*追憶*

4


 吉羅の車に乗ると、ひどく緊張してしまう。
 以前は、吉羅の車に乗るのが大好きで大好きでしょうがなかったのに、今は何処か苦しい切なさがある。
 香穂子は躰を堅くしたまま、何も話さずにじっとしていた。
 吉羅も恐らくは話したくはないだろう。
 吉羅の子どもを勝手に産んでしまったことを、内緒にするしかない。
 吉羅にも、吉羅の恋人にも、至極迷惑な話だ。今となっては。
 香穂子は、吉羅に写真だけは見せてはならないと決める。
 姿を見てしまえば、直ぐに真実はバレてしまうのだから。
「…間も無く六郷だ…。ナビをしてくれたまえ」
「…はい。駅からは歩いて二十五分ぐらいのところの、ワンルームです…。この道を真っ直ぐ行って下さい」
「解った」
 香穂子は、フェラーリが全く似合わない我が家に、吉羅を案内する。
「吉羅さん、そこを左手に曲がったところの、小さなアパートです」
 吉羅は頷くと、直ぐにアパートの前に車を停めた。
「…では、荷物を持って来ます。赤ちゃんと私の」
「私も行こう」
 吉羅の一言に、香穂子は一瞬背筋を震わせる。
 部屋には息子のとっておきの写真ばかりを飾っている。
 どうしても家に上げるわけにはいかなかった。
「大丈夫です。直ぐに荷物を持って来ますから。吉羅さんは待っていて下さい…。あ、あの、逃げませんから」
 香穂子は早口で言うと、直ぐに車から飛び出した。
 アパートの部屋に向かい、大切な息子の写真を素早くバッグの中に入れてしまった。その後で当座の着替えを息子と二人分、キャリーバッグに詰めていく。
 不意にノックがして、香穂子は顔を上げた。
「日野君、吉羅だ。本当に大丈夫なのかね?」
「もう終わりますから」
 香穂子は早口で言うと、キャリーバッグを閉めて玄関へと向かった。
「お待たせしました」
 香穂子がキャリーを持ってドアを開けると、吉羅が無言のままでそれを受け取ってくれた。
「有り難うございます」
 香穂子がしっかりと戸締まりをしている間に、吉羅が車にキャリーバッグを運んでくれた。
 少ししたらここにまた戻って来られる。そうしたら仕事を見つけて、ここから引越してしまえば良いから。
 車に乗り込むと、吉羅は横浜方面にハンドルを切った。
「ベビーベッドはないようだが、一緒に寝ているのかね?」
「はい。一緒に寝ています」
「そんなんだったら、毎晩、気が休まらないだろう?」
 吉羅は信じられない徒労だとばかりに、眉根を寄せた。
「大事に子ですから、一緒に眠るのは苦ではありません。むしろ大好きです」
「…そうなのか…」
 吉羅は何処か気に入らないとばかりにムッとしている。その表情から、かなり機嫌が悪いことが想定されたから。
 香穂子はあえて何も語らず、じっとしていた。
 車は、みなとみらい地区の外資系高級ホテルへと向かう。
 香穂子は思わず息を呑んだ。
 かつて吉羅と愛し合ったホテル。
 そして息子を授かった場所だ。
 信じられなくて、香穂子は思わず呻き声を漏らした。
「吉羅さん…、こんな高いホテルでは、私の経済力ではかなり厳しいです。お願いですから、普通のビジネスホテルにして頂けませんか? …お風呂に入って眠るだけですから…」
「ダメだ」
 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子を睨み付けた。
「ホテルの代金は私が持つから問題はない。部屋はスィートだと君が気後れをするようだから、ダブルルームを取っておいた。これからゆっくりと三日間は療養したまえ。赤ん坊が来たら、君はまた休まる暇はないだろうからね」
「…有り難うございます。ここまでお気遣い頂いて、本当に申し訳ありません。有り難うございます」
 香穂子は小さくなりながら頭を下げると、本当に申し訳がなくて恐縮するしかなかった。
「さあ行こうか」
「…はい」
 キャリーバッグを持とうとしたが、吉羅に素早く持たれてしまった。
 フロントに行き、手早く手続きを済ませた後で、吉羅とふたりで部屋に向かう。
「…日野君、ゆっくりとしたまえ。後、医師を手配しておいたから診察を受け、薬を飲むんだ。子どもに逢うには、健康な躰でなければならないからね」
「はい。解っています」
 部屋に入り、荷物を置くと、流石にホッとする。
 やはりかなり疲労を感じていたからだろう。
 不意に吉羅の携帯電話が鳴り響く。
「先生、有り難うございます。はい、直ぐにお迎えに上がります」
 吉羅は携帯電話を切ると、香穂子を見る。
「うちの会社の産業医が来た。直ぐに診察をして貰うから、座って待っていたまえ」
「…はい。有り難うございます」
 香穂子が小さく頷くと、吉羅は客室から出ていった。

