*追憶*

10


 香穂子が息子を見ている瞳はとても温かく、そして綺麗だった。
 吉羅は、その瞳に自分を映してくれたら良いのにと思わずにはいられない。
 こんなに優しくて慈愛のあるまなざしは、他にないのではないかと思う。
「…香穂子、妊娠したことをどうして黙っていた…」
 本当は香穂子とは別れたくはなかった。
 あの時に妊娠したことを言ってくれてさえいれば、事態は変わったかもしれない。
「…あなたに言うべきだと思いましたし、そう試みましたが…」
 香穂子はそこまで言うと、黙り込んでしまった。
「ママ! おもちゃっ!」
 息子が香穂子のワンピースの裾を引っ張って、ねだるように見つめる。
 香穂子の愁いを秘めた想いはそれで破られた。
「おもちゃは持ってきたよ。取りに行こうか?」
「うん!」
 息子の手を引くと、香穂子は寝室へと向かう。
 吉羅もその後を追った。
 香穂子と息子の触れ合いを、見逃したくはなかったから。
 香穂子は寝室にあるスーツケースの中から、タオル地で作られたおもちゃを取り出す。
 それは車の形をしていて中には鈴が入っている。
 不器用に縫われているところを見ると、恐らくは香穂子の手作りなのだろう。
「おもちゃっ!」
 息子は嬉しそうに手を取ると、おもちゃをゆらゆらと揺らしている。
 本当に気に入っているようだった。
「香穂子、それは君が手作りをしたものなのかね?」
「私が作りました。下手くそだからこの子には申し訳ないと思ったんですが…」
「…そうか…」
 吉羅は、これほどのおもちゃは息子にとってはないだろうと思いながら、じっと様子を見ていた。
 今日、突然、父親になってしまった。
 父親になる心構えもないままに。
 だがそれは不快なことではなかった。
 吉羅は、きちんとした形で子どもの父親になりたいと思う。
 自分の分身がいる。
 しかも最も愛する女性が産んだのだ。
 これほどの感動は他にはない。
 吉羅は父親になりたいと強く願わずにはいられない。
「…良い時間になったら、食事に行かないか? 今夜は君も支度は大変だろう?」
 吉羅が声を掛けると、香穂子は考え込むように一瞬固まってしまった。
 恐らくは、話し合いへの恐怖からきているのだろう。
「暁愛の好きな物は何かね?」
「ハンバーグが大好きなんです」
「ハンバーグ…ね。では、美味しいハンバーグが食べられる店に行こうか?」
 吉羅がハンバーグという言葉を口にすると、暁愛は嬉しそうに飛び上がった。
「バーグ! 食べるっ!」
「それは良かった。もう少ししたら、ハンバーグを食べに行こうか。それまでは少し遊んでいようか」
 吉羅が、息子と同じ目線に下がると、にっこりと微笑んでくる。
 そのイノセントな笑みに、吉羅は息子を思い切り抱き締めたくなった。
 だが、今はそれを出来ない。
 きちんと香穂子に許可を得てからでなければ。
 今はデリケートな関係である以上は、むやみにスキンシップは出来なかった。
「じゃあ遊ぶ。広いところにいく!」
「じゃあ行こうか」
 香穂子はまるで吉羅を避けるように言うと、息子を連れてリビングへと向かう。
 そのかたくななこころを先ずは解きほぐさなければならないと、吉羅は思った。

