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香穂子がいなくなるなんて認めるわけにはいかない。 香穂子を傷付けて後悔して、ずっと探し続けてきた。 だからもう失いたくはないのだ。 掴まえたら、どんな状態であったとしても離さないつもりだった。 自分でもしつこいとは思う。 香穂子が見つからない余りに他の女と付き合ってみたが、ダメだった。 別れてから二年経過していたにもかかわらず、やはり忘れられなかったのだ。 吉羅は、香穂子を得るためにはどのようなことでもするつもりでいる。 だが、自分の身辺もきちんと整理をしておかなければならないが。 香穂子を連れて、マンションの部屋に案内する。 ここならば、香穂子も落ち着いて子育てが出来るだろうから。 重要なのはそれだ。 それ以上のものは、今の香穂子には必要ないだろうから。 吉羅は、香穂子を部屋に招入れたと同時に、嬉しそうな驚きが滲んで溜め息を聞く。 嬉しくてしょうがなかった。 こんなにも素敵な部屋が用意されているなんて、思ってもみなかった。 メゾネット形式の部屋は、白を基調としたデザインで明るくてとても綺麗だ。 まるでハリウッド映画にでも出てきそうな部屋を、香穂子はうっとりと見つめた。 「…気に入ったかな?」 「有り難うございます。ここに少しの間でもいられるのが嬉しいです」 「ヴァイオリンも弾けるよ。ここは防音がしっかりとしているからね」 吉羅は、香穂子がヴァイオリニストを目指して頑張っていたことを覚えていてくれた。気遣いをしてくれたのが何よりも嬉しい。 こんなに優しくされると、更に深く愛してしまうではないか。 香穂子は今にも泣きそうになりながら、吉羅を見上げた。 「…有り難うございます…」 「ここで存分に弾くと良い。君は本当にヴァイオリンを弾くのが好きだったからね」 「…大好きです今も。有り難うございます」 香穂子は深々と頭を下げると、吉羅を涙目で見つめた。 「ではここを案内しようか」 吉羅は香穂子を連れて、家の中を案内してくれる。 オープンなリビングダイニング、広々としたセミクローズのキッチン、浴室やお手洗い、そして書斎と居室がひとつ一階部分にあり、二階には広めの寝室でもうひとつ部屋があった。 暖かみもなく、スタイリッシュ過ぎて、生活感もなかった。 流石は企業が保有する住宅だ。 「後、冷蔵庫のなかの食材も、ここにある総ての備品は自由に使っても構わない。特に食材は、置いているままでは腐ってしまうからね」 「有り難うございます」 こんなにも立派なマンションに少しだけでも住むのは、やはり気後れしてしまう。 「有り難うございます。本当に…。何度、吉羅さんに有り難うって言っても足りないぐらいに感謝しています。早く、子どもとふたりで自立していけるように頑張りますね」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅は何故だか不機嫌な顔になる。 「…好きなだけここにいたら良いんだ」 「有り難うございます。…ですが、これ以上は本当にご迷惑をかけるわけにはいきませんから」 香穂子は、自分を戒めるためにも言う。 これ以上吉羅を好きになってはならないと。 これ以上吉羅に迷惑をかけてはならないと。 「今夜はゆっくりと眠りなさい。ここだと気兼ねなく休むことが出来るからね」 「有り難うございます。そうさせて頂きます」 吉羅は頷くと、玄関に踵を返した。 「それでは私は帰る。明日は先生がやって来るから、きちんと診察を受けてくれたまえ」 「はい。色々と有り難うございました」 香穂子は吉羅を玄関先まで送りに行く。 吉羅が帰ってしまう事実が、何故だかとても寂しい。