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用意されていた朝食は、香穂子の体調を考慮してか、消化の良い和食だった。お粥をベースにしてあったので、正直言って助かった。 食事を終えた後、香穂子は海が見えるホテルの中庭に出る。 本当にここは別世界だ。 横浜だとは思えなくなる。 清々しい風を浴びながら、香穂子はゆっくりと中庭を散歩した。 庭には夏の麗しい花向日葵が咲いている。 本当に美しいと香穂子は思った。 太陽を愛する余りに、太陽の姿を形取ってしまった花だ。 ゆっくりと花を楽しんだ後でフロントに行くと、掃除が完了したとキーを渡された。 礼を言って、香穂子は部屋に戻る。 息子はどうしているだろうか。 吉羅はきちんと連絡をしてくれたのだろうか。 そんなことを考えてしまう。 庭を歩いただけで疲れてしまい、香穂子はベッドに横になることにした。 息子のためにも早く元気にならなければならない。 働けるようになったら、また以前のように息子と慎ましい生活をしていこうと、香穂子は決めていた。 勿論、吉羅にはきちんと恩返しをするつもりだ。 かつてひとときだけ関係のあった女に、ここまで良くしてくれたのだから。 香穂子はベッドの上で溜め息を吐く。 息子を取り戻したら、もう吉羅とは逢うことはないだろう。 逢ってはならない。 経済界の若き支配者と囁かれている吉羅暁彦に、隠し子がいたなんてスキャンダルは許されないことだからだ。 勝手に産んだのだから、吉羅を巻き込むわけにはいかない。 だから消えなければならない。 頭ではそれを解っているというのに、香穂子は離れがたい感情に苦しめられる。 今でも好きだ。 それは変わらない。 だが、そんな感情は、吉羅には迷惑になるだけなのだから。 香穂子は苦しくてたまらないと感じながら、静かに目を閉じた。 どれぐらい眠っていたかは解らない。 香穂子が目覚めると、二時近くになっていた。 ランチを食べなければ、恐らく吉羅が怒るだろう。 香穂子はのろのろと起き上がると、レストランへと向かった。 そんなには食欲がなかったせいで、香穂子はあっさりとしたものしか食べられなかった。 これでもまだ食べられるようになったほうだ。 もう少し食べなければならないのは解ってはいるが、上手く食べることが出来なかった。 食事を終えて暫くすると、吉羅が手配してくれた医師が部屋を訪ねてきてくれた。 医師は丁寧に診察してくれ、香穂子の顔色を見てほんの少しだけ笑顔を見せてくれた。 「昨日よりは顔色が良くなっていますね。本当に良かった」 「有り難うございます。もう少しで良くなると思います」 香穂子が笑顔で言うと、医師は太鼓判を捺すように頷いてくれる。 「吉羅さんも喜ばれることでしょう。あなたの躰のことをかなり気遣っておられましたからね。仕事が終わったら、こちらに来られるとのことですよ。食事をせずに待つようにとのことですよ」 「解りました。有り難うございます」 「また、診に来ますから」 「はい。お手間をお掛けします」 香穂子は医師を見送った後、部屋のソファに腰を掛ける。 吉羅が来るまで、そのままじっとしていた。 吉羅は、児童相談所に対する連絡を、弁護士を通して慎重に行なった。 すると意外なまでにすんなりと手続きが取られることとなった。 香穂子の息子は、五日後には帰って来られる。 そしてふたりが安心して暮らすことが出来るセキュリティが万全に施されたマンションの手配も済んだ。 これで香穂子が願っていることを叶えてやることが出来る。 ただ、香穂子が回復するには未だ時間が掛かるようなので、迎えには吉羅が向かうつもりでいる。 行きたがるのは解ってはいたが、今の状態では行かせるわけにはいかなかった。 香穂子の子ども。 香穂子によく似ていれば、許せるかもしれない。だがもし父親に似ているとしたら…。 それこそ苦々しい想いを抱くことになるだろうから。 どうか香穂子の子どもが彼女に似ているようにと祈らずにはいられなかった。 仕事を素早く終えてから、吉羅は横浜へと向かう。 香穂子に子どもが帰ってくることを教えてやらなければならない。 マンションにも明日には向かえることも。 喜んでくれることだろう。 これでようやく息子と暮らすことが出来るのだから。 香穂子の病が順調に回復していることも医師から報告されている。 これで香穂子も落ち着いてゆっくり出来るはずだ。 だが、そうなれば、香穂子のことだ。六郷のアパートに帰ると言いかねない。 吉羅はどうすべきか考えを巡らせながら、車を真っ直ぐ横浜へと走らせた。 夕食を取る直前に、吉羅が姿を現した。 相変わらずクールな経済人ぶりを見せている。 「こんばんは、吉羅さん…」 「こんばんは。君に良い知らせを持って来た」 「本当ですか!」 香穂子にとって良い知らせというのは、息子が帰ってくることに他ならない。 香穂子は嬉しさの余りに、半ば興奮ぎみに吉羅を見上げる。 「あ、あの、それで、あきちゃんはいつ帰って来るんですか?」 「五日後に迎えに行くことになっている。それまでの手続きは弁護士がしてくれるから、安心しておきたまえ」 「…五日後…」 確かに帰ってくるのは嬉しいが、まだそれだけの時間を待たなければならないのが切ない。 しかしとにかく香穂子は帰ってくるのだ。それが嬉しい。 「吉羅さん、本当にお力添えを下さいまして、有り難うございました!」 香穂子は深々と頭を下げると、なかなか上げられなかった。 本当に吉羅にはよくして貰ったから。 「…有り難うございます…。…あきちゃんに会えるのが、ものすごく嬉しいです。有り難う…」 声が嬉しさの余りに震え、熱いものが込み上げてきた。 「顔を上げなさい。私は、単に電話をしただけだから」 「…吉羅さんのお陰で、息子をこの手で抱き締めることが出来るんですから…」 香穂子は顔を上げながら、熱い涙が瞳を潤すのを感じた。 「それまでにこのホテルを出て、うちが持っているマンションに移れるからね。新しい生活先として、社の来客用のマンションにしてある。そして君はうちの社員ということにしてある」 「有り難うございます」 あんなにも香穂子が懇願しても帰しては貰えなかったのに、社会的な地位がある吉羅のひとことで、こんなにもあっさりと認められたのだ。 名の通っている吉羅の会社の社員としてくれたうえに、マンションの地域も良かったということも作用しているのだろう。 「有り難うございます。これで息子と暮らせます」 「息子に逢うまでに、きちんと躰を治さなければならないからね」 「有り難うございます。頑張って治そうと思います」 「ああ。そうしたほうが良い」 吉羅は香穂子の頬に手を乗せると、少しホッとしたようなまなざしになる。 「先生が昨日よりも随分と状態が良いと言っていた」 「早く治して、あきちゃんに心配させないようにします」 「ああ。そうしてくれたまえ」 吉羅は頷くと、香穂子の頬からそっと手を離した。 「…じゃあ夕食に行こうか」 「はい、有り難うございます」 手こそは繋いではくれないが、吉羅は導くように前を歩いてくれる。 今はそれで充分だった。 レストランに入り、少しではあるが食事を楽しむ。 「五日後に迎えに行くのが楽しみです」 「そのことだが、私が迎えに行くから心配しなくて良い」 吉羅が迎えに行く? それこそ青天の霹靂だった。 |