*追憶*


 久々に吉羅に触れられて、香穂子は呼吸がおかしくなるのではないかと想った。
 吉羅への想いが鮮やかに蘇る。
 本当にこころから愛したひと。
 これほどまでに愛した男性は他にいないのではないかと思うほどだ。
 もう傷付きたくはないから、ときめくことはしたくない。今度吉羅に捨てられてしまったら、それこそ立ち直れそうにない。
 だが、恋心はやはり正直だ。ときめく余りに鼓動が激しくなり、息が出来なくなる程に、吉羅の存在感を感じている。
 不意にインターフォンが鳴り、吉羅は立ち上がった。
「…ルームサービスが来たようだ」
 吉羅がドアを開けると、何人かのホテルスタッフが部屋の中に入り、食事のセッティングをしてくれた。
 まるで夢のようだ。
 こんなことは、吉羅と別れてからなかったことだ。
「…しっかりと食べるんだ。君の病がなかなか治らないのは、栄養不良が原因だと思うからね」
「…有り難うございます」
 何だか吉羅に施しを受けているようで、香穂子は切ない。自分と吉羅の住む世界が余りにも違うことを思い知らされるようで痛かった。
「…いつか恩返しをします。本当に申し訳ありません。直ぐに子どもと暮らして自立が出来るように頑張ります」
 香穂子は誓うように言い、吉羅を見た。しかし、吉羅は不機嫌そうに眉を上げただけだった。
「…焦らなくて良いんだ、香穂子。今はしっかりと治すことだけを考えなさい」
「有り難うございます」
 しっかりと治して、二度と吉羅に迷惑をかけないようにしなければならないと、香穂子は強く思った。
「いただきます」
 並べられた食事を、一生懸命食べる。美味しいとは解ってはいても、余り入らない。これも病気が完全に 治っていない証拠なのだろうと思った。
 吉羅はまるで監視をするように見つめて来る。
 きちんと食べているかを視ているのだろう。
「君は食が随分と細いね。早く元気になるためにも、しっかりと食べなさい」
「…はい」
 なるべく自分が食べられる範囲で香穂子は食事を取った。
 総ては食べきられなかったが、かなり頑張ったつもりだ。
 食事が終わると、吉羅は直ぐに片付けを呼んでくれる。
 綺麗に片付け終わったところで、吉羅が立ち上がった。
「今夜はゆっくりと眠るんだ。明日の夕方に、産業医と共に様子を見に来る。それまではゆっくりしているんだ」
「あ、あの、それでは吉羅さんのスケジュールを無茶苦茶にしてしまいます。今夜薬を飲んで、もう少しゆっくりしていればきっと大丈夫ですから、吉羅さんは予定されていたスケジュールをこなして下さい」
 これ以上巻き込んでは吉羅に悪い。だがそれは建て前で、もう二度と吉羅には夢中になりたくはない。
 あんな切なくて辛い想いをするぐらいなら、二度まで恋には墜ちたくない。
 現に、今でも吉羅に恋に落ちかかっているのだから。
 踏みとどまらなければならない。
 吉羅はスッと目を細めると、恐ろしいほどに不機嫌な表情になった。
「…私のスケジュールなど君が気にする必要はないんだ。君は病気を治すことだけを考えるんだ。赤ん坊を 手に入れるのもこちらで手配をする。だから気にするな」 
 冷酷過ぎるまなざしに、香穂子は息が詰まりそうになる。
 かつてこれほどまでの冷たい表情を、吉羅はしなかった。なのに今は苦々しいと思う程に、厳しい顔をする。
「…吉羅さん…」
 香穂子は唇を噛むと、俯いてしまう。
「ゆっくりと風呂にでも入って眠るんだ。良いね」
「はい…」
 再び吉羅の手のひらが頬を包み込む。
 そうされると甘くて満たされた幸せがこころに滲んでくるのが不思議だ。
 この男性にもう少しで良いから触れていて欲しい。
 だがそれは今となっては難しいことだ。
 吉羅にとっては遠い昔に捨てた恋なのだから。
「…解りました。今夜はゆっくりと眠ります…。おやすみなさい…」
 香穂子は素直に言うと、静かに吉羅から身を引く。
「おやすみ」
 吉羅は低い声で呟くと、静かに部屋から出て行った。
 ひとりぼっちになり、寂しさがいつも以上に込み上げてくる。
 吉羅が居なくなってホッとしているはずなのに、泣きそうになった。
 もう少しそばに居て欲しかっただなんて、余りにも虫が良過ぎる。
 息子のことを想いながらも、香穂子はより吉羅のことを考えている自分に気付いていた。
 まだ好きなのは解っている。
 まだ愛していることも。
 だが、踏みとどまらなければならないのだ。
 二度と恋には墜ちないから。
 香穂子は溜め息を吐くと、バスルームへと向かう。
 気持ちを息子へと切り替えたかった。