もう少しだけで良いから、そばにいて欲しいだなんて虫の良いことを考えてしまう。 「では、おやすみ。ゆっくりと休みなさい」 「…はい…。おやすみなさい」 吉羅がドアを閉めて帰ってしまうと、寂しさの塊になってしまったような気分になる。 本当に寂しい。 香穂子は溜め息を吐くと、二階部分にある寝室に入る。 吉羅にここを使うように言われたのだ。 持ってきた荷物のなかで、使うものだけをベッドのサイドテーブルに置いた。 ホテルには置くことが出来なかった、息子の写真を飾る。 ふたりで写ったものだ。 その後、冷蔵庫を覗き込んで、幾つか食材を拝借して簡単な料理を作った。 一人分だけを手早く作って食べた後、お風呂に入る。 やはりホテルよりは落ち着くが、息子がいないと喪失感は埋めることは出来なかった。 息子を迎えに行く日がやってきた。 香穂子の顔色も元に戻り、ほぼ健康の時と同じ状態になった。 これで息子が帰ってくれば、直ぐにでもアパートに戻ることが出来る。 吉羅には、いつかこの恩返しをしなければならない。 本当に世話になったのだから。 とは言え。 先ずは大きな山を乗り越えなければならない。 とうとう吉羅に息子の姿を知られてしまうのだから。 しらを切り通す覚悟は出来ているが、それでも上手くいくかどうかは、正直言って解らない。 香穂子は緊張で吐きそうになりながら、吉羅が来るのを待った。 母親らしく見えるように、白地に薄いブルーの大輪の花がプリントされているワンピースを着て、髪は上げた。 化粧も薄くする。 息子と久しぶりに逢うのだから少しは綺麗にしたかった。 暫くすると、吉羅がマンションに現われた。 香穂子がドアを開けると、吉羅は神経質そうに目を細める。 「準備は出来ているようだね。行こうか」 「はい」 吉羅は、まるでこれがビジネスだとばかりに冷たく言うと、直ぐに駐車場に向かって歩き出す。 香穂子はその後を様子を見ながら着いて行った。 車に乗り込み、息子がいる施設に向かう。 いよいよ息子との対面出来るのだ。 それが嬉しいと同時に、どうしようもないほどに緊張していた。 吉羅は車の中で全く話さない。 何処か冷たい緊張すら感じていた。 暫く黙っていたが、吉羅はようやく口を開く。 「もうすぐ施設だ」 「はい…」 緊張の余りに自然と背筋が伸びた。 子どもと吉羅を見れば、誰もが直ぐに親子関係を認めるだろう。それほどまでにふたりはよく似ているのだ。 車がゆっくりと施設の駐車場に停まると、香穂子の緊張はピークに達していた。 吉羅は先に降りると、香穂子をエスコートするように車のドアを開けてくれる。 「香穂子、降りなさい」 「はい…」 吉羅に導かれて車から降りると、香穂子はその後を着いていった。 歩く度にかなり緊張してしまう。 息子に逢えるのは嬉しい。 逢ったら先ずは思い切り抱き締めてあげたかった。 吉羅とふたりで受付に行くと、直ぐに応接室に通された。 「日野香穂子さん、直ぐに息子さんをお連れしますからね。お待ち下さい」 「はい」 初老の女性職員は一緒にいた若い女性に連れてくるように指示を出している。 愛する息子がやってくる。 それだけで緊張と幸せが同時にやってくる。 早く逢いたい。 離れていた時間の苦しさを想い、香穂子は切なさを感じていた。 まだよちよち歩きの息子と離れ離れになってしまったことが、本当に辛い。 足音が近付いてくる。 「さあ、暁愛くん、ママとパパが待っているわよ」 ドア越しに聞こえた言葉に、香穂子は心臓が飛び上がりそうになる。 ママとパパ。 吉羅にこれほどまでに似ているから、そう思うのだろう。 だが姿を現した息子を見た瞬間、そんなことは忘れて両手を広げた。 「あきちゃん…!」 抱き締めた瞬間、暁愛は香穂子の腕のなかで小さく泣いた。 |