 吉羅はエレベーターに乗り込むと、髪をかきあげながら溜め息を吐いた。
 香穂子が本当に今すぐ消えてしまうのではないかと思ってしまうからだ。
 あんなに透明感があり儚げな香穂子を、かつては見たことがなかった。
 明るい太陽のような可愛い女だという印象しか、吉羅にはない。
 この二年余りで、香穂子はかなり大人になった。
 本当に綺麗という言葉がこころからよく似合うと思う。
 吉羅は、また深く恋をしてしまうかもしれない予感を、切なくも感じていた。
 ロビーで医師と落ち合い、吉羅は改めて客室へと向かう。
 医師とふたりで客室に入ると、香穂子が立ち上がって挨拶をした。
「…有り難うございます」
「いいえ。では、きちんとした形で診察をしましょう。栄養不良でもあるから、栄養注射もしておきましょう」
「有り難うございます」
 今度はきちんと診察を受けなければならないと観念したのか、香穂子は大人しく診察を受けている。
 恐らくは赤ん坊のために受けているのだろう。
 香穂子の子どもにも、その父親にも嫉妬せずにはいられない。
 恋においての敗北感を、吉羅は初めて味わった。

 香穂子は医師の診断を受けた後、暫く、ベッドに横になっていた。
 こんなにもゆっくりと休めるのは久し振りかもしれない。
 今日一日休んだ後、明日からは仕事を探さなければならないと思う。
 今日だけは神様が与えてくれた休日。
 今日だけはロマンティックな幸せに浸ろう。
 明日からはリアルな幸せが待っているのだから。
 香穂子が横になっている間、吉羅はモバイルパソコンで仕事をしていた。
 相変わらずの仕事の鬼だ。
 だからこそここまでの会社にすることが出来たのだろう。
 相変わらず、仕事をしている吉羅はなんて素敵なのだろうかと思う。艶やかな男の色気は、香穂子が恋をしていた時以上だ。
 香穂子がじっと見つめていると、吉羅が視線に気付いた。
「起きたのかね?」
「…はい…」
「栄養のあるものを食べないといけないからね。ルームサービスを頼もう。それを食べたら、私は帰るから、君はゆっくりと休息を取るんだ」
「有り難うございます」
 吉羅がいなくなる。
 ホッとしても良い筈なのに、香穂子は泣きたいぐらいの切なさを感じてしまう。
 本当に吉羅が好きでしょうがないのだということを、改めて感じるしかなかった。
 吉羅は直ぐにルームサービスを手配してくれる。
 香穂子は躰を起こすと、吉羅の向かい側のソファに腰を下ろした。
「…子育ての苦労は分かるが、もう少しぐらい太らなければならないね。君は…」
 一瞬、吉羅の指先が頬を掠める。
 あまりの甘さに呼吸がおかしくなりそうだった。


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