 吉羅は車で自宅に戻りながら、香穂子の頬に触れた感覚を思い出していた。
 想い出のなかよりも、更に柔らかくて甘い感触だった。
 もう一度、この胸に抱くことが出来たら良いのにと、思わずにはいられない。
 香穂子が産んだ子どもを引き取っても構わない。他の男の子どもであるのはある意味痛い事実かもしれないが、それでも香穂子の子どもであるというだけで、素直に愛せるような気がした。
 香穂子のかたくななこころをどうにかしたい。
 ようやく見つけたのだから。
 一緒にいた時には、その存在の大切さは気付かなかった。
 だが、今なら分かる。
 香穂子はかけがえのない女だということを。
 だからこそ、今度こそは手に入れたいと思っていた。
 香穂子を離さない。
 再び出会えば、そうしようとずっと決めていたことだ。
 永続的な約束は結べない。
 結婚と誰かを愛して恋をすることは、全くの別物であるからだ。
 結婚は打算やこれからの生活設計が拘ってくる。
 だが、恋は純粋に愛したい、そばにいたいと思う気持ちだけで成立する。
 恋愛と結婚は別だと、吉羅は常日頃考えてはいた。
 香穂子に恋をしている。
 それは紛れもない事実。
 吉羅は香穂子を暫くはそばにおきたいと考えていた。

 余りに疲れていたからだろうか。
 余りに薬が効いたからだろうか。
 香穂子は久し振りに熟睡し、九時近くまで眠ってしまった。
 こんなことは久し振りだ。
 子どもを産んでからは目まぐるしい日々が続いていたから、きちんと睡眠を取った覚えはなかった。
 まだ完全に乳離れをしたわけではないから、息子におっぱいを上げるために、何度も夜中に起きたりもしていた。
 仕事をしていたから、それぐらいしかしてやれなかったから。
 いつも息子だけを気にかけ、支えにして頑張ってきた。
 睡眠時間も随分と削っていた。
 それが病気の引き金になったのは否定出来ないが、香穂子はそんな生活でも幸せだと思っていた。
 シャワーを浴び、バスルームを片付け、ベッドをきちんと整えた後、香穂子は外に出ることにする。
 仕事の情報誌が欲しいし、ブランチも取りたい。
 カギをフロントに渡しに行くと、支配人が出て来た。
「日野様、朝食の準備が出来ていますから、レストランへと向かって下さいませ」
「あ、あの、私は外で食べようと思っていたんですが…」
「総ての食事は手配が出来ております。朝食を取られる間に、お部屋の掃除もしておきますから。食事が終わられたら、お部屋にご案内致します」
 直ぐに吉羅の差し金であることが分かる。
 逃げないように手配したのだろう。
 逃げはしない。
 息子をこの手に抱くまでは。
「…解りました」
「では案内致します」
 支配人に連れられて、香穂子は海の見えるテラスへと案内された。


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