ、吉羅のことだ。強引に言ってくるだろう。 「…解りました…」 写真を見られなければ良い。そうすれば、吉羅の子どもであることもバレやしないはずだ。 少なくとも。 香穂子がミルクを飲み終える様子を、吉羅は監視するように見つめていた。 飲み終わるタイミングで、吉羅の携帯電話が鳴り響く。 吉羅は舌打ちをすると、直ぐに電話に出た。 「はい、吉羅だ…。あ…君か…すまないね…。今日の予定は中止してくれたまえ…。ああ、先ほど秘書から連絡をしたはすだが…。また、埋め合わせをしよう。今日は外せない用が出来てね…。申し訳ないが…」 吉羅の電話の内容が、聞きたくなくても聞こえてくる。恐らくは恋人なのだろう。 そう思うと、胸が激しくいたんだ。 吉羅に愛するひとがいてもおかしくはない。 もう二年近く経つのだから。 吉羅にも、吉羅の恋人にも悪い気がする。 こんなことを頼んでどうかしていたのかもしれない。 香穂子は静かに立ち上がると、ドアへと向かう。 そうだ。子どもの父親かもしれないが、このようなことを頼む通りはないのかもしれない。 香穂子はそっと吉羅に解らないように部屋を出る。 秘書の部屋を通り抜けなければならないが、タイミング良く電話していた。 有り難い。 エレベーターホール前まですんなりと来ると、香穂子はエレベーターのボタンを押した。 「…相変わらず…君は逃げるのが上手いときているね…」 「…吉羅さん…」 振り返ろうとして、いきなり腕を掴まれる。 「君の家まで案内をしたまえ。全く…相変わらず手間がかかるね…」 吉羅は何処か苛立つように言うと、香穂子を睨み付けた。 「…ごめんなさい…吉羅さんのスケジュールを台無しにしてしまいました。今日のお願いはなかったことにして下さい」 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅は不快そうに目を細めた。 「…既に手配を始めている。キャンセルはきかないからそのつもりで」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子と一緒にエレベーターに乗り込んだ。 こんなにも緊張をする空間は他にないのではないかと、香穂子は思ってしまう。 吉羅に逃げないようにと腕を掴まれたまま、呼吸が出来ないようになっていた。 ようやく見つけたのだ。 未亡人になっていようと関係はない。 本人は気付いてはいないだろうが、吉羅の人生のなかで最も愛した女だった。 だから逃がすことはしたくはなかった。 以前よりも柔らかな女らしさを秘めているのに、華奢になっている。 親子ふたりの生活と、病気が余程堪えたのだろう。 こうしてしっかりと掴んでいても、また泡沫のように消えてしまうのではないかと思ってしまう。 「…吉羅さん…、あの…逃げませんから…」 香穂子は戸惑うように言っているのが、何処か切なくなる。 「逃げないと言われても、逃げるのが君の常套手段ではないのかね?」 つい冷たい厭味を言ってしまう。それほど、吉羅は香穂子に去られたことがショックだったのだ。 「…吉羅さん…、本当に何処にも逃げません」 逮捕されたような悲痛な顔をする香穂子が、何処か気に入らなかった。 駐車場まて行き、香穂子を車まで連れていく。 以前はよく乗せていたフェラーリだ。 香穂子は助手席に乗ろうとはしなかったが、強引にそこに乗せた。 「日野君…、今は何処に住んでいるのかね?」 「京急の…六郷です」 「六郷だね」 吉羅はハンドルを取ると、香穂子の家に向けて車を出した。 |