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吉羅単独で決して迎えに行かれてはならない。 そうすれば総てが白日に晒されてしまう。 息子は生き写しと言っても過言ではなかったから。 いずれは解ることかもしれない。 だが少しでもリスクは回避をしたかった。 香穂子は深呼吸をすると、凜と背筋を伸ばして吉羅を真っ直ぐ見つめる。 「…吉羅さんもお仕事があるでしょうから…私が迎えに行きます…。それにあきちゃんも、私以外のひとが迎えに行っても驚いてしまうだけでしょうから」 「君が行きたいのであれば、体調が良いことを前提として来て貰うが、何分、相手方がお堅いお役所だからね。私が行くほうが良いだろう」 吉羅は正論を振りかざしてくる。 それが香穂子にとってはやはり切ない。 断ることが出来ないように巧みに仕向けてくる。 「…どうするかね? 君ひとりでいけば、また門前払いとなるのが関の山だと私は思うがね」 吉羅はさらりと言うと、香穂子を試すようなまなざしで見つめてくる。 これは一緒に行かざるをえない。 だがどうしたら誤魔化すことが出来るだろうか。 息子が吉羅の子どもであることは、誰が見ても直ぐに解る。 これほどまでに母親の面影を持っていない息子も珍しいと思うほどなのだ。 「…どうするかね? 君が私と行きたくないのであれば、私だけで迎えに行くことになるが、それでも構わないのかね?」 吉羅は狡い。簡単に香穂子を丸め込んでしまうのだ。 背に腹はかえられない。 似ていると指摘されても、亡き夫が吉羅に似ていたと誤魔化すしかない。それとも他人の空似として、断固譲らなければ良い。 香穂子は覚悟を決めると、こころを落ち着けさせるために深呼吸をした。 「…解りました…。吉羅さんと一緒に迎えに行きます…」 「そのほうが子どもも喜ぶだろう。知らないひとに迎えに来て貰うよりはね…」 「はい、そうですね」 確かに吉羅の言葉はいつも的確だから反論出来ない。それが香穂子には悔しかった。 俯いたまま唇を噛み締めていると、吉羅が怪訝そうに見つめてくる。 「…どうしたのかね? 何か不都合でもあるのかね…?」 思い切り不都合だと言いたいところを、グッと香穂子は堪えた。 「…いいえ…」 「なら、良いがね」 吉羅は思い切り眉を上げると、何処か皮肉げに香穂子を見つめた。 「とにかく。これで君の心配事はひとつ減ったはずだ」 「…そうですね」 「だから後は躰を治すことに集中したまえ」 「はい…」 とにかく今は早く病気を治さなければならない。 そしてまた息子とふたりで頑張って生きていけるように。励ましあって楽しく生きて行くようにするだけだ。 香穂子はそう決意すると先ずは食べなければならないと思った。 先ずは元気になること。それが先決だ。 元気になれば、吉羅ともきちんと対峙することが出来るはずだ。 香穂子が一生懸命食事を始めると、吉羅はフッと笑みを浮かべた。 「それぐらい食べなければならないね、君は。元に戻っても痩せ過ぎなぐらいなんだから」 「そんなことはないと思うんですけれどね…」 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅もまたフッと微笑む。 「しっかりと食べるんだ。君はこれをしっかりと食べても、まだ太り足りないからね」 香穂子はとにかくしっかりと食べなければならないと、もしゃもしゃと咀嚼をする。 それを楽しそうに見ている吉羅の瞳に、こころが甘く疼いた。 部屋に戻りおやすみの時間だ。 レストランで別れても良いのに、吉羅は部屋まで送ってくれる。 それが香穂子には切ないときめきを抱かせる。 こんなにも優しくしないで欲しい。 本気になってしまうから。 再びあの苦しみを味合うかと思うと切ない。 「おやすみ。今夜もしっかりと休みなさい。明後日にはマンションに移動して貰うからそのつもりで」 「解りました。本当に何から何まで有り難うございます。この恩は必ず返します。本当によくして頂いて有り難うございます」 香穂子はこころから吉羅に感謝をしながら、頭を何度も下げた。 「…有り難うございます。本当に…。あなたには頭が上がらないです」 「気にしなくても良いんだ…」 吉羅はクールに何でもないことのように言うと、香穂子を何処か冷たいまなざしで見つめてきた。 「…君が逃げてしまうことを私はしたのだからね。それは当然かな…。君にはきちんと罪滅ぼしをしなければならないからね」 罪滅ぼし。 その言葉が香穂子の胸を切なく突いてくる。 罪滅ぼしだなんてこんなにも切なくて苦しい事実はない。 今は愛など何もないと言われているような気がして、堪らなかった。 今はもう愛されていないのは解ってはいたが、それはかなりきつい事実だった。 「…じゃあ、また明日」 「はい。有り難うございました」 香穂子が頭を下げた後、吉羅は静かに立ち去る。 「…吉羅さん…」 香穂子は吉羅が立ち去った後小さく溜め息を吐くと、恋情が滲んだ声でその名前を呟いた。 今も昔も本当に大好きな男性。 それは変わらない。 吉羅のことが本当に好きで好きでたまらない。 恋心なんてとうに失ったと思っていたのに、吉羅と再会することで、簡単に蘇ってしまった。 いや、本当は蘇ったのではないかもしれない。 ずっと燻っていた恋情が顔を出したに過ぎないのだ。 本当に大好きだったから、吉羅の子どもを産んだ。 妊娠中も苦労して、その上難産だった。 だが、そんな苦労も吹き飛んでしまうほどに、吉羅の子どもを得た事実は大きかった。 香穂子は、ベッドに腰を掛けると、瞳に涙を滲ませる。 吉羅とはいずれは対峙しなければならない。 そのためには恋情など捨て去らなければならないのだ。 その想いがあれば、上手く対処することが出来なくなってしまう。 それだけは嫌だった。 香穂子は深呼吸をしてからシャワーを浴びにバスルームへと入る。 総ての甘い想いを、今は洗い流したかった。 吉羅の会社が所有するマンションに移動する日がやってきた。 香穂子は僅かな荷物を持ってホテルを出る。 ホテルでの快適な休養生活のお陰で、香穂子の顔色はかなり良くなっていった。 吉羅が自らの運転で、香穂子をマンションへと連れて行ってくれる。 それが嬉しい。 「…有り難うございます。本当に…。早く元気になれるように頑張りますね」 「無理はしなくても良い。君はゆっくりと休養すれば良いんだから」 吉羅が運転する車は、横浜でも高級住宅街として知られる山手部分へと向かう。 港が見えるとても美しい地域だ。 吉羅の車は、セキュリティが施された、とても瀟洒なマンションの駐車場に停まる。 大きさの割には戸数が少ない、メゾネットタイプの高級マンションだった。 これならば接待に使っても恥ずかしくないだろう。 「凄いマンションですね…。接待に使われるところですから、余り長居しないように、早く出ていけるように頑張りますね」 そうだ。こんな贅沢にいつまでも酔い痴れていてはならない。 「…そんなことは今考えなくて良いんだ」 吉羅は不機嫌そうに言うと、荷物を持って先に行ってしまう。 香穂子は唇を噛み締めると、吉羅の後を無言で着いていく。 怒っているのが背中から滲んでいる。 吉羅は怒ってばかりいるのに、どうして優しいのか。 香穂子にはその心理が分からなかった。 |