 息子と遊びながら、香穂子は吉羅の視線を密かに気にしていた。
 吉羅は明らかに息子を欲している。
 それは嬉しいことであるかもしれないし、子どもの父親としてはごく当たり前のことかもしれない。
 香穂子は吉羅の視線を避けるようにして、息子と遊ぶ。
「ママ、こうやってあしょべるのがうれちいよ。もう、からだ大丈夫? ぽんぽんとか、おつむとか痛くない?」
 子どもが舌足らずで言うのが、可愛くてしょうがない。
 本当に今すぐ泣き出してしまいそうなぐらいに愛しい存在だった。
「…もう、大丈夫だよ。ここに少しだけお世話になったら、おうちに帰るからね」
 香穂子の言葉に、息子はしょんぼりとした。
「…しょうなんだ。おうちに帰るんだ…」
「帰らなくて良いんだ。君達がいたいだけ、いれば良いから。使いたいだけ、使えば良いから」
 吉羅は屈むと、視線を息子に送った。
「ほんちょ?」
「ああ。本当だ。好きなだけここにいなさい」
「ありがと!」
 暁愛はすっかりここで長い間住む気になってしまっている。
 それは出来ない。
 香穂子は息子の肩に手を置くと、じっと見つめた。
 信じていて後でがっかりとさせるよりは、今きちんと言い聞かせてあげなければならない。
「ここはママの躰が良くなるまで、吉羅さんにお借りしているだけなの。だから、ママが元気になったら、あきちゃんとママは、前のおうちに戻るんだよ」
「…しょうなんだ」
 がっかりとしている息子を見ると胸が痛い。
 だが更にがっかりとさせるよりは傷は浅いと、香穂子は思った。
「香穂子…」
 吉羅はふたりを見つめて、ただ溜め息を吐いた。
「食事に行こうか。この子が好きなだけハンバーグを食べられるレストランに」
 吉羅は息子と目線を合わせると、愛しそうに見つめる。
 息子も吉羅が好意的であることを知ると、にっこりと笑みを浮かべた。
 危険だ。
 危険極まりない。
 香穂子の想いをよそに、息子は父親である吉羅に手を差し延べた。

 こんなにも愛らしい子どもの笑顔を見たことがないと、吉羅は思わずにはいられない。
 子どもがこんなにも愛らしく、愛しいものだとは思ってもみなかった。
 差し延べられた手を、吉羅が握り締めると、息子はにっこりと笑う。
 屈託なく笑う姿は、何処となく香穂子の面影があった。
「さあ、行こうか」
 吉羅は子どもに優しく呼び掛けると、しっかりと頷いてくれる。
 なんて愛しい存在なのかと思った。
「…行こうか、香穂子」
「はい。吉羅さん」
 吉羅と息子のすぐ後ろを、香穂子はゆっくりと歩いていく。
「ママ! ママもお手手を繋ごうよ!」
「はい」
 息子は香穂子にも手を伸ばす。吉羅にはついぞ見せない笑みで、香穂子はその小さな手を取った。
 やはり母親なのだろうと思う。
 こうして親子水入らずで手を繋ぐと、繋がりを感じてとても嬉しく感じた。
 このままふたりを離したくはない。
 すぐにでも一瞬に暮らしたいと思わずにはいられなかった。

 吉羅が車を出してくれ、レストランへと向かう。
 息子はと言えば、かなり興奮しているようだった。
 こんなにも無邪気で楽しそうにしている息子の姿を見るのは久し振りだと、香穂子は思った。
「ママ、このブーブーしゅごいよっ!」
「そうだね」
 いつもは車を乗る生活なんてしてはいないせいか、息子は本当に嬉しそうにしている。
「あ! でんちゃっ! でんちゃーっ!」
 電車が走り去るのが遠くに見えて、息子の興奮はピークに達した。
「香穂子、この子は電車が好きなのかね?」
「乗り物なら大概は…」
「そうか。みんなで新幹線に乗って旅行をするというのも楽しいかもしれないね」
 吉羅を交えて旅行をする。
 あり得ない。
 あり得ないというよりは、危険極まりない気がする。
 吉羅と一緒に旅行などしたら、それこそ息子を取られてしまうのではないかと思った。
 吉羅に去られて、息子まで奪われてしまったら。それこそこのまま消え去りたいと思うほどのショックだろう。
 香穂子が表情を強張らせているのに気付いたのか、吉羅はそれ以上はその話題に触れては来なかった。
「レストランにもうすぐ着くよ」
「…はい」
 対峙しなければならない。
 吉羅と。


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