9
一瞬、香穂子の息子が見え、吉羅は息を呑む。 呼吸を忘れてしまうかと思うほどに、香穂子の息子の残像は強烈だった。 まるで小さな頃の自分に遭遇してしまった気分だ。 香穂子の子どもはまだよちよち歩きだ。“赤ちゃん”のイメージではないが、まだまだ小さかった。 自分の息子だ。 それ以外にはあり得ない。 吉羅はふたりにゆっくり近付いていく。 この世で最もかけがえのないふたりだ。吉羅にとっては。 香穂子の世界には、吉羅などおらず、息子とふたりだけしか存在していないように思える。 それが吉羅には切なくて悔しかった。 息子。 自分の血を分けた息子。 そして誰よりも愛する香穂子が産んでくれた大切な子どもなのだ。 これ以上に素晴らしいことはないと、吉羅は思わずにはいられなかった。 胸が痛いほどに感動している。 ふたりごと抱き締めて、もう放したくはない。 吉羅が更に近付くと、職員が微笑ましそうに見つめてきた。 「良かったですね。本当に。息子さんはお父さんにそっくりで…」 うっとりと微笑ましそうに呟く職員に、香穂子の背中が震える。 母親としての本能だと思った。 ようやく我が子を抱くことが出来た。 その喜びの余りに、香穂子は熱い涙をひとしずく流す。 本当に抱き締めることが出来て嬉しい。 こんなにも素敵なことは他にない。 こころから愛した男性の子ども。 産みたくて産んだかけがえのない我が子だ。 もう二度とこんなことがないように、香穂子はしっかりと抱き締めた。 「…ママ、ママ…、しゃびちかった…」 息子の舌足らずな言葉に、また涙が流れた。 「ママもとても寂しかったよ。あきちゃんを抱き締めたかったんだよ…。ずっと…。あきちゃん…、大好きだよ…。ママの病気も良くなったから、またあきちゃんと一緒に暮らせるからね…」 「…うん」 香穂子が息子を抱き込むと、吉羅の気配を感じた。 恐らくは自分の息子だと気付いてしまったのだろう。 こんなにも吉羅に似ているのだから当然だ。 本当によく似ている。 やはり遺伝子には逆らえないということなのだろう。 「良かったですね。本当に。息子さんはお父さんにそっくりで…」 職員の言葉に、香穂子はその背中を強張らせる。 職員が親子関係を肯定してしまえるほどに、吉羅と息子は似ていたのだから。 「…香穂子…」 名前を呼ばれてびくりとする。 ここでこのままじっとしていても不審に思われるだけだろう。 香穂子は息子から一旦抱擁をとくと、抱き上げた。 「あきちゃん、皆さんに御礼を言いましょうね。ママとあきちゃんが一緒に暮らせるようにと、お世話をして下さった方々だから」 「…あい」 香穂子は涙で顔をぐちゃぐちゃにさせながら、職員と吉羅に向き直る。 「本当にお世話になりました。有り難うございます」 香穂子が深々と頭を下げると、息子も真似をするように「…ありあとまちたっ!」と言いながら、頭を下げた。 「本当に良かったですね」 職員たちはホッとしたかのように、香穂子と暁愛、そして吉羅を見つめた。 「本当にお世話になりました。有り難うございます」 吉羅もまた、丁寧に頭を下げて礼を言う。 嬉しくもあり、どこか緊張もする、複雑な想いを香穂子に抱かせた。 「それではお世話になりました。有り難うございました」 遺伝子的には完全なる家族である三人で、再度礼を言った後、施設を出た。 途端に緊張で躰が震えてしまう。 こんなにも嫌な緊張は、久し振りかもしれなかった。 「香穂子、一旦、家に戻ろう。そして食事に出た後に、話し合いをしなければならないと思うが…。君には意味が解っているはずだ」 吉羅は淡々と話をする。 吉羅が何を言いたいのか、薄々、気付いている。 だが、認知も養育費等も何も求める気はなかった。 これからもずっと、暁愛とふたりで慎ましく暮らして行こうと思っていたから。 バギーカーのシート部分が外れてチャイルドシートになるものを、慈善バザーで買っていたから、香穂子は それを車の後部座席にセットする。 香穂子は息子と一緒に後部座席に乗り込んだ。 「ママ! こんなしゅごいブーブー初めてっ! しゅごいっ!」 暁愛は母親との再会の余韻を忘れてしまい、すっかり車に夢中になってしまっている。 「そうだね。おじさんにはいっぱい御礼を言わないといけないからね」 “おじさん” そのフレーズに、吉羅の背中が強張る。 だが、いきなりお父さんだなんて、呼べる筈もなかったし、呼ぶつもりもなかった。 吉羅は将来、相応しい女性と結婚するだろう。婚外子の存在は、決して許されるものではなかった。 だからこそかたくなに認めてはならない。 それが一番の愛の証だと香穂子は思った。 「…“おじさん”ね…。いずれそこから卒業したいものだがね」 吉羅は何処か皮肉混じりの声で言うと、香穂子を苦笑いさせた。 香穂子は返事をすることなく、ただ黙っている。 吉羅は暁愛の父親になることを望んでいるのだろうか。 それともただの気紛れなのだろうか。 かつて香穂子を愛した時のように。 気紛れであったならば、それを認めるわけにはいかない。 自分は傷ついても構わないが、息子だけは傷つけたくはなかった。 直ぐに、当座にと吉羅が用意をしてくれたマンションに到着する。 暁愛は不思議そうに香穂子を見つめた。 「此所どこ? おうちじゃない」 「君とお母さんの新しい家だ」 香穂子が言う前に、吉羅が言い切る。 「…少しの間だけのおうちだよ。また、ふたりで暮らしていたアパートには戻るんだよ」 香穂子はやんわりと息子に事実を伝えたが、それが吉羅にはかなり気に入らないようだった。 「…君がいたい限りはずっと居ても構わないんだ」 吉羅は不機嫌な声で言うと、車から降りた。 直ぐに香穂子側のドアを開けてくれる。 「有り難うございます」 香穂子はチャイルドシートのベルトを外した後、先に降りて息子を下ろす。 「シートは私が外そう」 「有り難うございます」 吉羅は手早くシートを外した後、バギーカーに再び装着させる。 「有り難うございます」 「あーとごます」 息子が香穂子の真似をして礼を言うと、吉羅のまなざしが少しだけ甘く弛んだ。 「…では、行こうか」 「…はい」 香穂子は息子を抱いているのを、吉羅は何処か羨ましそうに見ている。 そのまなざしが胸に迫ってしょうがなかった。 家の中に入り、暁愛は下ろした途端に走り始める。 いつも住んでいる家よりもかなり広いからだろう。 「ママ! ちろい!」 「そうね。広いね」 暁愛を見ていると、本当に嬉しそうにしている。 香穂子が目を細めて見つめていると、吉羅が横に立った。 「…香穂子…、あの子はいつ生まれたんだ?」 「私たちが別れてから七か月後です…」 香穂子はそれだけを言うと、押し黙った。 吉羅の息子であることは、既に解っているのだろう。吉羅はやはりとばかりに頷く。 「私たちは用心をしてはいたが…、それは絶対とは言い切ることは出来ないからね」 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子を見る。 「…君を抱いている時、夢中になる余りに予防措置を施さなかったこともあったからね…」 吉羅は香穂子をじっと見つめると、問い質すような光を向ける。 「妊娠は…いつ解ったんだ?」 「あなたと別れて三週間後です…。気付く余裕がなかったから…」 香穂子は苦々しい気持ちで言うと、視線を伏せた。 |